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【26】
ゆっくりとなら、どうにか自力でも身体を起こせる程度に、痛みは徐々に軽減されて来た
らしく、先生はベッドから起き上がって来て。
「書斎、行きてぇんだけど」
ぎっくり腰になってから初めて、その場所を口にした。
「悪ぃ。ちょい、肩、貸して?」
そうして、身体の半分に掛かって来る体重も随分と負担が感じられなくなって来てもいて。
足の運びもかなりスムーズになって。
「随分、楽になられたようですね?」
先生の回復が嬉しくて素直に声を弾ませた俺に
「これでやっと、うぜぇ我が儘担当作家から解放されるし?」
先生のいつもの笑みが眼差しを彩って、こちらを覗き込むようにして向けられる。
「そうですね」
はっきり笑って頷いたら、ちょっと悔しそうに、ほんの僅かだけ傷ついたように瞳を
曇らせる先生の反応が、自分で想像したよりも楽しい、って言うと、先生ははっきり
怒るだろうけど。
でも、自分で振るくせに、こっちがそれを了解したりだとかすると、少なからずショックを
受けるらしい、そんな先生のささやかな強がり?突っ張って見せている風な様子が、何だか
可愛く思えて。
「先生って素直じゃないですよねー」
しみじみそんなセリフを零した俺を、心底、憎たらしそうに睨みつけはしても。
それ以上の反論も攻撃もない所を見ると、今、俺が口にしたセリフもあながち、外れている
訳でもなさそうで。
そんなやり取りをするうちに書斎に着き、ドアを開けいつものパソコンの前に腰を下ろし。
静かに目を伏せた先生はそっと、パソコンの上に右手を置いて、深い息を一つだけ吐き出した。
どうって事ない動作に過ぎないそれは、けれど、何かとても厳かな先生の儀式にも思えて。
自分がそこに居る事が邪魔になったりしないだろうか、と。
先生の大切な時間と空間の中に、自分が座を同じくする事が躊躇われて。
目を伏せたままの先生に気付かれないように、そっと部屋の外へ出ようと、ほんの少し
身動ぎした刹那。
「ここに居ろ」
上から目線の命令口調だったにも関わらず、その声音には言葉ほどの高飛車さも傲慢さも
なく、むしろ、それは上司が部下に向ける信頼、だとか、或いは、共に戦って来た戦友に
向けるものなどに相通じるものを感じさせるような。
そんなニュアンスをこちらに伝えて。
「はい」
言われるまま俺は、先生のデスクから少し離れたソファに腰を下ろした。
パソコンを起動させる微かな音が、無音の室内を慎ましやかに彩り、やがて、キーを叩く
リズミカルな音が伝わり始める。
「先生?あの・・大丈夫ですか?」
先生の意図が掴めないまま、俺は少し身を乗り出し、パソコンのディスプレイの向こうに
見え隠れする先生の表情を覗き込む。
「原稿の締め切り・・・・確か明後日の朝まで、だったよな?」
「え?」
「・・・・・つーか・・・・」
「は?」
「締め切りのために書くんじゃなくて・・・・俺、今、すげー書きたい気分?っつーの?」
「そうですか。それは良かった。書きたいと思える事が何より幸せですよね?結果的には
丁度良かったのかも知れませんね、強制的に書けない状態になっちゃった事。何だかんだ
言ったって3日も書かない日があったら、やっぱり書きたくなられるんですもん。先生に
とって、それだけ書く事って必要不可欠って言うか・・・・人間が酸素を吸って呼吸して
生きてるのとおんなじぐらい、先生にとっては自然に当たり前に必要な事なんですよね?」
倒れる前の先生とはまるで別人のように思えるぐらい、パソコンに向う先生の表情は明るくて、
前向きな意識がひしひしと伝わって来るようでもあって。
「・・・・バーカ。違ぇよ」
キーを叩く音に紛れて、低い先生の反論が聞こえて来る。
「え?」
「何か・・・思い出したっつーの?楽しみにしてもらえる事の嬉しさ?そういうのを久し振りに
思い出した感じ?楽しみにしてくれる人のために・・・・自分が描き出すものが誰かの
何かになる喜び?そのために書きてぇって気持ち?今、そんな事をちょっと思ってみたり
だとかしてんの」
「良かったですね。この痛みに耐えた3日間の休暇も満更、無駄じゃなかったって事ですよね?」
「別にぎっくり腰になったお陰で、今、そう思えてる訳じゃねぇよ」
「は?」
「あ・・・いや、そのお陰っちゃー、そのお陰って言えなくもねぇんだろうけど・・・・」
「あの・・・」
「色々とな、会社休んでまで献身的にご奉仕してくれた、バカがつくぐれぇ超お人好しな
新人編集者のお陰?」
「え?」
「もし、そいつが・・・今でもまだ、続きを楽しみに待ってくれてんだとしたら・・・・
こんな俺の書くもんなんかでも、読みてぇって思ってくれてんだとしたら・・・・・そいつの
ためだけに書くのも悪くねぇかな、って」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「締め切りだとか、連載打ち切りだとか・・・・一旦は投げ出して逃げ出しちまいてぇって
マジで思ってた事なんだから、今更、それに未練とかはねぇけど・・・・・せめて俺の原稿が
上がれば、お前が無駄に3日を費やした訳じゃなくなるんじゃねぇ?」
流れるような綺麗なタイピング音と一緒に流れ込んで鼓膜を震わせる言葉達を、咄嗟に
どう受け止めていいのか分からなくなるぐらい・・・・・
