定刻通り、今日もこの極寒の中、現場作業を終えて帰宅した俺の鼻腔を・・・・・
寒さと疲れで玄関のドアを開ける前から既に、あぁ、うちに着いたんだ・・・と言う安堵に
任せて崩れ落ちそうなほどにくたびれた身体の、最後の力を振り絞るようにしてドアを
開いた途端、圧倒的なまでに埋め尽くすほどのいい香りに、一気に腹の力が抜けて、
冗談抜きでそこにへたり込んだ。
「拓哉兄貴?おかえり?」
リビングダイニングから顔を覗かせた吾郎が、エプロン姿のまま、俺がへたり込んで
しまっているその場所まで出迎えてくれて。
「今日もお仕事、お疲れ様。先、お風呂入るでしょ?くたびれきってるとこ申し訳ないけどさ、
まーくんが一緒に入りたがってたんだけど、どうかな?」
そんな事は少し珍しい、へたり込んでいる俺に目線を合わせるように、吾郎も廊下にしゃがみ込み
確かに申し訳なさそうにこちらを窺う眼差しに「や、腹、減っただけだから」間違いでは
ない返答を返し、吾郎の肩に手を掛け立ち上がる。
「わ?!ちょ・・・!」
まさか本気で体重を掛けられると思ってなかったらしい吾郎が、あっさりストン!と尻餅を
つくようにして廊下に腰を落とし、そのまま、後ろにゴロンと転がりそうになるのを、肩を
掴んでいた手に力を込めて支え。
「ちょ・・・痛い」
ゴロンと後ろに転がった方が吾郎的にはましだったのか、吾郎ははっきり肩に食い込んだ
俺の指の痛みに苦情を呈して来た。
「あ、そ。悪かった」
それじゃあ、ってんで手を離したら、案の定、まだ、体勢を立て直しきれていなかった
らしい吾郎の身体が、スローモーションでも見るようにゴロンと後ろに転んで。
それが余りにもまともだった事もあって、つい、噴出しちまう。
「拓哉兄貴っ!」
自力で起き上がる事の出来ない亀みてぇに、ほんのちょっとの間、バタバタと暴れる吾郎を
眺め。
けど、いつまでもそうして放置しておくとまた、ごねる事も火を見るより明らかなので、
適当な頃合を見計らって手を差し伸べてやる。
っつーか、横に身体の向きを変えれば起き上がれる、っつー事、分かんねぇ?とか思いつつ、
唇の端が小さく綻ぶのを禁じ得ないまま、吾郎の手を取り引っ張ってやって。
「あー・・・・・帰って来るなり、いきなり吾郎ちゃんの事、押し倒してるぅ・・・・」
たまたま、階段から降りて来ていた慎吾の、そんなふざけた声が上から降って来て。
すかさず仰ぎ見て軽い睨みを利かせてやりながら。
「すっげ、いい匂いしてんだけど?」
俺の手に捕まり、どうにか起き上がって来た吾郎に目線を合わせた。
「え?」
ほんの極僅かな瞬間、表情をブランクにさせた吾郎は、次の瞬間、艶やかっつっても間違い
じゃない華やいだ笑みを浮かべ。
「うん、いつも拓哉兄貴とか他のみんなも寒いのに頑張ってるからさ、今日はちょっと
奮発してみた」
言いながらさりげなく身体の向きを変え、俺から視線を外す事も忘れない。
「へぇ、そりゃ楽しみだな」
そのまま廊下から声だけでまー坊を呼びつけ、風呂場に伴い。
「拓哉兄貴ぃ?まーくん?着替え、ここに置いとくからねー」
浴室のドアの向こうから聞こえる吾郎の声に返事を返しつつ。
「よぉ、まー坊。今日は幼稚園、どうだった?」
いつもお決まりのセリフから始まる会話は、社交辞令っちゃー、余りに言葉は悪すぎると
しても。
「1月の歌とか歌った。もうすぐ発表会でそのおけいことか毎日やってて、俺、踊ったり
とかすんの!」
キラキラと真っ直ぐな輝きをこちらに向けて、ちょっと頬を赤くしてそんな報告をしてくれる
年の離れた弟は、純粋にただ、ただ、可愛い。
「まー坊が歌、歌うのか?そりゃ凄いな」
音感って言うのが実に生まれついて備わってるもんなんだって事を、妙に実感込めて
教えられたのは、このまー坊のお陰と言って、過言じゃねぇと思う。
始め、同じ歌を歌ってると思えねぇぐれぇ音程が違ってて、いや、それはまだ、幼いから
音感が未発達なせいでそうなんだろう、とタカを括ってた俺は、保育園の小さい組の発表会に
行った時に驚いた。
みんな同い年のおんなじ条件の子供達が歌って踊ってるはずなのに、1人だけ嫌にずれた
音が、これまた、身内で聞き慣れた声だから特別に良く聞き取れたのか、それとも、周囲の
音と合ってない事で目立ってしまうのか、良く響いて。
あわやその事で吾郎とケンカにさえなり掛けた程で。
「あいつの音感が狂ってるのってぇ・・・お前がちゃんとした音感、教えてねぇからなんじゃ
ねぇの?」
「え?ちょっと待ってよ。音感って教えるもの?第一、自慢じゃないけど、俺の音感、別に
人と比べて著しく狂ってるとは思ってないんだけど?」
「じゃあ、まー坊は何であんな音感なんだ?」
