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【7】
そうして、漸く一息ついた所へ。
何となく視線を感じて振り返ると。
乗り込む時は慌てて気がつかなかったけど、同じ部署の戸田さんが乗ってて、彼女と目が
合い。
その目が意味深に細められ、綺麗な色の口紅で彩られた唇が魅惑的に綻んだ。
「おはようございます」
なぜか妙な丁寧口調で。
「え?あ・・・おはよう」
相変わらず戸田さんは物言いたげな饒舌な眼差しのまま、じっとこっちを見てて。
「・・・・何?」
「昨日と同じですね?スーツ。ネクタイも。髪、ここ、寝ぐせ残ってますよ?」
少しだけ上体をこちらに傾けつつ、耳元で極小さく囁く戸田さんのセリフに思わず、顔に
血が上った。
明らかに完全に誤解されてる空気を感じて、慌ててそれを否定しようと口を開き掛けて。
「違っ・・・・!」
「ふふふ。誤魔化さなくてもいいじゃないですか。稲垣くんだったら、彼女の一人や二人
ぐらいは居ても全然、不思議じゃないですし」
「だから・・・!」
「ただ、普段、身だしなみとか結構、おしゃれに気を遣ってるタイプの稲垣くんが、こんな風に
余裕のないご出勤を強いられるほど魅力的な彼女って、ちょっと興味、湧きますね?」
「だから、違うって!!これは・・・っ!!」
って、事の顛末を全部、ここでぶちまけて説明するには・・・・余りに自分の無様さを
露呈してしまう結果になりはしまいか、と。
ふと、そんな思いが頭に浮いて。
このまま誤解され続ける事と、真実を知られた時の心象を図りに掛けて・・・・・
開き掛けた口はそのままに、言葉を飲み込んだ俺に、無言の薄ら笑いが突き刺さる。
チン♪
到着を告げる軽やかな電子音と共にスルスルとドアが開いて。
「お先!」
とんでもなく居心地の悪い、限られた空間から逃げるようにして飛び出し、フロアに続く
廊下を急いでいたら、今度は篠原さんが前から歩いて来るのが目に入って。
俺に気付いた篠原さんは、ほんの一瞬だけ、ちょっと驚いたように目を見開いて。
その直後、目元を細め、口元を微妙に綻ばせて。
戸田さんがさっき浮かべたのととても良く似た訳知り顔で、意味深な笑みを満面に貼り
付けて。
すれ違う瞬間、
「稲垣くぅん?おはよー」
ありきたりな挨拶なのに、妙にどこか楽しげで意地悪く聞こえるのは、俺の思い過ごしや
過剰反応だとは思えない。
また・・・・
ここでも絶対に完全に誤解されてる事がヒシヒシと感じられたけど、向こうから何も言われ
ないのに、こっちから何かを言い訳するのは墓穴を掘るようでバカバカしい、って程度の
思考は働いて。
黙ったまま、やり過ごそうと思ったら。
「こういう時のために、ロッカーに1本や2本くらいは替えのネクタイを入れとくもんよぉ?」
なんて。
すれ違い様、にぃっこり、って言う言葉をそのまんま、表情にしたような顔で笑われて。
全く女性って言うのはさ・・・・・・
すれ違った後もきっと、暫くはそのままの表情で歩いてるんだろう篠原さんを想像して、
何となく憂鬱な気分になりながら、俺はフロアのドアを開けた。
「おはようございます」
誰に言うとはなしに朝の挨拶を口にして席に着こうとして。
向かいの席から顔を上げた中居さんと目が合う。
「おはようございます」
こっちが挨拶してんのに、中居さんはそんな事はまるで綺麗に無視してくれちゃって。
目が合った瞬間、突然、大きなアーモンド型の瞳にキラリ、と光が浮かんで。
おもむろに席を立った中居さんは俺の横に立つと、不意に俺のネクタイを掴んだ。
「・・・・え?」
「ちょっと来い」
「ちょ?中居さん!ネクタイ、引っ張るの、止めて下さいよ!苦しいじゃないですか?!」
そんな俺の抵抗なんか軽く無視して、何か言いたそうな空気をありありと滲ませた中居さんは
俺のネクタイを引っ張ったまま、ドリンクコーナーの一角へ俺を引っ張って来た。
そうして、ほぼ向かい合う形で互いに椅子に腰を下ろした途端、中居さんは見るからに
楽しげに目を細めて。
「珍しいよな、昨日とまんま、おんなじ格好」
そういう事に目敏いのは女性だけかと思ってたら、中居さんまでそんなセリフを吐いて
来る。
「んだよぉ、昨夜はしっぽりお楽しみ、ってか?」
・・・・・・同性同士の場合、こういうのはセクハラって言わないんだろうか?
