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【30】
瞼に刺さる日差しの明るさを、薄く覚醒し始めた意識の奥で感じて。
少し眉を顰め、極僅かに瞼を持ち上げた刹那、感じた違和感に、俺は再びぎゅっと目を
瞑り直した。
・・・・・・何だろう・・・・何かいつもと違う景色が映って見えた気がして。
ゆっくりと思考を巡らせてみる。
・・・・・・え、と・・・・・・・
既にその明るさ加減から言っても、朝と言うよりは昼間と呼ぶにふさわしい光量に感じられ、
いい加減起きないとマズイんじゃないか、と常識的な判断は働くにも関わらず、とにかく、
目を開けるのさえ億劫なほど酷い倦怠感が全身を支配しているようで、酷く煩わしい。
「・・・・・・はぁ・・・・」
ほとんど無意識のうちに洩れた溜息をきっかけに、俺はもう一度、瞼を持ち上げる努力を
自分に強いて。
薄っすらと広がって行く視界は、まだ、ぼんやりと翳んで、そこが見慣れた自宅でない事だけを
辛うじて伝えて来る。
・・・・・・え、と・・・・・・・
もう一度、瞼を落として。
その景色を脳裏に反芻して。
まるで知らない場所でもない事も、割合、簡単に判断がついた。
・・・・・・確か・・・ここ、は・・・・・・
少し考えて、その答えに辿り着いた瞬間。
「ぅわっ?!あっ!すいません!俺、すっかり眠り込んじゃって!!」
ベッドから跳ね起き、すかさず、深く頭を下げた後、ゆっくり恐々頭を上げた先には誰も
居なくて。
「えっ?!あれっ?!せ、先生?!」
確か・・・・
とにかく原稿を締め切りまでに仕上げようとご無理なさった先生の症状が悪化して・・・・
それで、俺も出来る限り事は手伝わせてもらって、どうにかギリギリセーフの所で原稿も
仕上がって。
FAXで原稿を送信するのを待つ間、お疲れの先生に休んでもらうために、ひとまずベッドへ
お連れして・・・そのまま、成り行き上、同じベッドで休ませてもらう事になって・・・・
なのに、何で?!
何で先生の姿が今、ここにない訳?!
ベッドから慌しく降りて寝室をドアを開けようとしたその瞬間、自動ドアのように勝手に
ドアが開いて。
扉の向こうに先生が立ってらした。
「先生?え?あ・・・お手洗いですか?って言うか、え?あの・・もう1人で起き上がられても
大丈夫なんですか?」
「ん・・・・?あー・・まぁ・・・・ま、無理は禁物?程度の鈍痛が完全になくなった訳でも
ねぇけどな。けど、支えなしでも部屋ん中ぐれぇはうろうろ出来る程度には回復したっぽい?
っつーの?」
「そうですか。それは良かったですね」
原稿の途中で堪え切れない呻きを零して机に突っ伏してしまった先生を見た時には、本当に
どれほどの悔いが上ったか知れないけど。
良かった、大事に至らなくて。
ほぅっ、と胸を撫で下ろして。
「でも、ほんと、無理は禁物ですから。痛みが引いてからの油断が怖いそうですよ?さ、
早くベッドに横になって下さい。湿布、貼り直した方がいいですね?」
いつものように肩を支えようとした俺の腕を軽く除けて。
先生は身を翻す。
「え?先生?どちらへ?」
無言のまま部屋を出て行かれる先生の後を慌てて追って。
ゆっくりな足取りではあったけど、そうして、1人でちゃんと歩を進められるようになった
先生の後ろ姿に、安堵と一緒にほっと涙腺が緩みかけるのを感じて。
先生に見えていないのをいい事に、ごしごしと目元を擦り、また、先生の後を追う。
先生は俺を従えたままダイニングに入り、テーブルの前でこちらを振り返って。
「ちょい、ここ、座れ」
示された席に、別段、何の疑問も抱かずに、俺は腰を下ろしていた。
俺が座ったのを確認して、先生の姿がキッチンへ消える。
「先生?」
呼び掛けたのと、鼻腔をくすぐる芳しい香りが漂って来たのとはほぼ、同時で。
