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「昨夜のアレ・・・まだ、痛む?」
吾郎の隣に並び、スープの具材にするための玉ねぎをみじん切りする軽快な包丁の音に
紛らせるようにして、拓哉は器用な手つきはそのままに、吾郎の耳に唇が触れるほど
近づける。
「ちょ・・・・!」
普段から比較的、そんな風にして近い距離になる事も少なくないけれど、それでも、余りに
近過ぎる距離に驚いたのか、吾郎が僅かに身を捩り。
「だ、いじょうぶ・・・もう別に・・・・」
「そ、か・・・・悪かったな、いきなり」
「・・・・驚いただけ、だから」
俯いて、小型のボウルの中でドレッシングをかき混ぜる吾郎の声が、小さく揺れる。
「・・・・それで?だから今朝は手伝ってくれたりだとかしてる訳?」
窺うように少し下の角度から目の中を覗き込まれて、拓哉はその視線をかわすように多少、
目を泳がせ。
「いや、ま・・・そう言うんでもないけどな」
「ふふ。珍しいから、拓哉兄貴が手伝ってくれる、とか言うのもさ」
「そうか?」
「うん」
「まぁ、たまにはいいだろうよ」
「助かるけどね」
「だろ?」
並べばほとんど変わらない背丈の2人なのに、吾郎が首を傾げて下の角度から投げ掛ける
視線を拓哉が、極僅かに高い位置から受け止めるようにして。
「ったく!朝っぱらから何やってんだよ、あの2人はっ!」
「って、朝ご飯の支度でしょ?」
朝ご飯の支度をするのに、どうして、あんなに至近距離まで接近して、しかも、耳元で
小さく言葉を交し合うのか、それがどうしても慎吾には理解出来ない。
「おら!そこの2人!ヒマだったら食器並べるぐらい、手伝ったらどうよ?」
キッチンから拓哉の指令が飛んで、剛が慌てたように立ち上がる。
食器棚の前に立った剛が、その隣に並んだ慎吾に
「でもさ、何か今朝の拓哉兄貴さ、言うほどは機嫌、悪くなさそうじゃない?吾郎さんの
手伝いしたりだとかして、むしろ、機嫌いいっぽい感じ?」
ちょっと安心した風に囁き。
「いや、内心でかなりヒヤヒヤもしてたんだけど・・・案外、昨夜のアレ、2人に聞こえて
なかったのかな?」
そんな楽天的な事まで言い出す剛に、慎吾は少し呆れた溜息を洩らしつつ。
何か良くない予感に苛まれてしまう。
「ねぇ、吾郎ちゃん?」
夕飯の支度を粗方終えて、テーブルに食器を並べたりしているその横にへばりつくように
して。
弟の正広と一緒に拓哉が入浴している、今のこの瞬間が吾郎に接近可能な限られた時間でも
あって。
決まった席順に、意外に手際良く準備を整えて行く吾郎の手元を目線で追いながら、つかず
離れずの距離を保って後ろから声を掛ける。
「何?」
「昨夜、拓哉兄貴と何かあった?」
ガシャン!と。
テーブルに皿を置く際、それまでよりも一際、大きな音がし。
「な、何かって、何だよ?!」
感情を余り大幅に表面に表わす事の少ない吾郎の、こんな声を聞くのも久し振りな気がした。
余りに予想外の露骨な反応に、逆に慎吾の方が驚いてしまいそうなほどで。
「あったんだ、何か」
「な、何もない!何もないよっ!何、言ってんの!つまんない事言ってないで、手伝うとか
すれば?!」
「いいよ。何、手伝おうか?」
「いい!何もしなくていいよ。呼ぶまで部屋でゲームでもしてればいいじゃん!」
「ねぇねぇ、吾郎ちゃん?昨夜、兄貴と何があったの?ねぇ、教えてよぉ」
吾郎の手元から皿を引き取り、それを順に並べながら、問いだけを吾郎に投げ掛ける。
「だから!何にもないって言ってるだろっ、さっきから!」
「だってさぁ・・・あからさまにおかしいんだもん、吾郎ちゃんのその態度、とか?」
「・・・・・・・・・」
「昨夜、まーくんの声、吾郎ちゃん達にも聞こえたはずだよね?てっきり、凄い勢いで
拓哉兄貴がさ、怒鳴り込んで来るかと思ってたのに、昨夜は来なくて、じゃあ、今朝かと
思ってたけど、今朝も割りと機嫌良さそうな雰囲気だったし、吾郎ちゃんは吾郎ちゃんで
何かあったの?って聞いただけで取り乱すし。ね?これで何もないって思う方が甘いよね?」
「・・・・・・煩いな」
慎吾の説明に、吾郎はうんざりしたように肩を竦めた。
