|
【29】
まだ覚めやらぬ意識の向こうで、何かが鳴っている音が聞こえていて。
・・・・・・音楽・・・・・?
・・・・・・着メロ・・・・?
機械的な電子音が奏でる音楽は、確かに着メロで、しかし、それは自分が設定した曲では
まるでなく、聞き覚えのないもので。
距離にすれば、けれど、そんな離れた場所からでもなく、少し、くぐもって聞こえて来る
その音源をほとんど無意識のうちに探っていた。
ベッドの上でゆっくり寝返りを打ちかけて、また、鈍痛を伝えて来る腰をさすりながら、
すぐ真横にある寝顔を少し眺めて。
確かに寝相は悪くはねぇよな。
同じベッドに入って来て、身体を横たえた途端、滑り落ちるように爆睡してしまったその
姿勢のまま。
今もまだ、すぅすぅと健康的な寝息を立てていて。
まぁ、寝顔を見るのが何も初めてって訳じゃないにしても。
こんな至近距離からしみじみ眺めるのは、また、違った感慨があって。
思わず、まじまじと見入ってしまっていた。
睫・・・なげー・・・・、だとか。
鼻、意外に丸かったんだなー・・・・、だとか。
目を開けている時には、やっぱり、その表情豊かで饒舌な眼差しに目を奪われるせいか、
こんな風にじっくりとそれぞれのパーツを見るって言う事も、案外、ねぇんだなー、だとか。
色が白い分、意外に綺麗に整った眉が黒く男っぽかったりだとか。
唇の形がこんなに綺麗で、艶やかにふわりとした質感を備えている事、だとか。
そうそう、口もなー。起きてる時にはほんと、マジで良く動くっつーの?
意外にお喋りで、膨大な量の言葉を紡ぎ出すために、忙しなく動いているせいで、こんな風に
じっくりまじまじと見た事もなかったんだよなー、だとか。
と言うような観察に浸っている間もその着メロはずっと鳴り響いていて、それがどうやら、
今、せっせと観察していたその身体の下から聞こえて来る事に気付いたのは、良く、これだけ
放置してても切れねぇな、と感心したような頃で。
ベッドの上に身体を起こし、更に耳を澄ませて。
どうやら尻の下辺り・・・つまり、尻ポケットに携帯を突っ込んだまま、寝てるって事か?
と、その事にはさすがに驚きを隠せず、それでも、力を込めてその薄い身体を裏返して見ると、
確かにスラックスのポケットからストラップが覗いているのが見て取れた。
良くこれで眠れてたもんだな、と感心する一方で、そんな事まで気が回らないほどに疲労困憊
していたのか、と不憫な思いも湧いて。
ポケットから携帯を引っ張り出し、着信者名を確認して。
一瞬の躊躇いの後、回線を繋いでいた。
「おめぇ、どうしたんだよ、アレ!何、センセのぎっくり腰、もう良くなったんか?」
いきなり挨拶も何もなく本題に突入して来た声は、まるで知らない人間のものでは当然
なくて。
「今朝、出社してみりゃーよぉ、大量のFAXが届いてて。しかも、それが木村センセからの
原稿だ、っつー事で、今、編集部内で結構、騒ぎになってて。おめぇは休暇取っちまってんのに
先生からの原稿が上がって来るなんてよ。何、一体、何があったんだよ。っつーか、おめぇ、
何で出社して来ねぇんだよっ!」
中居が俺の担当編集者だった時代もあったが。
そんな中で一度もお目に掛かった事のない、あ、いや、この場合、耳にした事のないような、
テンション高い声音に、こっちは僅かに携帯を耳から遠ざけつつ。
「まだ、寝てっから」
一言だけそう答えてやったら、ピタリ、と電話の向こうで時間が止まったように気配が途切れて。
「・・・・・・木村センセイ、ですか?」
さっきまでとはまるで別人と思えるぐれぇ、いきなり、ひっくいテンションのドスの効いた
声音が届いた。
「おぅよ」
「・・・・・・私が掛けた電話は、稲垣の携帯へのはずですが」
「まぁな、一応、ちゃんと着信者の名前は確認して?で、お前だって分かったから、どうせ
仕事の話だろうし、俺が出ても支障ねぇか、って思ってな」
「・・・・・・支障があるないの問題じゃありませんよね?一般社会常識的に、先生の
なさっている行動は常道を逸してますが」
「まぁそう硬ぇ事、言うなよな」
「自分に掛かって来た電話に先生が勝手にお出になられた、と知ったら、さぞ、稲垣は
怒るでしょうね?」
「さあ、どうだろうな?寝ぼけてて、どうせ、んな事ぁ気づかねぇんじゃねぇ?」
「・・・・・・代わって頂けませんか、稲垣に。私は稲垣に電話してるんですが」
「とは言ってもよー、2人してあーでもねぇ、こうでもねぇ、とか言いつつ?何しろ、こんな
経験?お互いに初めての事だしな?で、どうにか、漸く、ほぼ貫徹状態?で事を終えて、つい、
さっき寝たとこだしなー」
「・・・・・・・・・・・・」
「すげー良く寝てんだよ、満足そうに?可愛い顔して・・・・俺のすぐ横、おんなじベッドで、
今もまだ」
「・・・・・・・・・」
「起こすの可哀想だしな。色々と?マジでほんと、口では表わせねぇぐれぇ、献身的に?
