残った料理を手早く小分けして冷蔵庫に仕舞ったり、アレンジのための下拵えやなんかを
済ませている間に、こっちはこっちでまー坊を寝かしつけに行き。
「すっごかったな、吾郎の料理。ぜぇぇぇんぶ俺達の好きなもんばっかで」
「美味かっただろ?」
「ん!すっげ美味かった!吾郎は結婚とかしても苦労しなさそうだな?うちの事とかも
何でもこなせるし。吾郎の嫁さんになるヤツって、めちゃくちゃ幸せなんじゃねぇ?」
少し興奮気味にそんなセリフをベッドの中から紡いで来るまー坊は、好きなもので埋め
尽くされたテーブルが本当に嬉しかったようで。
「俺、おっきくなったら、吾郎を嫁さんにするって訳には行かねぇのかなー?」
「で?まーくん、食事中は椅子から立ち上がっちゃいけないんだよ?だとか?みんなと
一緒に食べてるお皿から料理を取る時には、ちゃんとそのお皿に置いてあるお箸で取らなきゃ
ダメなんだよ、だとか?嫌いだからって残される野菜や作った人の気持ちも少しは考えなきゃ。
可哀想だとか思わない?だとか?散々、一々、細々と教えてもらうのが嬉しいんだ?凄いな、
まー坊は」
「ちがっ!違ぇよっ!んな、誰が、そんなうぜぇの!冗談に決まってんだろっ!!何、
真に受けちゃったりだとかしてんだよっ!大体、兄弟で結婚なんか出来る訳ねぇに決まって
んのに、わざわざそんなつまんねぇ事とか、何で言って来んだよ、拓哉兄貴はよっ!」
ぷいっと不貞腐れて毛布を被った、と思った数分も経たない間に、すぅすぅと健康的な寝息が
聞こえ出し。
「まー坊、おやすみ」
さらさらの明るめの色の髪を撫で、照明の明度を下げて、そっとドアを閉じる。
リビングに戻ると片付けを終えたらしい吾郎が、1人ぼんやりとバルコニーに続くガラスの
前に佇み、外を眺めていて。
「よぉ」
軽く肩に手を置き、振り向いた吾郎が「まーくん、もう寝た?」とりあえず、と言う風情で
声を返して来た。
「飲んでねぇの?」
「あー、うん・・・拓哉兄貴を待ってた」
「何にする?」
「軽めのデザートワインとか」
「ん」
こんな事は割と珍しいが、今日は吾郎の要望に合わせて俺がワインを吟味していた。
俺が選んでる間にグラスと、極軽い酒のつまみをリビングのガラステーブルにセッティング
し終え、吾郎がソファで足を伸ばす。
「そんじゃ、これ」
俺が選んだそれに、吾郎はしっとりと静かな笑みを湛えて、さっきも目にした麗しい手つきで
その栓を抜いて行く。
「乾杯」
グラスを彩る明度の高めの鮮やかな色合いのそれは、さっき口にしたものとはまた、まるで
別の飲み物かと思わされるほどに、柔らかな甘味をもたらし。
「拓哉兄貴のセレクトにしては珍しいね。何かこう・・・・じんわりと沁み込んで来る
感じ?とても大切なものに包み込まれるような・・・そんな味わいって言うの?」
「・・・そか?」
想像した通りの味だった事に、吾郎に見咎められねぇように、ほっと安堵の息をつく。
「お前、疲れてるみてぇだから」
「・・・・え?そう?」
ほんの一瞬の間の後、すらっととぼけて見せようとする吾郎に、真正面から視線を打ち
込んでやる。
「何かあった?」
回りくどいのは苦手だ。
だから、真っ向からストレート、直球勝負で挑む。
「・・・・・拓哉兄貴には敵わないな」
薄く苦笑を刻んだ頬は、けれど、すぐに諦めと共に、ふにゃふにゃとした力ない笑みに変わり。
折角、そんな光栄なお言葉を賜ったとは言え、んな事ぐれぇ、だぁれでも気付いてると
思うぞ、と言う内心の呟きはきっちり胸ん中に収めておいてもやって。
分かり易過ぎんだよ。
突然、何の記念日でもねぇのに、あんなに大量のご馳走作りゃあ、こりゃ、何かあったな、
って誰でも気付くっつーの・・・・・・・
「・・・・・書けなくて、さ」
「・・・・・ん?」
「ずっと・・・・原稿に向ってるのに、書けなくてさ・・・・・書きたいものがない訳じゃ
ないのに、って言うより、むしろ、書きたいものはちゃんと明確に見えてるはずなのに、
今、それを形にする事が出来ないんだよね・・・・・」