「遺伝・・・?」
「親父がおふくろのどっちかが音感、鈍かった、とか?」
「・・・・・あんまりそういう記憶もないけど・・・・でも、音感とかってある程度、
訓練でどうとでも出来るような話を聞いた事があるようなないような・・・・・」
吾郎はいつものように、自分でもどこで仕入れたのか曖昧であやふやな広く浅い知識を
披露してくれたりなんかもして。
「練習すれば上手くなるって事か?」
「・・・・・・・・まぁ、ある程度の年齢になれば、自然ともっと音感も整って、ちゃんと
歌えるようになるかもよ?」
至極、見通しの暗そうな見解に、それでも、その時はどうにか2人納得もして、何とか
その場は収まったものの。
「案外、慎吾とか剛とかがちゃんと歌えてないのを耳にして育っちゃったのかも知れないよ?」
吾郎のセリフに苦笑が湧いて。
「可能性としちゃーゼロじゃねぇかも知んねぇけどな」
本人達が居ないのをいい事に、勝手にそっちに罪をなすりつけたりもしつつ。
「なぁ、ところで、今日、吾郎って何かあった?」
こんなチビに探りを入れんのもどうか、とは思わないでもなかったが。
けど、こいつが1番、身内の中である意味、吾郎に近い場所、っつーの?一緒に居る時間が
1番、長いかったりもするから。
「何かって何だよ?」
アーモンド型の瞳が不思議そうに俺を映し、湯船の中で首を傾げる。
「あ、いや・・・・・」
まだちゃんと確かめた訳じゃねぇから、イマイチはっきりした事を切り出せねぇとこが
辛いっちゃー辛いとこでもあって。
「何か、けど、えっらい浮かれてた、っつーか・・・・車でもんの凄い量の買い物して
来たかと思ったら、3時過ぎぐれぇからずっと台所に篭もりっ放しで」
・・・・・・・やっぱしな
匂いの量っつーと表現がおかしいのかも知んねぇけど、けど、玄関のドア開けた瞬間の
あの怒涛のように押し寄せて来るいい匂いの大群に、マジ、一瞬だけ眩暈し掛けたもんな。
「おめぇはどっかの一流パティシェなんか?って思うような豪勢なスイーツを3時のおやつね、
とか言いやがって」
5歳児がパティシェだのスイーツだのって、ちょっとどっか間違ってねぇか?って気が
しねぇでもねぇが。
吾郎がそんな言葉を四六時中、きちんと口にしてるせいで、まー坊にとっちゃ、それが
当たり前なんかも知んねぇけど。
「それは粗方、慎吾の胃に収まって、さすがの慎吾も、あー、胸焼けするぅ・・・とか
ちょっとの間は言ってたみてぇだったけどな」
「・・・・・・吾郎、怒ってんの?」
「え?何で?別にそう言う感じでもなかったけどなぁ・・・・ま、黙々と料理こなしてる
雰囲気?」
「そっか」
そうしてまー坊を抱え上げて浴槽から出し、自分も一緒に風呂を出て。
ほんの少しだけ気合を入れる。
案の定。
ダイニングテーブルの上にはこれでもかっ!って、挑戦状でも叩きつけられてんじゃねぇか、
と一瞬、錯覚しねぇでもねぇほどの、大量、かつ、バラエティーに富んだ料理が所狭しと
ずらり、と並べられ。
「まだ、キッチンのカウンターの上におかわりもあるからね。今日だけはダイエットとか
忘れてさ、ぱぁっとね?」
普段より2割り増し程度のテンションの高さで、吾郎は風呂上りの俺達を待ちかねていた
ようにそう声を掛けて。
「にしても、すっげー料理だな?え、と・・・念のため1個聞いていい?」
「何?拓哉兄貴?」
「今日って誰かの誕生日とか、何かの記念日だとか、じゃねぇよな?」
「それって拓哉兄貴は家族の誕生日だとか記念日に関して、記憶してないって言ってるのと
意味を同じくすると思うんだけど、その質問はそれで正しいの?」
普段よりも心持ち持って回った物言いに感じられる吾郎のセリフは、にっこりと綺麗な
笑みを伴いつつも辛辣にこっちのハートを抉ってくれるようでもあって。
「あ、いや、ほらな?誕生パーティーだとかだと、必ずしもその日にやるとは限んねぇだろ?」
「あぁ、そういう意味ね。ううん。特別に誰かの何かのパーティーとか言うんじゃないよ」
「そっか。いや、こんだけ作んの、大変だったんじゃねぇかなー、とか」
「ううん、平気。俺、そんなに器用な方って訳じゃないけど、料理は色々と創意工夫なんかも
出来て楽しいから好きだし」
「そ、そだな、うん」
「ねぇ、拓哉兄貴?さっきから何かちょっと様子、変じゃない?」
「いや、さすがにこんなに・・・まだ、何、キッチンの方にもあんの?食べきれるかなー、
とか」
「あー、その点はご安心を。ちゃんと残った時のアレンジも考えてあるし、食材を無駄に
するような事はしないように計算して心掛けてるから」
「・・・・・だな」
「それじゃあ、乾杯しようか?」
・・・・な、何に?