俺の事、面倒見てくれたりだとかして?」
「・・・・・・・・・・」
「今時、親でも?恋人でもな、あんな風に一生懸命に看病なんかしてくんねぇんじゃねぇか
ってぐれぇ」
「なるほど・・・・・そんな稲垣の行動に対する、あれが先生なりの精一杯の感謝の表現、
と言う事ですね?」
「・・・・・バッ?!そんなんじゃねぇよっ!」
「いつもにも増して、素晴らしい出来の作品でしたね。こう・・・・一つ古い皮を脱ぎ捨てて、
新しい何かを予感させるような・・・・・先生にとっては、これが転機となられるんじゃ
ありませんか?」
「るせぇよ、んなご大層なモンなんかじゃねぇんだよ!お前んとこのへっぽこ編集者がな、
書かなくてもいい、だの、荷を降ろせ、だの、抜かしやがるから、俺様をみくびってんじゃ
ねぇぞ!って。そんな風に言われて、原稿落として堪るかって・・・・!」
「・・・・・・そうですか」
酷く含みのある声音が静かに、けれど、威圧的に届いて。
くっそー・・・・!んだよ、その、何もかも分かってますから的?全部、お見通しなんですよ的?
ニュアンスの一言はよ?!
くっそー!ムカツク!!
「先生がそこまで仰られるんでしたら、そういう事にしておきましょう」
しておきましょう、じゃねぇよっ!そういう事なんだよっ!
と、腹の底で沸々と怒りの炎は煮えたぎっているものの、なのに、俺は、何も口に出せずに、
ただ、ギリギリと歯軋りをするのが精一杯で。
「先生が編集者を稲垣に、と。稲垣を見初められた時から、私にはこんな日がいずれ早かれ
遅かれ来る事は分かってましたけど」
「見初めるってなんだよ!見初めるって?!」
日本語の使い方、間違ってんぞ!
それで、良く日本でもトップクラスの大手出版社の編集者が務まってんな?!
「ところで、先生?いい加減、稲垣本人を電話口に出して頂く訳には行きませんか?」
「んだよ、そんな急ぎの用事なのかよ?」
「一言、伝えてやりたいだけですが」
俺に向ける時とはまるで別の。
やんわりとした仄かな温かみさえ感じさせるような、そんな声音でそう抜かしやがるのが
俄然、面白くなくて。
「電話、あった事だけ伝えといてやるわ。こいつはまだ休暇中なんだろ?そして、ぐっすり
眠っていてお前からの着信には気付かなかった。そういう事だから。携帯を尻ポケットに
突っ込んだまま、その事にさえ気付かねぇぐれぇ疲れ果てて爆睡してんだからよ・・・・
せめて自分で目が覚めるまで、寝かせてやりてぇよ」
ベッドに腰を下ろしたそのすぐ隣。
極僅かな隔たり向こうの体温でさえ伝わってきそうな距離にある、少し乱れた髪にそっと
手を触れて。
こんなバカなヤツに・・・・・
赤の他人のためにわざわざ、会社休んでまで、ぎっくり腰の看病なんかしてくれる超が
つくぐれぇのお人好しと出会わなければ・・・・・・
きっと、作家業なんかには未練も何も感じる事さえなく、さっさと簡単に連載打ち切り
なんかも受け入れちまって、今頃は呑気に南の島でバカンス、なんて事になってたかも
知んねぇのにな。
電話の向こうからは、きっちり不満足げな舌打ちが、遠慮がちに、それでも、しっかり
伝えられて。
「そういう事でしたら仕方ありませんね・・・・目が覚めましたら編集部の方に連絡する
ようお伝え頂けますか」
「・・・・・・・了解」
「宜しくお願いします。あ、先生?最後になりましたが、素晴らしい原稿をありがとう
ございました。お疲れ様でした。また、来月もこの調子で宜しくお願いします。それと、
編集部の方からも、また、お見舞いに伺わせて頂きます」
「見舞いなんかいらねぇから」
「そう仰らずに。いつもお世話になっている先生の一大事なんですから、こちらとしても
知らん顔なんか出来ませんよ」
「・・・・・・・良く言うよ・・・原稿もらえる見込みがねぇと分かった途端、掌返したのは
どこのどいつだよ?」
「・・・・・・分かりきった社会の仕組みとは言え・・・・汚らしいですね、本当に」
「全くな」
どちらからともなく苦笑交じりの溜息が洩れて。
そんな事に今更、一々、傷ついたりするほど、中居も自分もお互い無垢でもねぇが。
・・・・だって!だって、悔しいじゃないですか!今までずっと、先生の作品のお陰で会社は
利益を得て来たはずなのに!原稿を頂ける見込みがなくなった途端、掌を返したように
切り捨てるなんて!
本気でそう言って憤った真っ直ぐな眼差しと、真剣な声音が脳裏をよぎって。
・・・・・自分達にも・・・そんな頃もあったんだろうか、と、ふと。
胸を過ぎる思いは微かな痛みを伴って、小さく突き刺さった。
|