弱く吾郎を彩っていた笑みは薄くフェードアウトして行き、代わりに苦悩を帯びた表情が
眉間に幾らかの皺を刻む。
「書きたくて書いてるはずなのに・・・・何か、書いても書いても楽しくなくて・・・・」
「・・・・・焦んなよ」
「イライラしてさ。ご機嫌伺いに来てくれた編集のコと遣り合っちゃって」
「・・・・・珍しいな、お前がそんな風に人に当たる、とか」
「うん・・・・何か人の良さそうな・・・って言うか、実際、凄いいい子なんだけどさ」
「・・・・・子?」
「あ、何か新入社員?先輩について見習いで来てて。だから、多分、俺よりは年上なんだろう
けど・・・あんま、年上には見えないけど・・・・・・」
「あー、だよな。そりゃ、幾ら若くても大卒で新入社員ってなりゃー、俺よか年上だったりも
すんだろ?」
「あ、そっか、そうだね、うん。でね、その人にさ、イライラして、すんごい適当な事、
適当に言ったりだとか、その人とは全然、関係ない事でさ、下らない愚痴とか零したりも
したのに、冗談マジメに受け取っちゃったりだとか、愚痴はにこにこ聞いてくれたりなんかも
されて。益々、ちょっとイラっと来て」
「・・・・・・・・・・・」
「すいません、僕、聞くぐらいしか出来ないですけど、聞く事ぐらいだったらいつでも
させてもらえると思うんで。気が向いたら、いつでも、電話とかメールとか下さい、とかって、
逆に宥められたりだとかしてさ」
「・・・・・・・・・・・」
「書けないのは自分の責任なのに、それを人にぶつけちゃったりだとかして、自己嫌悪?
でさ、その分って言ったら変だけど、その人に下らない感情ぶつけて嫌な気分にさせちゃった
分、今度はせめて何か人に喜んでもらえる事したい、とか無性に思っちゃって」
「で?それがあの料理っつー訳?」
「・・・・・ごめん。いやらしい話で申し訳ないけどさ、今日の分の買い物は一応、自分の
ポケットマネーからって言うか、家計のやりくりとは別会計だから」
「んな事ぁいいんだけどな」
「ま、ある種の現実逃避・・・って言うかストレス解消?掃除でも良かったんだけど、
とにかく何かに思いっきりのめり込んでいたかった、って言うか。俺、不器用だからさ、
敢えて、凝った難しい飾り切りだとかチャレンジして、神経集中してみたりだとかしてね」
その美麗な面差しを彩る笑みは、笑みと呼ぶには寂し過ぎるほどに力なく儚く揺れる。
こんな時にまで。
どうして、自分の前でまで、その感情を笑みで彩ろうとするのか、その事が無性に悔しくて
寂しい。
グラスの底に残った液体を煽って。
「俺も・・・・聞くぐれぇしか出来ねぇけど、聞くぐれぇ聞いてやるけど、お前の愚痴、とか?」
「・・・・・・ありがとう」
律儀に礼を返す吾郎は、けど、少し視線をうつ伏せたまま。
「けど・・・・疲れて帰って来る拓哉兄貴にさ、そういうのとかって申し訳なさ過ぎるかな
って。俺は大抵は家に居て、仕事も完全に自分個人のペースで出来る仕事で、外との摩擦
だとか人間関係だとかも言うほどなくて・・・・外で働いて、色々揉まれて苦労してる
拓哉兄貴にこれ以上、負担になるような事、出来ないって言うか」
「・・・・・・水臭ぇ」
「・・・・・・え?」
「水臭ぇっつったの。兄弟だろ?家族なんだから、そんな気ぃ遣われてるとかって、逆に
何か寂しいじゃん」
「・・・・・・・・」
「お前はいっつもすぅぐ、そうやって自分で抱え込んじまおうとすっから、ある日、ぽっきり
折れちまったりだとかすんだよ。ちょこちょこ、小出しにしてけよ。ヤな事だとか、抱え
切れねぇ事だとか、俺にも分けろって」
「うん」
ソファの隣。
薄い背中に腕を伸ばし、軽く力を込めるだけで簡単にこちらに傾いて来る体重と温度を
身体の半分側で受け止めながら。
「・・・・・・懐かしいね」
「ん?」
「子供の頃ね、こんな風にして1回だけ拓哉兄貴の肩を借りて寝た事があって」
「・・・・・・・・・・・」
「慎吾が生まれてすぐぐらいの頃、どういう理由でか俺と拓哉兄貴の2人でおつかいに
やらされて。それが何か電車にのって行かなくちゃなんないような場所でさ。俺、内心、
