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【28】
「プリントアウトして、こっち持って来て」
言われるまま、すぐさま、今、打ち込んだ全てをプリントアウトし先生の手元に差し出す。
「ん」
頷いて受け取った後
「ペン」
また、一言だけ指示があって。
机の引き出しを探り中から細字のサインペンを取り出して、また、先生の手に添える。
時折、顔を顰めつつ身体の向きを変えながら、先生は原稿用紙に目を走らせ。
「・・・・・すげーな」
最後のページを繰った後、低く呟いた。
「え?」
「すげー・・っつったの」
「ええ。凄くいいですよね。こう・・・こういう言い方をすると、凄く失礼かも知れませんけど、
これまで拝読させて頂いて来た先生の作品達とは、また、一味違うって言うんですか?聞き打ち
だったんで、まだ、ちょっとどこがどう、って具体的に言葉に出来ませんけど、打ちながらね、
こう・・・新しい何かを感じさせるニュアンスって言うんですか?もどかしいな、こんな
時に上手く伝えられる言葉を見つけられない自分が」
本当に歯噛みしたいほど、もどかしかった。
編集者として、そして、一ファンとして、もっと的確に、ちゃんと先生に届く言葉で、自分が
感じている何がしかを伝えたいと思うのに。
早く、もう一度、ちゃんと・・・一度だけじゃなくて、何度も何度も読み返して、ちゃんと、
先生に伝わる言葉で伝えさせて欲しい、今のこの、自分の心を揺さぶられた思いを。
「・・・・じゃなくて」
先生の手元からその原稿の束を引っ手繰りたいような気持ちに見舞われている所へ、先生の
呆れた苦笑混じりの声が届いて。
「お前がすげー、っつったの」
「は?」
「途中で句読点、省いてくれっつっただろ?」
「ええ」
「内心、全然、信じてなかったんだよな。けど、まぁ、こっちとしても、一々、「点」だとか
「丸」だとか言うと白ける?っつーの、あったし?ま、いっか、後で入れりゃーって。そう
思ってたけどよ」
「はい」
「なかった」
「え?」
「なかった、1個も。打ち忘れも打ち直しも・・・・すげーな、これ、すげーよ。だってよ、
書いてる本人じゃねぇんだぜ?人から聞く文章でな、こんな風に・・・あり得ねぇ・・・・」
低く唸るように。
けれど、それは静かに深く感嘆の意を表わしていて。
頬に血が集まるのを感じた。
先生にそんな風に手放しで心底から褒めてもらえる日がある、なんて想像した事さえなかった
せいで。
「・・・・・サンキュ・・・ありがとうな」
真っ直ぐに向けられた視線が嬉しくて有難くて、そして、誇らしかった。
「・・・・・いいえ。こちらこそ、ありがとうございました」
手渡された原稿を胸にかき抱いて、俺は深く頭を垂れた。
「早速、これ、編集部に届けて来ます」
「・・・・・やめとけ」
「は?」
「お前、今、究極の寝不足状態だしな。そんな状態でタクシーに乗ったりなんかして、途中、
眠り込んで、目的地に着いて目ぇ覚まして、慌ててタクシー飛び降りて、タクシーん中に
原稿置き忘れる、とかな?余りにも簡単に想像がついて、俺、怖ぇよ」
妙にリアルに事細かに先生の口から表わされる俺の様子は、余りにも現実に即していて。
笑うに笑えない。
「そこのFAXから送る方がぜってぇ、安心確実だからよ」
部屋の隅の方に設えられたそれを指さされて。
「番号、分かる?」
「え?あ、はい」
めったに使う事はないけど、一応は社会人の端くれとして持っている自分の名刺を引っ張り出し、
そこに印刷されている編集部のFAXナンバーを押して原稿をセットする。
そこから後は機械が自動でやってくれるから。
送信を待つ間。
「何か召し上がられますか?」
長かったような、でも、あっと言う間だった夜は薄く開けて。
町が動き出すにはまだ、少し早い、けれど、一日が始まりかける気配が、閉じたままのカーテンの
向こうから感じられる。
別段、それほど空腹を感じる訳でもなかったけど。
ただ、こうして待っているだけだと本当に眠ってしまいそうだったから。
あ、でも、もしかしたら先生も?
「あ、それより、もうお休みになられますか?」
「・・・・ん」
僅かにまどろむように、先生の声が辺りにほわりと浮かぶように聞こえて。
「ベッドに移りましょうか?起き上がれますか?」
先生の半身を支えて、こちら側に預けられる体重と温度さえが、これまでと違って感じられる
気がして、それが不思議で。
何だか、凄く身近で親近感が湧く感じ?
