|
翌朝。
珍しい事にいつもどんなに起こされてもなかなか起きないはずの慎吾は、その日の朝、
異常に早起きをして既に、慣れない手つきで朝食の支度までをし始めていて。
「おはよ・・・・って言うか、え?慎吾?」
キッチンに立つ後ろ姿に、吾郎は驚いたように声を上げた。
「あ、吾郎ちゃん、おはよう。今朝は俺がやるからさ、ゆっくりしててくれていいよ」
そう言いながら手にしたキャベツの葉をダイナミックに手で千切り、ボウルの中に放り
込んで行くのを見て、吾郎の顔が青褪める。
「え、と、さ・・・1つ聞いていい?」
「何?」
「それはこれからどんな料理になるの?」
「え?サラダだよ。これにドレッシングをかけて出来上がり!」
ざー・・・・っと。
慎吾の得意満面の笑顔に、吾郎は音を立てて血液が下がって行く感覚を知る。
「貸しな!」
慎吾の手からキャベツと、ついでに調理台の上に置かれた耐熱ボウルも自分の方に引き寄せ、
吾郎が慎吾の身体を押し退けるようにして、キッチンに立つ。
「気持ちは有難いけど、キャベツとレタスの区別もつかないお前の作ってくれる料理を
有難がって食べられるほど、僕、人間、出来てないんだよ」
ふぅ、とわざとらしい溜息を慎吾に聞かせて、吾郎はそれでも、慎吾がしていたのと同じく、
キャベツの葉を千切り出し。
「何、俺とおんなじじゃん!」
その様子を吾郎にくっつくようにして覗き込んでいた慎吾が不平を言う。
「ここからがお前の作るのとは違うんだよ」
「何?何になんの?これ」
「って言うか、そこに立ってられると凄い邪魔、なんだけど?」
「えー、手伝うよ、俺。手伝わせてよ」
吾郎に擦り寄るようにして、背後から腕が伸びて来る気配を辛うじて察知する事に成功した
吾郎は、そんな慎吾の腕をよけるようにして
「それじゃあ、冷蔵庫の野菜庫から人参とブロッコリーとプチトマト出して」
そんな指令を慎吾に飛ばし、自分は木製ストッカーの前にしゃがみ込む。
「え?何と何と何」
突然の事に冷蔵庫を開けた慎吾がもう一度、確認を求め。
「人参とブロッコリーとプチトマト」
復唱された吾郎の声に「イエッサー!」慎吾が調子の良い相槌を返した。
「出したらシンクで軽く洗って人参は1センチ幅ぐらいの輪切り、ブロッコリーは小房に
分けて・・・・って、出来る?」
「あのさ・・・1個ずつ言ってよ」
高校を卒業した吾郎が一手に家事全般を引き受けるようになってからは、すっかりキッチンとも
縁の薄くなってしまった不慣れな慎吾に、それらを頼む、と言う事はつまり、そういう事で。
「・・・・だよね」
洩れそうになる溜息を少しだけ飲み込み「じゃあ、人参、担当ね?」慎吾に包丁と普段は
余り使っていない方の小型のまな板を差し向けて。
他の食材の下拵えは自分が引き受ける。
「輪切りが終わったら、これで型抜きして」
適当な頃合を見計らって手渡された型抜きの型を手に、慎吾は一瞬、絶句する。
「え、と吾郎ちゃん?これは何かの間違い、とかじゃないよね?」
「何が?」
「いや、俺的にハート型の人参でなくても別に・・・・」
「じゃあ、こっち」
吾郎があっさりそう言って、手の中の型は今度は星型に変わっていた。
・・・・・・丸のままじゃなんでダメなの?