この弟の粘り強さと言うか、しつこさにはこれまでも辟易させられる事も少なくなくて。
昨夜・・・と言われても、そんなにしつこく食い下がって問い詰められるほどの何があった
訳でもない。
段々と誤魔化してかわしているのも面倒になって来る。
自慢ではないけれど、感情を表面に露わにする事が余り得意でないだけで、相応に、ひょっと
すれば人一倍、感情の起伏も激しければ、また、気も長い方でもない。
「別に、そんなお前が必死になって知りたがるような事なんか何も・・・・・・」
口を割り掛けたそこへ、図ったようなタイミングが末弟の正広と拓哉が、まだ、髪から
雫を滴らせたまま、キッチンへ入って来る。
「まーくん、ダメじゃん。もっとちゃんと髪拭かないと。風邪ひいちゃうよ。拓哉兄貴も
もっとちゃんと拭いてやってよ」
当たり前のように、あっと言う間に吾郎の意識はそちらに持って行かれてしまい。
「んー?ちゃんと拭いたよなー?」
拓哉は悪戯っけを含んだ子供っぽい笑みで正広を振り返り。
「わざとじゃん!髪、ビショビショのままこっち来たら、吾郎が怒りながらでも、拭いて
くれっから、それが目的じゃねぇかよ!」
すかさず正広にそんなネタバラシをされて、拓哉は益々、シニカルに唇を歪めた。
「んー、どこの誰がそんな生意気なクチ、利いてんのかなー?ん?このクチ?このクチが
そんな可愛くねぇ事、言ってんの?」
正広の目の前にしゃがみ込み、両手でその頬の肉をぎゅっと摘んで。
ぐにぐにと上下にその肉を上げ下げしたりしながら。
「いってぇ!いてぇじゃねぇかよっ!離せっ!離せってば!」
「ちょ、拓哉兄貴!まーくん、痛がってるでしょ!いい加減にしなよ。まーくんも、そういう
言葉遣いはダメでしょ。ちゃんと拓哉兄貴にごめんなさい、しな」
「・・・・・・・・・」
アーモンド型の瞳にありありと不満を湛え、それでも、薄っすらと涙の滲んだ目はその痛みを
忠実に物語っていたりもして。
「・・・・・・ごめん、なさい」
小さく小さく呟かれた一言に、漸く、拓哉の手が正広の頬から離れる。
真っ赤になった頬に濡らしたハンドタオルを当てて、それに正広自身の手を添えさせて。
吾郎はそのまま、正広の髪の雫を拭う。
「次、俺な?」
すかさず予約を入れて来る拓哉に
「拓哉兄貴はもう大人なんだからさ、自分でやってよね」
あっさりと断りを入れて。
「んだよ、冷てぇな。お前にやってもらうのって気持ち良くて好きなんだけど?俺」
わざと独特の含みを持たせた笑みと共に「お前にやってもらう」と「気持ち良くて好き」の
部分に微妙なアクセントまで加えられた拓哉のセリフに、吾郎もまた、鮮やかな冷笑を返す。
「昨夜、噛みつかれたとこがまだ、痛むから、また、今度ね?」
「バ・・・!おまっ・・・・」
焦ったように拓哉の声が引っくり返って詰まり。
「もう痛くねぇっつっただろ、今朝!」
「えー、また、痛くなってきちゃった?」
「嘘ついてんじゃねぇよ!」
「嘘じゃ・・・って言うか、ちょっと、待っ・・・・!」
言い掛ける吾郎の言葉を遮り、拓哉が吾郎に飛び掛る。
「何でそんな嘘とかついちゃったりすんのかな?」
簡単に吾郎を羽交い絞めにした後、首元に腕を掛けて床に引き摺り倒し、レスリングの要領で
上から圧し掛かるようにしながら、抵抗を封じ込め。
「ちょ!タイムっ!ふざけないでよ!離してってば!折角作った夕飯、冷めちゃうじゃん!」
「また、温め直せばいいだろ」
「やだよ!味が落ちる!」
バタバタとキッチンの床で暴れる兄達を冷めた視線で見遣りつつ。
「・・・・って言うか・・・あれって仲がいいほどケンカする、ってやつ?」
「何とかケンカは犬も食わないってやつでしょ・・・・」
少し離れた位置から剛と慎吾が呆れた溜息を吐いて。
「拓哉兄貴っ!吾郎!てめぇらふざけてんじゃねぇぞっ!俺ぁなぁ腹減ってんだよっ!
遊んでねぇでさっさとメシの支度しやがれっ!!」
顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ正広の勢いに圧倒されて、拓哉は漸く吾郎を解放し、吾郎も
また、そそくさと夕飯の支度を続けたのだった。
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