最初にぎっくり腰になった時ほどは酷い状態でもないらしく、ある程度支えている感じで
先生は割合、普通の足取りで寝室まで来る事が出来て。
内心で正直、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「明日、落ち着いたら一度、病院で診察してもらいましょうね?」
そんな言葉を届けると、先生はやっぱり、はっきりと浮かない顔で同意も凄く曖昧なもので。
「っつーか・・・まだ、当分、この状態でもこっちは全然、構わねぇんだけどぉ・・・・」
耳元を掠めた、極々小さい呟きは聞こえなかった事にして。
先生は良くても、こっちは困ります、って。
そんないつまでも会社、休んでたら、ほんとに、マジでお給料なくなっちゃうよ・・・・
中居さんに借りた分だって、返さなきゃなんないし・・・・・
って、つい、さっきまでの感動はどこへやら、妙にリアルに迫って来る現実に、少しだけ
暗くなりかけながら。
寝室のベッドに先生を横たわらせ、俺も少しリビングのソファで仮眠を取ろうと傍を離れ掛けた
瞬間。
手首を掴まれ、思いっきり引っ張られて、咄嗟の事に踏ん張る事も出来ずに、ほとんど
先生の上に覆い被さるようにしてベッドに突っ込んでしまい。
「ぎゃあっ!」
悲鳴が自分のすぐ下から響いて、慌てて、身を起こそうと手を突っ張るのに、なぜか、
起き上がる事が出来ずに、俺は訳が分からずにバタバタともがいて。
「つか!暴れんなっ!」
自分の身体の下から一喝する声を聞いて、ビックリして動きが止まった。
「お前ー・・・!ドン臭いのにも程があるっつーの?!何で、んなまともに俺の上に
突っ込んで来んだよっ!!」
どうして起き上がろうとするのに起き上がれなかったのか、動きを止めて少し落ち着いて
やっとその訳を知った。
何の事はない、先生の両腕が俺の身体を拘束していて。
「いや、あんな不意打ちを食らえば、誰だってこうなると思いますけど・・・・・」
「お前には反射神経とか言うもんがねぇの?!普通、突っ込むにしたって、俺の身体ぐれぇは
除けられるだろうよっ!」
「いや、無理ですって。絶対にそんな事、無理ですよ、あんな一瞬の事なのに」
「ほんっと、トロいヤツ」
嫌味ったらしく歪む先生の口元を、物凄い至近距離に見止めて、俺はもう一度、両腕に
渾身の力を込めて、その距離を少しでも引き剥がそうと努力してみた。
「・・・・って言うか・・・手、離してもらえません?先生だって俺に圧し掛かられてたら、
重いでしょう?」
一体、何がしたかったんだろう、と。
ここに来て、漸く、そんな疑問も脳裏を掠める。
「ここ」
一応は少し腕の力を緩めて下さったお陰で、先生との距離はある程度は保てるようになった
ものの、相変わらず先生は俺の手首を強く拘束したまま、身体の位置を少しだけずらして、
ベッドのマットレスを軽く叩いた。
「は?」
「譲ってやっから」
「は?」
「少し場所、空けてやるから、お前もここで休め」
「いや、狭いでしょう」
即答する俺に先生は、けれど、自分の意見を譲る気はまるでないらしく。
「平気だろ?シングルサイズよか、ちょっとぐれぇは大きいやつだし。何?お前、すっげー
寝相悪い、とか言う?」
「いや、寝相は悪くないと思いますけど」
今まで一緒に寝た相手の子の誰1人として、そんな事を言われた事はなかったし。
「どうせ、リビングのソファかどっかで寝るつもりだったんだろ?だったら、こっちの方が
身体、休まるだろうが」
断固としてそう言い張る先生に、そうかな・・・ソファで1人で横になる方がゆっくり出来る
気がするけどな、と、そう思いはしても。
「先生の方こそ、お1人の方がごゆっくり出来るじゃないですか?」
そう。ここまでして下さったんだから、ゆっくりしてもらいたい。
せめてもの労いを込めて。
「俺もおんなじ気持ちなんだって」
「・・・え?」
「お前にもゆっくりして欲しいんだよ。ゆっくり休ませてやりてぇの。けど、すっげ悔しい
けど、今の体調で俺がお前にベッドを譲って、自分はソファに寝るっつったって、お前、
ぜってぇ、そんなの許さねぇだろ?」
「当たり前です」
「だったら!ここでちょっと狭ぇかも知んねぇけど、一緒に寝るしかねぇじゃん」
「・・・・・・・分かりました」
言い出したら聞かない先生だし。
俺の事をそんな風に労わって下さるなんて珍しい事も、これが最初で最後かも知れないし。
「すみません、じゃあ、少しだけお借りします」
断って同じベッドに身体を横たえて。
あぁ、自分がこんなにも疲れ切っていたんだな、って。
そう意識したのは、身体を横たえた途端、瞼が落ちて、隣で先生が何か言い掛けているのは
分かるのに、何を言ってるのか聞き取れないぐらい猛烈に意識が朦朧として来て、ほんの
僅か数秒の間にも眠りの淵に落ちて行く自分を感じた時だった。
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