ささやかな疑問を胸の中に仕舞い込み、慎吾は黙々と作業を続けた。
そうして、小房に分けたブロッコリーに、一口サイズにカットされたこかぶと、皮を剥いた
小玉ねぎ、半分に切ったプチトマトを先ほどのキャベツの入った耐熱ボウルに、順々に放り
込んで行く。
「手馴れたもんだねー」
自分が人参の下拵えをしている間に、他の食材の準備を全て整え終えた吾郎に、改めて、
そんな賞賛の言葉を添えて。
「いや、別にそんな大した事でもないよ」
むしろ、ちゃっかり1番、手の掛かりそうな仕事を1つ、慎吾に押し付けてしまった吾郎は
当然、謙遜するでもなく、むしろ適当にあしらっている感を如実に表わしつつ、既に用は
済んだと言わんばかりに、慎吾に向って
「学校、行くんだろ?いい加減、支度して来れば?」
冷めた口調でそんな言葉掛けをし。
「えー、まだ、大丈夫。時間あるもん」
べったりと。
今度は吾郎にかわされる前に、背中から抱き締めるようにして、その細い身体を自分の腕の
中に拘束する。
「邪魔するなよ。これからまだ、みんなの弁当作ったりだとか、俺はお前と違って忙しい
んだから」
剣もほろろと言うのは、こういう事を言うんだ、と。
慎吾はそんな吾郎のつれない態度を、少し恨めしく感じる。
・・・・昨日は・・・・・・
ふと、拓哉に体重を預けるような距離感で、2人並んでソファに腰を下ろしていた後ろ姿が
脳裏をよぎり。
・・・・拓哉兄貴にはさー・・・・あーんな風にして甘えたりだとかもするくせにぃ・・・・・
と、その光景を盗み見していた現実はしっかり棚に上げて、そんな不平を胸の中に呟き続ける。
「ねぇ、吾郎ちゃん・・・俺ももっと手伝うってばー」
両腕の中に拘束した身体を軽く揺すり、耳元に唇を寄せて他愛もないセリフを思わせ振りに
囁いてみる。
「悪いけどいい。自分1人でする方が絶対に速いから」
あっさりと切り捨てられ、腕の中でそろそろ本気の抵抗を示し始める吾郎の動きを感じる。
「お前、何やってんの?」
背後にいきなり冷気と炎を感じ、慎吾はパッ!!と両手を痴漢に間違われそうになった時の
ような勢いで上に上げて。
「あ、拓哉兄貴・・・おはよ」
慎吾の拘束を逃れ、後ろを振り返った吾郎が見た目にはほとんど分からない程度に、それでも、
すぅ・・・っと頬に淡い朱を滲ませ。
極間近にいた慎吾には、けれど、そうした吾郎の変化が感じられて、益々、面白くない。
「おぅ」
きっちりと慎吾にきつい一瞥をくれたその直後、にやりと幾らか尊大に見えなくもない、
けれど、それはむやみに笑み崩れそうになるのをわざとらしく戒めているようにしか
見えないような笑みで、拓哉は吾郎から掛けられた声に頷き。
当たり前のように吾郎の隣に並ぶ。
「ん?温野菜にすんの?それ」
「うん、これからレンジに入れるとこ」
「で?後は?」
「昨夜の残りをアレンジしたやつ、温め直したりするぐらいだけど」
「んじゃ、軽くそれに合うスープでも作るか」
「いいよ、俺やるし。拓哉兄貴は座っててよ」
「んー、俺、今日、現場近いし、直行直帰でいいっつわれてるし、いっつもお前1人に
押し付けてんのも、なんだしな」
「別に押し付けるとか、そういう問題じゃないじゃん。単なる役割分担なんだからさ、
拓哉兄貴もゆっくり出来る時にはゆっくりしてなよ。コーヒーでも淹れるから」
「そんじゃあ、ちゃっちゃと2人で済ましちまって、その後、お前も一緒にゆっくりすりゃ
いいじゃん」
「・・・・ん・・・ありがと」
そんな2人のやり取りを、2人からは完全に忘れられてる事だけは哀しいほどに確信しつつ、
眺めていた慎吾が、不貞腐れた顔のままその場を離れ。
わざとらしく音を立ててダイニングの椅子を引いたそこに、剛が2階から降りて来、慎吾の
隣の椅子を引いた。
「た、拓哉兄貴・・・・怒ってる?」
既にそこに居た慎吾と、キッチンに立つ拓哉に後ろ姿を認めて、剛が極小声で慎吾に問い
掛ける。
緊張感をありありを滲ませた剛の様子に、そう言われれば・・・と慎吾も昨夜の恐怖を
脳内に呼び起こされた。
「・・・・・今はそうでもなかったっぽい」
吾郎をきっちり背中からホールドしていた事に対して、睨みを効かせるような鋭い視線を
打ち込んでは来たけれど、それ以外のものは、そんなには強く感じられなかった。
吾郎の手前、敢えて抑えて見せているのか、その辺は定かではないにしても。
「昨夜の覗き・・・絶対に拓哉兄貴・・・だけじゃなくて、吾郎さんにもバレバレだと
思うんだけど・・・・・・」
剛の不安そうな声音に、確かに今朝のあの吾郎の態度は、いつもにも増して冷気を感じさせ
られないでもなかったけれど。
|