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【5】
・・・・・・頭、痛い・・・・ズキズキする・・・・・
朦朧とした意識の中で、ほとんど無意識に後頭部に手を当てて、痛みの原因がそこだと
言う事を確認する。
・・・・・すっごい、おっきなタンコブ出来てるよぉ・・・・
えっと・・・ここ、どこだっけ?俺、こんなとこで何、してんの・・・・?
ゆっくりと持ち上げた瞼の隙間から周囲を伺って。
全然、見覚えのない部屋の雰囲気に首を捻る。
「気ぃついたか?」
聞き覚えのある声音に、その声の方にゆっくりと首を回す。
本当に自分でももとどかしいほどにゆっくりと。
ズキズキと。
絶えず痛みを訴えて来るその箇所が急激に動く事を頑なに拒んでいる。
「・・・・木村先生?」
俺の呼び掛けに先生は見るからにほっとしたように、眼差しにこれまで見た事もない
優しい色を忍ばせた。
「良かった。あのまま、記憶喪失、とかよ、笑えない状態になっちまったらどうしようか、
って」
「・・・・・ついてて下さったんですか?」
「後頭部、かなり、強くぶつけたみてぇだったからな。容態が急変でもして手遅れに
なっちまったりしても怖ぇし」
ふと浮かべられた笑みは、これまで何度かお目に掛かった事のあるシニカルなものだった
けど。
「吐き気とかねぇ?」
「はい、それは・・・・・」
「痛ぇ?」
「はい、物凄く・・・・・」
ぼんやりしていた意識が段々はっきりして来て。
足を滑らせて仰向きに後ろに倒れ込んだ時にバスタブの淵で頭をぶつけたんだろうな、
って想像がついて。
ついでに・・・・そのまま、バスタブの中に沈んだ感覚もおぼろげながらあって・・・・
「・・・・・ぁ?」
今、自分はこうしてベッドに寝かされてるけど・・・・
そうだとすると・・・・全身、ずぶ濡れだったはずで・・・・
少しシーツを捲って見ると、確かに絶対に確実に、自分のものではない赤のジャージの
上下を着せられている。
・・・・・・なんで、赤・・・?
そりゃ・・・・先生だったら赤なんかも似合うのかも知れないけど・・・・
「・・・・あの・・・・」
「ん?」
「着替え、とか・・・・」
「あぁ。ずぶ濡れのまま、放っとく訳にも行かねぇだろ?」
「・・・・・お手数お掛けしてすみません・・・・・」
着せてくれたジャージの色合いとかは別にして、その手間は大変だっただろう、って事
ぐらいは想像がつくし。
「あ、いや・・・元はと言えば、こっちがしょーもねぇちょっかい掛けたのが悪かったん
だし?」
神妙な顔つきでそんなセリフを言われて、さすがに少し申し訳ない気分に陥り掛けた時。
「それにしても、お前、とれぇよなぁ。風呂場で足、滑らせてバスタブに頭ぶつけて、気ぃ
失って、とか。今時、コントだってそんなベタな事、やんねぇって」
言いながら、段々先生の顔に笑みが広がって、そのセリフを言い終わる頃には、はっきり
笑いを噛み殺していて。
つい、今、自分が悪かった、と謝罪してくれた人の態度とはどうしても信じられない。
「んだよ、まだ怒ってんの?」
痛みあるものの、単なる打ち身でそれ以外の異常は感じられなかったから、取りあえず
ベッドから起き上がり、リビングに移動して。
昼前にこちらへお邪魔して、今はもう夜になっちゃってるから、結構な時間、気を失って、
って言うか、寝てたみたいで。
頭の後ろを冷たいタオルで冷やしている所へ、ビールを差し出されて、そっぽ向いたら、
木村先生が可笑しそうに口元を歪めた。
「今時、オンナだってあんなに抵抗しねぇっつーの」
その時の事を思い出したのか、木村先生はお腹を抑えて、笑い声を忍ばせる。
「風呂に入りに来た訳じゃないですから」
俺がそっぽを向いたまま、受け取ろうとしなかったビールをそのまま、自分で開けて、
軽く煽った先生が独り言のように声を漏らす。
「にしてもよ、素直っつーの?バカ正直っつーの?今時、珍しくね?」
「は?」
「お前の事。中居だったらよ、まず、ぜってぇ、んな事にはなんなかっただろ?シャンプー、
ここ、置いときます、とか言って、ドア、開けずにそのまま、戻っちまう、とかな?」
「・・・・・どうせ・・・・」
そうか・・・・そういう手があったんだ・・・・
けどさ、その後、背中流せ、だとかさ、髪、洗えだとかさ・・・・
ぶちぶちぶちぶち・・・・・・
「ほんと、鍛え甲斐ありそうで、楽しみだわ」
木村先生がそんなセリフを嘯く(うそぶく)のを、今度こそ聞き流して。
「そんな事より、原稿!原稿の進み具合はいかがですか?!」
既に忘れられつつあった本来の目的を漸く切り出す。
「・・・・まぁ、それなり?」
途端に先生は視線を宙に泳がせて。
「拝読させて頂けますか?」
「え?あ、それはまた、・・・今度?」
「もう、1週間しかありませんから、締め切りまで。余り余裕をぶちかまして頂く余裕は
ないと思いますけど?」
「わーってるよ、んな事ぁよ。お前に言われなくても」
不貞腐れた口調で、今度は木村先生がそっぽを向く。
「お分かり頂けているのでしたら、結構ですけど。本当に宜しくお願いします」
俺は目の前のガラステーブルに両手をついて、深く頭を下げた。
とにかく、原稿さえもらえば、こっちのもんなんだから。
それまでの辛抱、辛抱、っと。
「服、乾くまでまだ、時間あんだろ?メシ、一緒に食わね?」
ずぶ濡れになった服を、ドライクリーニング機能つき全自動洗濯乾燥機に掛けてくれている
らしい事は、さっき寝室で説明してもらったけど。
それにしたって。
・・・・メシぃ?先生、ちゃんと俺の話、聞いてくれてんのかな?
