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【27】
「・・・・・あ、・・っつぅ・・・ぁて・・・いてぇ・・・・・」
先生が突然、思い立ったようにパソコンに向ってから、約1日が過ぎていた。
時間にすれば20時間余。
その間に、もちろん生理現象としてトイレに立つ事ぐらいはあったんだとしても、それ
以外の時間は、ずっとパソコンのディスプレイから目を離す事はなく。
夜食も朝食もそれこそ、簡単に摘めるサンドウィッチやおにぎりで済ませてしまい。
ただ、画像を眺めて思案を巡らせてる風な時間だとか、時折は、どんな意味があるのか
理解しかねるような脇道に逸れる事もない訳じゃなかったけど。
それでも、そうして、結構な時間を費やした後、先生はそれまでの先生とは別の何かに
突き動かされるように、取りつかれたように猛然としたスピードでキーを叩き始めて。
そうしてキーを叩き続けた時間が、数時間経過した頃だった。
いきなり急に先生の身体が前のめりになったかと思うと、キーボードに突っ伏すようにして、
先生が低い呻き声を上げて。
見ると、深く刻まれた眉間の皺と共に、額にはついここ2、3日の間に特に目にするように
なった冷や汗が浮いて出ていて。
「大丈夫ですか、先生っ?!」
これもこの数日間ですっかり手馴れた感のある、先生の半身を支えて、取り敢えずは手近な
ソファへ先生をいざない。
先生が一番楽に感じられる姿勢を取る手助けをした後、そっと腰の辺りに手を触れると、
初めてそうなった時のように熱を持っているのが感じられて。
「湿布、取って来ます」
それまでも、心掛けて湿布はずっと貼り直しても来たけれど。
元気な人間だって20時間以上も同じ姿勢でパソコンに向っていたりなんかしたら、身体中が
凝って当たり前なのに。
こんな風にまだ病み上がりとさえ言えないような状態の先生に・・・幾ら、ご本人がお書きに
なられたいと仰ったからって・・・・・
俺はやっぱりあそこで止めるべきだったんだ、って。
過ぎた後悔に、どんなに唇を噛み締めても、先生の折角、幾らか回復し掛けた病状をまた、
悪化させてしまった事実から逃れる術はない。
「申し訳ありませんでした!」
頭が膝につくぐらい身体を折って。
けれど、どんなに謝った所で、先生を再び襲った痛みをどうする事さえ出来ない事も百も
承知の上で。
「何、謝ってんだよ?」
「すいません、俺・・・もっとちゃんと先生のお身体の事、気遣って・・・痛みが引いてからが
大事だって分かってたはずなのに、こんな無理させちゃって・・・・・・」
「別にお前の責任なんかじゃねぇじゃん。俺が勝手にやりたくてやった事なんだからよ。
俺が書きたかったから書いただけの事で、お前はそんな俺の我が儘に付き合って、自分も
寝ないで一緒に頑張ってくれて」
「俺は!俺は健康体ですもん。ちょっとぐらいどうって事ないですけど!」
「ここ何日間かは、俺の面倒見んのに忙しくて、ロクに寝てねぇくせに」
痛みに頬を引き攣らせて、それでも、先生が困ったように小さく薄い笑いを刷いた。
「でも!こんな風に先生に無理させてまで原稿を・・・・・」
頂こうとしてたのは事実で。
つまらない自分勝手な意地のために。
編集部を見返してやりたいだとか。
そんな下らない事のために自分がしでかしてしまった事のバカさ加減に、正直、反吐が
出そうな思いで。
「つか・・・・んな事より・・・俺、めちゃくちゃ悔しいっつーの?原稿・・・・お前が
編集者なんかじゃなくて、ただ、単なる俺の一ファンなだけだったとしたら、体調が完全に
なってからでも全然、問題はねぇんだろうけど・・・・・お前の今の立場として、やっぱ
俺の原稿っつーのは、少なからずお前の手柄っつーの?ま、そんな感じのもんになるはずだろ。
だから・・・どうしても・・・死に物狂いででも上げたかったんだけどな、原稿・・・・・」
「そんな?!俺の仕事のために、だなんて!そんな理由のためになら、尚の事、こんな
無理までして頂く道理なんかありません!」
「なぁ・・・・・」
ソファに身体を横たえて。
その姿勢から先生はじっと、俺に本気の眼差しで視線を合わせ。
「頼む。お前・・・代わりに・・・俺の代わりに原稿、打ってくんねぇ?」
「は?」
「俺が口立てすっから・・・それをそっくりそのまま、打ち込んでってくれるだけでいいから」
「・・・・・・・もう、今日はお休みになられた方がいいですよ?」
「こんな中途半端で投げ出したりなんかしたら、なんでここまで悪化させてまで踏ん張った
のか、分かんなくなっちまうだろうが!」
叱責するように、厳しく言葉が飛ぶ。
「後、ちょっとなんだよ。もう少しで今回分の枚数、ちゃんと埋まるから!」
必死って言っていいような先生の懸命さに、さすがに俺も何も言えなくなる。
「分かりました・・・・・」
つい今しがたまで先生が座っていた椅子に座り、先生が叩き続けていたキーボードに指を
置いて。
