|
「なぁ・・・・」
いつものように仕事を終えて汗だくで埃まみれになった拓哉兄貴が帰って来て。
「まー坊。風呂、入るぞぉ!」
玄関で靴を脱ぐなり「ただいま」も言わずにそんな叫び声を上げて。
台所で晩飯の仕度をしてた吾郎が、お玉片手にダイニングから顔を覗かせて
「あぁ、拓哉兄貴、お帰り。お疲れ様」
とか。ちょっと小首傾げて浮かべた極上の笑顔に拓哉兄貴も
「おぅ」
とか。愛想のない一言で、それでも、これでもかっ!!って笑顔を返す。
それもいつもの光景で。
いつの間にかそれは当たり前の、いつもの光景になってんだけど・・・・・
1日の汚れを落として、ついでに疲れも落とすようにゆったりと湯船の中で身体を伸ばす
拓哉兄貴とおんなじように、俺も湯船ん中に浸かりながら。
「なぁ・・・・・」
って。ちょっと曖昧に俺は拓哉兄貴に呼び掛ける。
「んー?」
バスタブに頭を凭れ掛けさせて、目ぇ瞑ったまま拓哉兄貴が声だけで続きを促して来た。
「吾郎ってよぉ・・・・昔、笑わねぇヤツじゃなかった?」
もしかしたら俺の記憶違いなんかも知んねぇ、とか。
俺の前でだけ笑わなかったんかも知んねぇ、とか。
確かめたくて。
「あ?昔って。マー坊、お前、今、幾つだよ?」
可笑しそうに拓哉兄貴が眦を下げて、薄く開けた瞼の奥で目が笑う。
「吾郎ってよぉ・・・・笑わねぇヤツだった気ぃすんだけど。笑わねぇだけじゃなくて、
怒りもしねぇし、泣きもしねぇし、何か感情の感じらんねぇお人形、みてぇな・・・・」
俺の感じてた吾郎に対する印象、それが俺だけの感覚だったのか、それとも、本当に
吾郎はそういうヤツだったのか。
その頃の俺は今よりもまだ、ガキだったから、自分の記憶そのものに自信がなくて。
「マー坊の言う昔っつーのは・・・・・多分、おふくろ達が死んでからの事だよな?」
確認するように投げ掛けた問いを口にした拓哉兄貴は、何だか酷く疲れたような口振りで。
「吾郎のヤツ、不貞腐れてたからな。拗ねてやがったっつーか。俺が強引にお前を自分達で
育てるって決めた事、かなり気に入らなかったみてぇだったしな・・・・・」
苦いものを無理矢理飲み込んだ時のように、拓哉兄貴は眉を顰めて、俺に見せねぇように
そっと顔を背けて小さく溜息を吐いて。
「だから、随分長い間、俺とはまともに口も利かなかったし・・・・」
「けど、今はちゃんとまともに口、利いてんじゃん」
「まぁな」
「いつからだよ?いつ頃から吾郎は今みてぇな吾郎に変わったんだよ?」
「んー・・・・・いつ頃、っつわれてもなぁ・・・・・」
曖昧に言葉を濁して、拓哉兄貴は逃げるように、軽く俺を抱え上げたまま、湯船を出て。
いつでに風呂も出る。
ばさっと頭の上からバスタオル被せられて。
ごしごし水気を拭き取りながら
「何で?何で急に、んな事聞くんだよ?お前、吾郎と何かあった?」
なんて、今度は逆に聞いてきやがって。
「あ・・・・や・・別に・・・・」
ブラッサムの事は話すわけにゃ行かねぇから曖昧に言葉を濁して。
「ふん・・・・ま、いいけどよ。まー坊が吾郎に興味持つっていい傾向かも知んねぇし?」
「べ、別に興味なんか持ってねぇべ?!」
含みのある笑みを向けられて、つい、反射的にそんなセリフを口走ってしまう。
風呂から上がり、いい匂いの立ち込めているキッチンに入り込み、冷蔵庫を開けて
飲み物を物色している俺の後ろからひょい、と腕が伸びて来て。
目の前の缶ビールをその手は掴んで、ついでにその奥の小鉢にも手を伸ばす。
「はい、拓哉兄貴。お疲れさま」
ダイニングの椅子にどかっと腰を下ろして、バスタオルでガシガシ髪をこすってる拓哉
兄貴の目の前にビールとその小鉢を置きながら。
「そんなに強く擦るとさぁ、キューティクル、剥がれちゃうよ?」
タオルで隠れてる拓哉兄貴の顔を覗き込み。