ふと、脳裏をよぎった疑問を口にするのは余りにバカバカしくて。
「違いますよ。木村先生んとこから直行です」
そんな答えを返したら、一瞬、ぎょっとしたように大きな目を更に大きく見開いた中居さんは
「えぇっ?!うっそ?!マジでぇ?!おめぇ、マジで食われちまったのっ?!」
場所も何もお構いなしに叫んでくれて。
そんな中居さんの椅子をテーブルの下から思い切り蹴飛ばす。
「ぉわっ?!」
ガタン!!って結構、派手な音と共に椅子が大きく揺れて、中居さんはちょっと慌てた
ように見事な反射神経でその揺れに対応し椅子ごと引っくり返る事は免れて。
「てめぇ?!何、しやがんだっ?!」
すっごい迫力の睨みなんかを効かせてくれたけれど。
「申し訳ないですけど、そういう下らないジョークを笑って聞き流せる心境じゃないんで」
俺は俺で、入社して多分、初めてだと思える思いっきり不機嫌な睨みを中居さんにぶつける。
「・・・・って・・・マジかよ?・・・大丈夫か?辛かったら言えよ。ざぶとん、もう
一枚敷くか?」
・・・・・って。中居さんは至極、マジメそうな顔つきを装ってそんな事を言い掛けて
来たりして。
・・・・・はぁ・・・・疲れる・・・・
整った綺麗な顔立ちを見事に裏切って、その手の下ネタだとか、ホモだとかゲイだとか、
妙なノリのジョーク、好きだもんなぁ、この人・・・・・
最初、この人の下について間がない頃、その手のジョークを余りにもマジメな顔して
ぶちかましてくれるもんだから、俺、本気にしちゃってさ、マジでビビっちゃったぐらい
だもん。
「中居さぁん・・・・いい加減にしないと本気で怒りますよ、俺・・・・」
溜息が漏れて。
俺は中居さんの袖を引っ張り、その手を後頭部に当てさせる。
「え?ちょ?おい!何すんだよ?!」
ただ、それだけの事なのに、何でそんなにうろたえるかな、この人も・・・・・
「ここ、タンコブ出来てるでしょ?」
「ぁん?元々、こういう頭の形なんじゃねぇのか?」
ほんとに恐々、って言うよりは嫌々、その箇所に極、軽く触れた後、中居さんはそんな
セリフをのたまってくれて。
何を失礼な。
元々、こんな形だったりしたら、俺、その事だけでも相当、悩むよ。
「違いますよ。昨夜、ぶつけてコブになったんです」
そうして、事の顛末を簡単に説明して。
ついでに先生宅を訪れてから今朝までの、先生の意味不明な言動等についても全部話して。
話し終えた後、俺はドリンクコーナーに設えられてあるコーヒーメーカーから、コーヒーを
ペーパーカップに注いで、ごくごくと飲み干した。
とても、とても珍しい事に俺の話に余計な茶々を入れずに話を聞いてくれた中居さんは、
思いの外、難しい表情で
「初日からそんな状態っつーのは、ご苦労さんだったな」
なんて殊勝なセリフまで吐いてくれて。
一瞬、自分の耳を疑ってしまう。
あの中居さんが俺の話にマジメに耳を傾けてくれたのみならず、こんな風に親身になって
労いの言葉を掛けてくれるなんて。
一体、どういう心境の変化なんだろう?!
何か良くない事が起こる前兆なのか?!
なんて。普段が普段だけに思いっきり失礼な感想を胸のうちに零しながら。
「締め切りまでそろそろ1週間切るからな・・・・センセもかなり、ヤバい状態に
追い込まれてんだろうけどよぉ・・・・・にしたってなぁ・・・・俺ん時より酷ぇな、
そりゃ・・・・・」
半分は独り言のように、控え目なボリュームで綴られたセリフは、普段の中居さんからは
想像も出来ないぐらい思慮深い空気を醸し出していて。
「大体、おめぇもよぉ、ほいほい、何でも素直に言う事、聞き過ぎなんだよ。センセの
我が儘、そんなに増長させてどうすんだよ?」
けれど、次の瞬間にはまた、口元にいつもの皮肉な笑みが浮かんだ。
「そんな事言ったって・・・・・どうやって断ったり出来るんですか?・・・・って言うか、
あの・・・昨日のような場合、残業手当ってつくんですか?」
「つくわきゃねぇだろ?!酒飲んでメシ食っただけだろうが?!そんな事にまで会社が
残業代払ってどうすんだよ?!」
「・・・・・やっぱり?」
「営業とかの仕事でもそうだべ?接待とかが残業手当つくのかよ?つかねぇだろ?んな
もんなぁ、サービス残業なんだよ、サービス残業」
「中居さぁん・・・・木村先生の我が儘を適当に回避するノウハウ、俺にも教えて下さいよぉ」
「教えてやりてぇ気持ち山々だけどもよ、ケースバイケースだろうよ?その都度、判断する
しかねぇ訳だしな」
「中居さんて、ほんと頼りにならない人ですよねぇ・・・・・」
「るせぇよ」
コブの出来ている後頭部を軽くはたかれて、
「いったぁいっ!!」
思わず、頭を抑えて蹲る(うずくまる)。
「あぁ、悪ぃ、悪ぃ」
まるで反省の色を感じさせない軽いノリで、中居さんは顔の前に拝むようにして片手を
立てて小さく頭を下げた後、おもむろにマジメな顔つきに戻って。
「あのセンセもな、普段はもうちぃっとマシなんだけどな。締め切り迫ってくっと、やっぱ、
こう・・・・追い詰められるっつーの?精神的にヤバくなって来んだろうな。普段より
格段に我が儘の度合い、上がっちまうんだよなぁ・・・・・」
「・・・・・・・」
「まぁ、なるべく聞き流せる事は聞き流して、付き合ってやれる事は付き合ってやれよ」
全然、タメにならないアドバイスをぶってくれる中居さんを俺は真剣、恨めしく睨みつけ。
「もっと具体的且つ、実践的で効果的なアドバイスが頂きたかったですけど?」
言いたくない愚痴が口をついて出る。
「原稿もらうまでの辛抱だから。な?!」
ポンポン、といなすように軽く肩を叩かれ。
昨日、俺が心ん中で呟いた事とおんなじ事、言い聞かせてもらってもねぇ・・・・・
盛大な溜息がまた、漏れて。
「今日も行くんだろ?センセんとこ。ま、頑張れよ。一日も早く、原稿ゲット出来る事、
祈っててやるわ」
・・・・・・祈ってもらってもね・・・・って言うか・・・・祈りたいのはこっちだよ。
半分、泣きたい気分になりながら、俺は重い足取りで、また、先生宅へ向かった。
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