ディスプレイに打ち出された、ここまで先生が綴って来られた文章を軽くなぞる。
ああ、先生の小説だ・・・って。
訳もなく感動が込み上げて、じんわりと目の前が薄く滲む感覚を、目に力を入れて何度か
瞼を瞬く事で堪えて。
今はまだ、感動してる場合じゃない、って。
「あの・・どうぞ?」
スタンバイOK状態になってからも、暫く、先生の声が聞こえる事はなくて。
ディスプレイ越しに先生に投げ掛けた視界に映ったのは、何とも言えない妙に怒ったような、
気恥ずかしげな表情で。
え?って。
普段の傲慢(?)な先生の態度からはかけ離れたような、言えば素?のような先生の顔に俺は
確かに驚いていて。
「先生?」
呼び掛ける俺の声に、先生は明らかな苦笑を浮かべた。
「・・・・って言うかぁ・・・・やっぱ、これ、すっげーハズいな、実際、やってみようと
思うと・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「自分が頭ん中で捻り出してるモンを、声に出すとか言う事って、実際、自分で書く時には
ぜってーやんねぇもんなぁ・・・・・」
まぁ、それは確かに。
自分の書くものを声に出しながら打ってる人がもし、居たんだとしたら、それはそれでかなり
怖いもの?って言うの?マニアックなものを感じるかも知れない。
「ですよね、やっぱり。お止めになります?」
そう言って腰を浮かせ掛けた俺に
「ちょ・・お前、気ぃ短ぇな」
先生はちょっと呆れたように笑う。
「あ、こういうのはどうです?」
ちょっと名案を思いついて。
「役者になられたおつもりって言うんですか?ほら、1人芝居の独白みたいな感じで頭の中に
ある文章を口にされる、とか言うの、いかがです?」
「・・・・・あぁ、んー・・・・なるほどな」
俺の案に先生は少し頭の中でその光景を描くように、空に視線を泳がせた後で。
「よっしゃ・・・うん、それで行ってみっか・・・」
意を決したように、軽く意識的に息を吸い込んだ先生は、やがて、静かに物語を紡ぎ始める。
耳から流れ込んで来る言葉達を脳で懸命に追い掛けながら、俺はそれを指先で形に表わして行く。
「ちょっ・・え?あ、待って下さい」
「早くしろよ!忘れちまうだろうがっ!」
「こっちは変換だってしなくちゃいけないんですからね!少しぐらいは配慮して下さいよ」
「今、頭ん中に閃いたもんのすげーいい文章が、お前のノロモタしたキーさばきのせいで
ぶっ飛んじまったら、お前、どう責任取るつもり?!」
「これでもねー、タイピング速度にはかなり自信あるんですけど?!」
「だったら、ちゃんとそれをこっちに伝わる形で証明して見せろ!」
物語はクライマックスの物凄くいいシーンで。
趣のある情緒に満ちた描写の中で、そんなやり取りを飛び交わせたりなんかもしながら。
こんな状況の中で、良くもまぁ、その頭の中にある素晴らしい描写の数々や、表現の色々を
失わないものだなー、って。
懸命に先生の文章を追う作業の傍らで、そんな感想を思い描いている自分の脳にも、少し
ぐらいは感心もしつつ。
「・・・・句読点は一々、仰って頂かなくて大丈夫だと思います」
始めの数ページこそ、あぁだこぅだと下らないやり取りなんかも飛び交ったけれど、その
うちにこちらも段々、ペースが掴めて来て。
先生が綴られる文章の、一々、「点」だとか「丸」だとか言う言葉が耳障りに感じられる
ようにもなって来て。
「多分、大丈夫だと思います、俺。先生が句読点を打たれたいと思われる箇所、外さないで
行けると思います」
おこがましいかも、とは思った。
けれど、本当に自信はあったから。
伊達に先生のファンを自負しているつもりはなかった。
物語の文体の流れやリズムも込みで、俺は先生のお書きになられるものに心酔してるんだから。
「後で校正して頂けば・・・・」
「・・・・わーった」
極僅かな間の後で、先生は低く了承の意を伝えて来られて。
そこから後は本当に物語を読み聞かせしてもらっているようだった。
今、自分が打ち出している言葉の一つ一つが、描き出しているシーンの一つ一つが全て、
先生の頭の中で作り出されたものなんだと思うと、今はそんな場合じゃないと思いながら、
それでも、時折、瞼の奥がジンと痛くなって。
「今んとこ、ちょい、読んでみて」
時折、ご自身の描かれたものを確認されるように、そんな指示も受けながら。
「・・・ん、・・・・」
そうして、また、物語が続いて行く。
「『・・・・・・・・青白い月の光が、闇色に彩られた湖面に反射して淡い幻想的な煌きを
放ち、他に何の明かりもない中で、その細いシルエットが儚く浮かび上がった。』」
「・・・・・・・・・終わり、っと」
気の抜けた風船のように、ほうっと大きく一息ついて、その一言をピリオドのように口に
した先生に。
少し遅れて、今、聞き取った文章を打ち終えた後、俺も深く息を吐いて、全身の緊張状態を
解いた。
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