「あぁ、いい匂いですね・・・・・」
思わずしみじみ呟いていた。
ここ2、3日・・・・
あ、いや、先生の担当について・・・・ここ一週間ぐらいはまともな食事ってしてなかった
もんな・・・・・・
そんな記憶を辿ったせいで、それまでそれほど意識した訳でもない空腹が、いきなり襲い
掛かって来るような勢いで、急激に思考のほとんどを占めて。
完全な生理現象に近い、ほとんど無意識のうちに俺は喉を鳴らして、唾を飲み込んでいた。
キッチンに姿を消した先生の姿が再び、現れた時、その手には大振りのプレートに美味しそうな
料理がふんだんに盛られていて。
恥ずかしい話だけど、喉から手が出そうになる経験をこの歳になって、いやにリアルに
体感してしまい。
じっと、そこに腰掛けている事が、段々、途方もない苦痛に思えて来た。
「あ・・・・お食事、ですか?すいません、俺、何かすっかり自分だけ爆睡しちゃってて。
もうお昼ですもんね。先生の具合もだいぶ良くなられたようですし、俺・・・・そろそろ
失礼します」
ガタッ!と。
慌てて席を立とうとしたら、不躾な椅子の音が想像以上に大きく響いて。
ほんの僅か、腰を浮かせ掛けた所へ肩を押さえられ、俺は再び、椅子に腰を下ろさせ
られていた。
・・・・・・・まだ、ここに居ろって事なんだろうけど・・・・・・
正直、今の自分の状態で先生のお食事に付き合わされるのは、拷問に近いものがある、と
戦々恐々としていた俺の目の前に、その美味しそうな料理の盛られたプレートがセットされて。
「え?あ・・・あの?」
唾を飲み込むどころか、本当に涎まで出てきそうな状態に、本気で眩暈さえ覚えそうな
錯覚に見舞われながら、俺は目を白黒させて先生を見上げた。
「ビストロ拓哉へようこそ」
芝居がかったわざとらしい声音と共に、先生が恭しく俺に向って頭を垂れて。
その途端に「ぁて・・・つ・・いててててて・・・」と小さく呻いて、腰をさする。
「あの、先生?」
意味が分からなくて。
キョトン、と首を傾げて先生をもう一度、仰ぎ見た俺に。
「食えよ・・・っつーか・・・食って欲しい、っつーの?」
ちょっと困ったように、一度は正面から真っ直ぐに合わせられた視線を、すぐまた、泳がせる
ように外して、先生は少しバツが悪そうに眉根を寄せて。
「まだ、完全に完治って訳じゃねぇけど・・・色々と世話になったお礼?みてぇな感じ?」
「あ・・・・・」
咄嗟に何て言っていいのか、まるで思いつかない。
頭が真っ白で。
こんな風に、先生がこんな形で俺に対して、何かをして下さる事があるなんて、本当に
想像もした事なかったし。
・・・・・・・俺様の料理は特別なヤツにしか食わさねぇの
全く不意打ちのように、けれど、このタイミングでそんな先生の言葉が脳裏をよぎって。
益々、頭が気持ちが混乱する。
嬉しい。物凄く嬉しい。単純に嬉しい。
けど、先生が俺のために何かをして下さる、なんて言うあり得ない状況に対する戸惑いと。
本当にいいんだろうか、と言う微かな疑心暗鬼。
何か・・・・・
裏や、落とし穴があるんじゃないか、と。
これまでの少なくない先生とのあれやこれやのやり取りの経験がほんの僅か、頭を擡げて
警鐘を鳴らしたんだとしても・・・・・
それは止むを得ない事なんじゃないか、とか。
「あ、あの・・・・・・」
「んだよ?何?不味そう?つか、それ以前の問題?俺の手料理なんか食えねぇ、と?」
タチの悪い上司に絡まれた部下のように。
俺は肩を竦め、小さく首を横に振った。
「いいえ・・・あの、じゃあ、お言葉に甘えて・・・頂きます」
いつもより少し丁寧に合掌して頭を下げ、フォークとスプーンを手にする。
目の前に並べられた手料理は、きのことベーコンのスープスパゲッティーに、洋風茶碗蒸しと
野菜をふんだんに使った鮭のマリネ。