凄い心細くて。けど、そんな事、言ったら拓哉兄貴に怒られそうで怖くてさ。その帰りの
電車の中だったと思うんだけど。俺、くたびれてて、けど、電車は割りと込んでて、拓哉
兄貴が1個だけ空席見つけてくれて俺を座らせてくれようとしたんだけど、俺、自分だけが
座るのは嫌だって駄々こねてさ。で、拓哉兄貴も仕方なく、周りの大人の人にちっちゃな
声ですいません、とか断りながら、大人1人分ぐらいのスペースに2人くっついて座ってさ。
何かたったそれだけの事なんだけど、そんな風にしてくれた拓哉兄貴の事、その時は凄く
感動したって言うの?心細かったせいなんだろうけど、たったそれだけの事なのにさ、何か
拓哉兄貴って凄い、って思っちゃって。で、何か安心したら急に眠くなって来て」
「・・・・・あったっけな、そんな事も」
そんな些細なちっぽけな記憶が、まだ、吾郎の中にもあったって事が、何か凄く嬉しく
感じられて。
じんわりと胸の中に込み上げて来る思いは、あったかくて、けど、どういう訳かほんの少し
だけ疼くような痛みを微かに感じさせて。
すん、と。
鼻を啜りたくなるような変な感じに見舞われて、俺はちょっと目だけをきょろきょろさせて
ティッシュの在り処を探ってしまっていた。
「・・・・・って言うかさぁ・・・・・」
リビングの入り口、2人が腰を下ろしているソファーからは死角になっている位置から
中を覗き込む頭が2つ、見え隠れしている。
「21と20歳?のさ、もういい加減、ちゃんとした成人男性の男兄弟がさー、あんな風にして
相手の肩に頭、凭せ掛けたりして、ソファーに座る?普通・・・・」
「確かに、何か嫌に、お前達もさっさと自分の部屋に戻んな的、吾郎さんの空気を微妙に
感じないでもなかったけどさ。こういう事だったって言う意味?」
「何かずるい・・・いっつも拓哉兄貴だけが特別〜って感じ」
「まぁ吾郎さんにだって兄貴としての沽券?みたいなのも、そりゃあちょっとはあるんじゃ
ないの?俺達の前であんな風に弱ってる空気は見せたくないんじゃない?」
「それにしたって・・・・あの2人、いつの間にあんなに仲良くなった訳?親が他界した
時なんかお互いに憎しみ合ってんじゃないか、ってぐらい仲違いしてたはずなのにさ」
「・・・・・吾郎さんが変わったね?あ、まぁ、拓哉兄貴も学生の頃に比べたら、全然、
変わったけど」
「・・・・・って言うか・・・・あれはお互いに照れとかないのかな?って言うより見てる
こっちの方が恥ずかしい」
「だったら、さっさと上、上がろう。ここ、寒いし・・・・こんな風に覗き見してた、
とか拓哉兄貴に知れた、ら・・・・・」
「んだよー、慎吾ぉ、剛ぃ!こんなとこで何やってんだよぉ・・・俺、しっこぉ!」
背後から聞こえて来た末っ子の声に2人は骨髄反射のような素早さで、その末弟の口を
塞ぎ、抱え上げ。
じっと身を硬くして中の様子を窺う。
「洩れるぅっ!!!」
腕の中で暴れる弟の口から手が外れ掛け。
弟を抱えたまま、2人は一目散でトイレへダッシュする。
「・・・・ば、ばれた、ね・・・・あれは・・・完全に・・・・」
トイレを済ませ正広を寝かしつける時にも、まだ、拓哉が部屋に戻って来る様子はなくて。
けれど、あの音量が2人に届かなかったはずもなく。
2人はすごすごと自室に戻りながら、はぁ・・・とどちらともなく深い溜息を洩らす。
「大体、慎吾がさぁ!下らない事言い出すから!」
「つよぽんだって面白がって着いて来たんじゃん!」
「はぁ・・・・・明日が、怖い」
「一晩寝たら綺麗さっぱり忘れてくれる・・・なんて事はない、よね?」
「それを世間では現実逃避って言うんだよ」
「「・・・・・はぁ」」
ドアの前でもごもごと言い合い、それでも、その溜息を合図にそれぞれの部屋に戻り。
シンシンと底冷えしそうなほどに寒い、降り出した雨がそろそろ音をなくして雪に変わり
掛けそうなある冬の夜は、そうして更けて行く。
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