って、聞きそうになるより先に。
お気楽な口調でそう口にした吾郎の手元のフルボトルに視線をやって
「おまっ!!ちょっ?!分かってっか、今、自分が何を手にしてて、何をしようとしてっか?!」
思わず、叫んじまってた。
「あぁ、折角だから、これ、頂こうかなって」
吾郎がこれ、とにこやかに示したそれは。
吾郎が著名な文芸賞を受賞した際にお祝いとして、先輩作家の先生から贈られた・・・・
「人もワインも熟成されればされただけの値打ちが出て来るものだけれど、問題はその熟成に
至るまでの経緯だと思うしね。
このワインはまだまだ若い。これから何十年も熟成させた暁、君が本当にこれを開けて
乾杯したい、と思えるような人生と出会えた時に、ぜひ、その席を彩る逸品にしてくれ給え」
とか言う薀蓄つきで贈られたっつー。
何回も何回も、夢見るように「先生はそう仰ったんだ」って。
吾郎から聞かされ続けたせいもあって、すっかり、こっちの脳みそにまで刻み込まれた、
それは確かにあの時のワインで。
「ちょっ!吾郎!落ち着け!待て!何があったか知んねぇけど、こんな形で今日みてぇな
日に開けていいワインじゃねぇだろ、それは!」
半ば強引に引っ手繰るようにして、吾郎の手の中からそのヴィンテージを奪い取る。
一瞬、はっきりと尖った吾郎の視線はそれでも、すぐ、力なく伏せられ。
「ほら・・・・ちゃんと大切に仕舞って、他のヤツ、持って来い」
吾郎の両手を添えるようにしてその真ん中に、大切にそれを包み込ませ。
「・・・・・・・・ん」
唇を噛み締めるようにして、吾郎はセラーの前に佇み、大切なそれを丁寧に中に戻した後、
暫く吟味を重ねた上で、別の一本を手にして戻り。
慣れた手つきでオープナーを操る、しなやかな手指の動きに、思わず、無意識のうちに
視線が縫い止められそうになっている自分を、意図して嫌味なほどに緩められた、別の
視線に教えられ。
「拓哉兄貴、今、うっとりと吾郎ちゃんの手元、見詰めてたよねー?」
・・・・・・さっきといい、今といい・・・・・お前には1回、きっちり教育的指導を
かましてやんねぇと分かんねぇみてぇだな
胸の中で不穏な呟きを洩らす。
「でも、ほんと、ワインを扱う時の吾郎さんの動きは、洗練されてて美しいって俺も思うよ?」
そんな剛の半ば、俺より陶酔しかかってんじゃねぇか、って思わせられるような。
何の衒いもなく当たり前に、自分の兄貴に向って堂々と美しいって口に出来る、こいつの
神経もなかなかのもんがあるな、と感心させられつつ。
「俺、そんじゃあ気分だけでもぶどうジュース!」
まー坊が自分用に冷蔵庫から果汁100%のぶどうジュースを出して来る。
「剛も慎吾も未成年なんだから、当然、まーくんとおんなじジュースだよ」
何か完全に勘違いしてたっぽい2人にもきっちりと釘を刺し、吾郎は2人分のグラスに
美しくその濃厚な紅い液体を注ぎ込んで行く。
ゆったりと静かに微かな波を打ちながらグラスの半分ほどの位置まで注がれたそれは、
言葉には表わし難い複雑な色味を湛え、宝石と称えられる飲み物としての存在感を余りにも
圧倒的に示して。
「これも相当いいやつなんじゃねぇの?」
あれほどのものを開けようとしていた吾郎が、その後釜に据えるために選んだやつとなりゃあ。
「いや、これは普通の・・・スーパーで売ってる2000円のワインだけど?」
吾郎はほんの僅か、申し訳なさそうに俺を見詰め。
「あ・・・そ」
他に言いようもなく、俺はグラスを手にした。
「それじゃあ、今日も1日、お疲れ様でした」
そんな言葉に乗せて、吾郎とグラスを重ね。
「ずっるいなー、2人だけで愉しんじゃってさー」
「確かに俺達はまだ未成年だけどさー、何もねー?みんなお酒ぐらい飲んでるよ、俺達の
友達だって」
慎吾と剛が口々に口にする不平には綺麗に耳を塞いで。
吾郎が丹精してくれた手料理に舌鼓を打ちつつ、スーパーで売ってる2000円のモノとは
思えないほどに、喉越しの滑らかな、良い纏まりを感じさせてくれるワインを堪能する。
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