フォークにパスタを絡め、スープを掬ったスプーンの上に乗せて、一口、口に含んだ瞬間、
口の中に広がる柔らかなスープの温かみと、ふわりと鼻に抜けた深い香りと、そして、
ほっと心が休まるような優しい味に、こんな言い方はさすがに大袈裟かも知れないけれど、
本気で感動してしまい。
その味をもっと、味わいたくて、立て続けに何口か、それこそ、感想を口にする暇(いとま)さえ
惜しんで食べ続けてしまって。
じっと、突き刺さるような先生の視線を間近に感じたのは、一口目を口に入れてから少し
経ってからの事だった。
目を上げたそこに先生の視線とぶつかって。
「・・・・・どうよ?」
押し隠した不安げな瞳の色合いに、モノも言わず、ただ、かっ込んでしまっていた自分の
行動がどうしようもなく恥ずかしくなって。
「す、すいません。あんまり美味しくて、つい、夢中になっちゃって。俺、こんなに美味しい
もの、食べたの、多分、生まれて初めてです」
顔に朱が上るのを自覚しながら、それでも、自分が感じた美味しさを先生に伝えようと、
俺は夢中で言葉を紡いだ。
「凄く優しい味です。何て言うのかな・・・疲れきった身も心もほっと休まるような、そんな
・・・・・・・少し控え目に感じられる味付けなのに、香りの深さがこのパスタの味の
奥行きを広げているって言うのかな・・・・凄い・・・好きです、こういう味」
「・・・・・・わーったから、黙って食ってていいから」
途中で感想を求めた事を後悔するように、先生は苦笑を浮かべて、そんな風に促してくれて。
「あ、はい、じゃあ、続き、頂きますね」
五臓六腑に染み渡る、って言葉があるけど、本当にそんな感じがした。
「もう、ほんと美味しいです。パスタだけじゃなくて、茶碗蒸しもマリネも、それぞれの
味が主張し過ぎず、かと言って、印象が薄い訳でもなくて、それぞれにお互いがお互いを
引き立て合ってるって言うんですか?全体としてとてもバランスが良くて、何か幾らでも
食べられそうです」
「・・・・つか、お前、そんな華奢?っつーの?うっすい身体の割に良く食うねぇ?」
「すいません・・・ここ何日かまともな食事してなかったんで、それの反動もあると思うん
ですけど・・・・・・」
「まぁな、ゆっくりメシ、食ってられる状態でもなかったしな・・・・つか、今、ちょい
思い出したんだけどよ、俺がメシ食ってる時、お前が一緒に食ってたっつー記憶がねぇん
だけど?」
「え?あ・・・はい」
「何で?」
「え?」
「何でお前は一緒に食ってなかったの?」
「いや・・・何で、と言われましても・・・・・」
「まぁ、俺なんかと一緒にメシ食うより?1人で食ってた方が気楽だった、ってか?」
「って言うより・・・・」
「っつーより?」
「経済的な理由?だったりだとか・・・」
曖昧に口の中で言葉を濁しながら、俺は先生から目線を外した。
「経済的な理由?何、それ?」
「俺、給料を計画的に遣う、とか、まだ慣れてなくて・・・・・お給料もらったらすぐ、
欲しいモノとか買っちゃったりして・・・・給料日前とかね、ほんと、給料日までどうやって
暮らして行こうかな?って、真剣に苦悩するような月も、割とちょくちょくあってぇ・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「で、先生の担当になって、用事で買い物に出たりだとかするうちに、今月分のお給料は
ほとんど遣っちゃって・・・・・だから、お昼にパン1個とか・・・・夕飯に納豆1パック
とか・・・ちょっと、最近はそんな食事が続いてて・・・・・・・」
「・・・・・・・んだよ、それ・・・」
眉間に深い皺を寄せて、きつく俺を睨みつけて来る先生が、正直、物凄く怖い。
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