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「そりゃ、俺達、この状況で、自分達の事だけでも手一杯で大変だって分かるけど。でも、
だからって、こんなちっちゃいまーくんの事、そんな風にさ、まるで邪魔者扱いみたいに
・・・・」
「だったら」
それまで拓哉に向けられていた険しい眼差しのまま、吾郎は慎吾を振り返った。
「だったら、お前、考えた事あんの?これから先、この子がこの環境の中で育って行く
って言うのが、どういう事か分かってる?」
ボリュームは抑えられてはいるけれど、怒気を孕んだその声音に慎吾もつい、負けん気を
発揮する。
「何?何が言いたいの?吾郎ちゃんは」
吾郎のそれと良く似た鋭い眼差しを吾郎に突き刺したまま、慎吾の声が低く周囲の空気を
揺らす。
「この中で育って行くって言う事は、この子はずっと、一生、母親のぬくもりとか、
匂いだとか、優しさだとか、温かさだとか、安堵感だとか、包み込まれる感じだとか、
癒される感じだとか、慰められる思いや励まされる気持ちだとか、そういう色んなものを
全く知らずに育って行くって言う事なるんだよ?」
「・・・・・・・」
「しかも・・・・今はまだ、家の中にしか行動範囲がないけどいづれ、大きくなれば、
少しずつ世界を広げて、保育園や幼稚園、小学校に上がって、中学へ進んで、高校へ
進学して、もしかしたら、大学に行くようになるかも知れないけど・・・・そういう時に
必ず付き纏う母親って存在を、ずっとなしで育って行かなきゃなんないんだよ。ママが
居ないって、事ある毎に話題になって説明して。ずっと、ずっと、そういうのが
ついて歩くんだよ?そりゃ、段々、そういう環境にも慣れるだろうし、そういう事にも
慣れてさ、もしかしたら、そんなに苦痛を感じない子に育ってくれるのかも知れないけど。
それでも・・・・・母親は居ないよりは居た方が絶対、いいに決まってる」
「・・・・でもさ」
吾郎の話をずっと黙って聞いていた剛が今度は口を開く。
「でも・・・・世の中にはさ、母親の居ない子もたくさん居るよ」
「そうだよ、もちろん、そういう子もたくさん、居るさ。ただ、俺が言いたいのは、この子
にはチャンスがあったって事だよ。止むを得ない様々な事由で母親を知らないまま、育つ
人だってそりゃ居るだろうけど、この子には可能性があったんじゃん!ちゃんと、お母さん
って呼べる人に育ててもらえるチャンスがあったのに?!それを拓哉兄貴が勝手に握り
潰しちゃったんじゃん?!自分勝手な思いでさ!」
再び、吾郎の視線が拓哉に戻る。
「んだよ?!血の繋がりのある俺達と一緒に居るより、血の繋がりなんかほとんどねぇ、
赤の他人みぇな人間と暮らす方がまー坊が幸せになるって言ってんのか?お前は」
「そうだよ。幸い、この子はまだ、記憶そのものも完全な状態じゃないんだから。もっと
年齢が上がってからだと、そういうのも躊躇いがあるかも知れないけど、今だったら、まだ、
分からない。かなりの年齢になって、養母からその事、伝えられるまではずっと、ほんとの
母親だって信じて大きくなれるよ。絶対にその方がこの子にとって幸せだと俺は思う」
「そりゃ、お前はマザコンだからよ。ママが居なくちゃどーにもなんねぇのかも知んねぇ
けど」
「そうだよっ!悪い?!ママを大切に思って、ママを好きでいて何がいけないんだよっ?!」
「高校2年にもなってよ、ママ、ママ、って恥ずかしくねぇのかよ?!」
「今はそんな話してるんじゃないじゃん?!」
「俺、まー坊にお前みたくなって欲しくねぇよ。もっと男らしくよ、逞しくなって欲しい、
っつーの?」
「だからっ?!それが拓哉兄貴の勝手な願望だって言うんだよっ?!この子をわざわざ
親なしっ子にする権利なんか、拓哉兄貴にだってないはずなんだからなっ!!」
「るせぇよっ!!とにかく、俺は決めたんだからなっ!!誰が何と言おうが、まー坊は
俺が責任もってちゃんと育てる!!」
「拓哉兄貴っ?!もっと冷静になってよ。俺がマザコンだから云々とか、そういうの、
抜きにしてさ、さっき俺が言った事、この子の一生を左右するんだって事、もっと
真剣にちゃんと、考えてよ!」
「お前に言われるでもなく、散々、考えたっつーの。さっき、お前が言ったような事も
全部、な」
「ねぇ?!ほんとに分かってるの?!俺達がどんなに頑張ったって、母親にはなれないんだよ?!
ほんとに、俺達と一緒に居て、この子は幸せなの?!」
「他所んち行った方が幸せになんのかよ?」
「少なくとも、母親と呼べる人に育てられた方が幸せだと思う」
「必ずしもいい母親ばっかじゃねぇじゃん、世の中」
「そうだけど・・・・伯母さんはいい人だよ。多分、この子の事もほんとの子供みたいに
可愛がってくれる」
「みたいに、だろ?ほんとの子供じゃねぇじゃん?み・た・い・に。けど、俺達は違ぇだろ?
俺達は本物じゃん」
「血の繋がりなんかなくたってお互いに相手を思いやって慈しみ合う関係なんて幾らでも
あるよっ!夫婦なんかはその最たる関係なんじゃないの?!血の繋がりがあったって、
憎しみ合ってる関係だってある!」
忌々しげに尖らせた視線を突き刺すように吾郎は真正面から拓哉と対峙していた。
「今の俺とお前、みてぇに?」
不意ににやり、と。唇を歪めた拓哉に。
「・・・・別に俺達がそうだ、なんて言ってない。今はちょっと意見がぶつかり合ってる
だけだよ・・・・・」
「ふぅん?」
「・・・・・・・もういい・・・分かった」
「何がだよ?」
「拓哉兄貴が俺の言った事も含めて、全部、ちゃんと理解した上で、それでも、そんな
環境の中で育つ事の方がこの子の幸せになるって信じてるんだとしたら、俺、もう、
何にも言わない・・・・・・」
あんなにも熱く、激昂して声高に訴えていた吾郎の声のトーンがぐっと下がり、怒りに
良く似た感情を露わにしていた表情から、表情が消えた。
これ以上、何をどう言った所で平行線を辿るだけだと悟った吾郎が、結局、拓哉の決断を
呑んだ形で。
「俺は自分の思いや考えは全て兄貴に伝えたし、それを考慮に入れた上で、拓哉兄貴が
そう決めるんだったら・・・・もういい」
切りつけるように、諦めたように静かに言葉を吐いて。
「・・・・・もう休ませてもらっていいかな?これからの事とか・・・差し当たって
現実的な所で明日の朝ご飯をどうするか、とか、そういう事もほんとは決めてかなきゃ
なんないんだろうけど・・・・」
階段の手すりに手を掛け、吾郎が拓哉を振り返る。
「明日の朝飯は俺が仕度する」
「そう・・・・それじゃ宜しく」
ガラスのように透明で、感情のない眼差しで、抑揚のない声がそんなセリフを紡いで。
「おやすみ」
一応、剛、慎吾にも視線を合わせ。
「おやすみ」
「「おやすみなさい」」
「・・・・おぅ」
それぞれの返事に極、小さく頷きを返して。
吾郎がゆっくりな足取りで階段を登って行く。
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