「タオルドライはさ、こうして、髪をタオルで包む感じで・・・」
拓哉兄貴の手のすぐ脇に手を置いた吾郎に、拓哉兄貴は自分の手を下げて、そのまま、
吾郎にされるまま、気持ち良さそうに目を閉じる。
「優しくさ、水分、吸い取ってあげる感じで」
「って、お前はどこの美容要員だよ?」
「くふっ。彼女にもね、良く褒められる。俺が髪、拭いてあげるとね、気持ちいいって」
拓哉兄貴の突っ込みを褒め言葉って受け取るあの感性が、やっぱ、俺にはどうにも理解
出来ねぇけど。
「吾郎ちゃんてば、相変わらずさりげに凄い事、言っちゃってるね。彼女の濡れた髪、
拭いてあげる、なんてシチュエーション、ふっつーに口にするもんねぇ」
にやにやと。口端を大きく持ち上げて悪戯っぽく瞳を光らせた慎吾に
「・・・・・・・・えっ?!それって・・・・」
数テンポ遅れて、剛が薄っすらと頬を染める。
「慎吾!子供の前でわざわざ、そういう挙げ足、取るなよ」
軽く睨みを効かせて吾郎が、ちょっと眉とか顰めてるけど。
「自分が先に言ったんじゃない?」
慎吾にそう突っ込まれて吾郎は苦笑し、思い出したように
「あ、そうだ。まーくん、お弁当、まだ、出してないでしょ?さっさと持って来な」
突然、そんな事を振って来やがって。
・・・・・・やべ。昼間のうちにちゃっちゃと証拠隠滅して、空の弁当箱を出しとくつもり
だったのに・・・・
幼稚園帰って来てすぐ、吾郎の野郎が「汗、一杯かいたでしょ?シャワー浴びといで」とか
言いやがって。
「おー・・・」とか、頷いてそのまま、シャワー浴びて。
そう言や、拓哉兄貴とはいつも一緒に風呂入るけど、吾郎とは一緒に入った事ねぇな、
なんてふと、そんな事思ったりだとかもして。
剛とか慎吾とかも気が向いたら一緒に入るしな。拓哉兄貴が残業で遅くなる日だとか。
けど、吾郎だけは1回も一緒に入った事、ねぇな、って。
彼女とかとだったりしたら、一緒に入んのかな、とか、とんでもねぇ方向に思考が転がり
かけて、俺はシャワーを頭から浴びせて目を瞑った。
バスタオル被って出て来た所へ
「さっぱりした?」
とか吾郎が聞いて来て。
「ちょっと昼寝した方がいいよ。夏は体力消耗するからさ」
とか。どこのババアだよ的発言をかまして、ベッドに追い立てたりだとかしやがって。
・・・・・お陰ですっかり忘れてた、っつーの。
「まーくん、お弁当箱」
吾郎が少しだけ険しさを滲ませた視線を投げて来る。
渋々、仕方なく、俺は通園カバンの中から弁当箱を取り出し、おずおずと吾郎の前に持って
行って。
「・・・・ほれ」
吾郎に弁当箱を差し出すと、すかさず
「吾郎兄ちゃん、ありがとう、だろ?」
拓哉兄貴の教育的指導が飛んで来る。
げっ?!
こんなとこでなんつー事抜かすんだよ、拓哉兄貴もっ?!
え?!何?!
剛とか慎吾の前で吾郎の事、そう呼べってか?!
ぜってぇ、ぜってぇ、死んでもヤだかんなっ!!
「まー坊」
逃げを許さねぇ拓哉兄貴のドスの効いた声が鼓膜に突き刺さる。
「・・・・・ありがと、べんと・・・」
早口でちっちゃく呟いた俺に
「吾郎兄ちゃん、が抜けてんだろ?!」
すかさず、どう聞いたって俺を苛めて愉しんでる風にしか聞こえねぇ、拓哉兄貴の声が
覆い被さってくる。
勘弁してくれよぉ・・・・・
心ん中で泣き入れた時。
「あー・・・・まーくん、やっぱり残したんだ、豚の生姜焼きで作った野菜巻きの野菜だけ」
吾郎の落胆した声が辺りの空気を頼りなく揺らした。
「大体よぉ・・・・・俺が食えねぇ事分かってて、なんで入れんだよっ?!」
「まーくんの好きなものと一緒に入れたら、食べられるかなって思ったんだよね」
全然、悪びれる風もなく、吾郎はちょっと肩を竦めて見せて。
甘ぇんだよっ?!大体、俺のいっちばん好きなモンで、俺の嫌いなもん、巻くとかよ。
何、考えてやがんだよ、吾郎もよっ?!