「お前、料理とか出来る?」
「一応・・・ある程度は」
「マジで?そりゃ、助かるな。中居のヤツなんか、俺の担当についた頃、料理なんか
まぁったく出来なくてよぉ。出来るようになれっつってんのに、ちっともマジメに
やんなくて。1年掛けて漸く、作れるようになったのが、軟骨入り肉団子の鍋だけだぞ?
作れっつったら、そればっか作りやがって。マジでキレるかと思ったな」
時折、ビールを煽りながら言葉を紡ぎ続ける、思ったより滑らかに動く先生の口元を
見ながら。
キレなかったのかな?って。
何か、もっと簡単にキレそうに見えるけど・・・・
とか、そんな疑問は胸にしまって。
「締め切りとか迫って来っと自分でメシ作ってる暇はさすがになくなんだろ?けど、毎食、
毎食、店屋物とかだとよ、飽きるっつーの?栄養も偏るしな」
「はぁ・・・・・」
「だから、いい編集者の第一条件な、メシが上手く作れるヤツ」
「・・・・・はぁ」
「てな訳で、早速だけど何か作って?」
・・・・・って。こっちは怪我人ですけど?
もしかして、その事、忘れられてます?
それとも、全然、大した事じゃないって思われてます?
今も結構、それなりにズキズキしてたりするんですけど?
そんな疑問を口には出来ず、無言の眼差しの中に込めて見る。
すると、先生は。
カクン、と首を倒して、少し低めの位置から俺の顔を覗き込み、心持ち眼差しを甘く緩めて。
あぁ、女性だったら、きっと、こういう表情にぐっと来たりするんだろうな、って。
極、自然に簡単に、そんな想像が頭を走って。
ま、俺は男だし、そういう甘えるような顔されても、別に嬉しくもなんともないんだけどさ、
なんて事も思って。
「何か作って?」
・・・・・何が何でも、俺に作らせる気な訳ね・・・・
もう、こうなりゃ、ヤケクソだよ。
「冷蔵庫とか勝手に開けちゃって構わないんですか?」
「おぅよ。いつでも何でもどこでも好き勝手、開けちゃって」
1本目のビールを軽く空にして、先生は
「ついでにビール、持って来て」
って注文する事も忘れない。
「分かりました。それじゃ、勝手に開けさせてもらいますよ?」
一応、そう断って。
何か、他人に好き勝手にそういう事されて、許せる感性って言うのが、どうしても理解
出来ないな、って。
俺だったら、自分のモノとか、勝手に触られると嫌だけどな。
そんな事を思いながら、キッチンに移動し冷蔵庫を開けて、ビールを取り出し・・・・
ふと、ビールしか入ってない事に気付く。
冷凍室とか野菜室も開けて見たけど、何かが作れるような材料は見当たらない。
とりあえずビールを片手にリビングへ戻り
「はい、ビール、お持ちしました。それと、何か作れって仰いましたけど、冷蔵庫、ビール
しか入ってませんでしたけど?」
その事を報告する。
「マジで?そう言や、最近、あんまし買い物とか行ってねぇな。お前、明日来る時、適当に
見繕って買って来て」
「・・・・あ、はい」
いつの間にか、明日も来る事にされちゃってるし・・・・
「今日の所はしゃーねーな。愛想ねぇけどデリバリーで我慢すっか。電話の横にメニュー
とかあんだろ?ちょっと取って?」
「・・・・これですか?」
「おぅ」
そうして、携帯片手に先生はメニューを繰っている。
「先生は?料理はおやりにならないんですか?」
「俺?俺は自慢じゃねぇけど、料理、上手いよ?けど、俺様の料理は特別なヤツにしか
食わさねぇの」
「・・・・そうですか」
「お前、何、食いてぇ?」
相変わらずメニューを睨んだまま。
「え?僕ですか?僕は別に・・・・・」
「そんじゃあ・・・・特上寿司にすっか?それとも、鰻重特上、肝吸いつきとか?折角
だからな。お前の歓迎会、やってやるよ」
「・・・・・え?」
「ま、仲良くやろうぜ?長い付き合いになりそうだしよ」
「・・・・・ありがとうございます」
何か・・・・
良く分からない。
いい人なのか、そうでないのか。
俺の事を本気で心配してくれてるのか、ただ、困らせて楽しんでるだけなのか。
ただ、一つだけ思うのは・・・・
中居さんより厄介な人っぽい、って事。
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