俺がどんだけ一生懸命んなって、肉、はがしたと思ってんだよっ?!
余計な手間、かけさせやがって!
俺が内心で思いっきり悪態をついてると。
「あぁん?!」
聞き捨てならねぇって感じで、拓哉兄貴が片眉を持ち上げる。
「嘘ぉっ?!まーくんてば、吾郎ちゃんのお弁当、残したりだとかすんの?!」
大袈裟に驚いて慎吾がその目と口をでっかく開けて俺を見る。
「なんでぇ?!勿体無い。すんごい美味しいのにぃ!!うちのクラスの女子にさ、いっつも
感心されちゃって、吾郎ちゃんの弁当。うちのママの冷食だらけの手抜き弁当とはえらい
違い、とか言われちゃって。吾郎ちゃんの愛に溢れてる、ってさ」
慎吾がその事をまるで、我が事のように自慢げに嘯いて。
「俺も仕事場でおっさんらに良く言われる、そこらの愛妻弁当より、よっぽど愛妻弁当
だって。俺がいっつもすげーまともな弁当、持って来っから、てっきり新婚か、じゃなきゃ、
料理の上手い彼女と同棲でもしてんだろって噂されてたとか聞かされて、爆笑しちまった。
弟が作ってるっつったら、1日だけでもいいから、貸せ、とか言われちまって」
満更でもなさそうに、口元を綻ばせてそんなセリフを紡いだ拓哉に続いて。
「俺もね友達とか、羨ましがられるよ、やっぱり。そいつの弁当とか昨日の晩ご飯の
ヤキソバがそのまま、バン!て弁当箱の中に放り込んであったりだとか、そんなのしょっちゅう
って言って」
剛も似たような経験がある事を訴える。
そりゃ・・・・俺だって言われた事あんぞ。
「まーくんのお弁当っていつ見ても豪勢ね」ってセンセーに。
「なのに、そんな吾郎ちゃんが作ってくれたもの、残すなんて、バチ当たりだよ」
「吾郎はよ、まー坊が嫌いなものもちゃんと食べられるようになるように、って色々、
工夫してくれてんだぞ?」
拓哉兄貴の手が俺の頭をぐしゃぐしゃする。
・・・・んな事言われたって、食えねぇもんは食えねぇんだよ・・・・
「いいよ、また、チャレンジするから。何かさ、こう・・・戦略を練って、作戦立てて、
相手を攻略して行く、みたいな感じでRPGみたいで楽しいし」
・・・・って、拓哉兄貴や剛とか慎吾とかの前で、俺が弁当残してる事、暴露してる
時点で既に、それって作戦だろって。
「でもさぁ、今でこそ、吾郎ちゃんの料理の腕ってすんごい上がったけど、最初の頃は
酷かったよね?」
慎吾が思い出したように、意地悪げに口元を歪める。
「そうそう。吾郎さん、元々、そんなに器用な方って訳でもなくて」
ちょい、遠慮気味に続いた剛のセリフに
「はっきり不器用なんだよ、吾郎は」
って、拓哉兄貴がわざわざ訂正を入れて。
「電子レンジに卵入れて爆発させちゃった事、あったよね、確か」
慎吾が可笑しそうに口端を持ち上げる。
「初めの頃は目玉焼きすら、まともに出来なくて。裏、真っ黒に焦がすし。第一、卵、
割れない人だったんだもんね」
剛がそれに同調する。
「どんだけ不器用なんだよって頭、抱えたもんよ、俺」
拓哉兄貴のいつものちょっと意地悪い笑みが浮かんで。
「もう・・・・今更、そんな古い話蒸し返さなくてもいいじゃん」
3人がそれぞれ口にする吾郎の暴露話に、吾郎は眉を顰めて唇を尖らせる。
けど、まぁ・・・吾郎のそんな訴えに元々、耳を傾けるような兄貴達でもねぇしな。
吾郎のささやかな抵抗なんかあっさり無視されて、更に話に花が咲く。
|