物凄く信じ難い思いと驚きの後、じわじわとその言葉を胸の中で噛み締めて、そこから
広がる温かい鈍い痛みは・・・・・これって、感動?って言うのかな・・・・
「でも・・・先生・・あの・・・お身体、本当に大丈夫なんですか?痛みが引いてからの
対処が大事なんだって専門家の話も出てましたよ」
「この原稿が無事に上がるんだとしたら、ちょっとぐれぇは悪化しても構わねぇかなって
思ってっけど、俺は?もし、これで悪化するような事があったら、また、お前が責任持って
面倒見てくれりゃいいんじゃねぇの?」
「って、先生!そりゃ、別にお世話させて頂くのは構いませんけど、俺、これ以上給料
減っちゃったら飢え死にしちゃいますよ」
「んだよ、大袈裟なヤツ」
「いや、真剣、本気で。そりゃあ、先生の原稿頂けるんでしたら、こんなに素晴らしい事は
ないですけど・・・・・その事で俺の減給に繋がるんだとしたら、俺、正直、背に腹は
変えられませんよ・・・・・」
「んじゃ、そん時はお前1人の食い扶持ぐれぇ俺が何とかしてやるよ」
「そんな訳には行きませんよ」
「いや、別に家政婦雇ったと思えばいい話だろ?お前もへっぽこ編集者なんか辞めて、いっそ、
ここでずっと家政婦やるとか、どうよ?!」
不意にキーを叩く音が途切れて。
想像以上に真剣な眼差しでじっとこちらを窺っている先生に、俺は苦笑で答える。
「ヤですよ・・・・何か家政婦って響き・・・カッコ悪いじゃないですか」
「響きかよ?!」
大袈裟に驚いた風で突っ込みを入れて来る先生を軽くいなして。
「明後日の朝までって言うと、相当、切羽詰った状態だと思うんですけど。こんな無駄話
している時間も本当は勿体無いんじゃないですか?」
折角、どんな理由であれ、書いて下さる気になって下さったんだとしたら。
是が非でも締め切りに間に合わせたい。
そうして、連載打ち切りだとか、バカな事言い出す編集部を見返してやりたい。
今のこの体調の先生にそんな、こっちの勝手な思いがどれほど負担になるかも承知の上で、
それでも・・・・・・
「んだよ、わーってるよ、んな事ぁ・・・・」
先生はあからさまにはっきりと拗ねて見せた後で。
「だから、お前も手伝え」
「は?」
「お前、パソコン、持ってるよな?ノート?デスクトップ?」
「ノートパソコンですけど?」
「よっしゃあ!それ、今すぐ取って来い!」
「は?」
「資料集め!時間のある時やなんかだったらな、関連書籍を買い込んで来るとか、図書館で
借りて来るとかもすんだけどな、生憎、今回はんな事、やってるヒマはねぇ」
「はあ・・・・・・」
「だから!パソコンで検索すんだよ」
「ああ、なるほど」
「つー事で、意味、分かったら即行動!」
ついほんの少し前までベッドで横たわって唸ってた同じ人だとは思えないほどに。
キビキビと指示を出して来る先生が、実はちょっと頼もしい、とか感じていたりなんかも
して。
先生に言われた通り、大急ぎで自宅に戻り、パソコンを持って再び、先生のお宅に着くと
同時に。
「飛行場のシーン入れるから。場所は羽田。空港ロビーだとか画像、検索してくれ」
「はい」
「後、主人公とヒロインの服装な、流行のブランドで行くから、適当に漁ってくれ」
「はい」
「エピの1個にお茶会を持って来る。略式と正式なのと、茶道関連のもの、ピックアップ
してくれ」
「はい」
「イメージん中にあるのは原風景なんだよ。こう・・・・イメージがもっと広がるっつーか
・・・・・・・そういうの、探せ」
「・・・・・・え、あ・・・はい」
何がどう繋がるのか、まるで、こちら側にはその意図を伝えないまま、それでも、先生に
言われるまま、片っ端から画像やら関連記事やサイトを拾い捲って。
先生のパソコンのすぐ隣に二台並べるようにして置いたこっちのディスプレイを目まぐるしい
勢いでチェックしては、また、自分のパソコンで原稿を打ち込んで。
そんな動作を何十回となく繰り返した挙句。
「だーーー!時間、ねえっ!!くっそー!イメージを広げてる余裕がねえっ!!」
悔しげに喚き散らす先生に。
「焦らなくても、まだ、時間はありますよ。大丈夫です」
真っ直ぐに視線を合わせて。
そんな確証も保証も本当はどこにもなくても。
それでも、俺はそんなセリフを、例え、口から出まかせであったんだとしても、気休めで
しかないんだとしても、口にせずにはいられなかった。
「分かった風な事、抜かしてんじゃねぇよ」
キッ!と鋭い眼差しで一喝された後で。
「目に見えない風景や、実際には嗅ぐ事の出来ねぇ匂い、だとか・・・主人公の感じる
温度や・・・そう言った諸々を活字だけで読者に伝える作業ってのはな・・・・どれだけ
リアルにそう言うもの達を自分の中にイメージ出来るかに掛かって来んだよ、俺の場合は。
そんな風にしてイメージを広げる中で色んな寄り道とかしながらな、段々、見えて来る
モンがあるっつーの?」
「・・・・・はい」
「自分の中の感性が動かない事にはよー、人様にそれを伝えるって言うのも無理な話だろ?」
何か・・・・・・
物凄く贅沢な時間・・・・・・
こんな風に・・・・大好きな先生の大好きな小説がこの世に生み出されて行く過程・・・・
原稿になる前のこんな光景を・・・・こんなに間近で、直に感じる事が出来るなんて・・・・
先生は何かっちゃあすぐに、再三、俺の転職を促して下さったりなんかして来るけど。
でも、俺、今、この職業について本当に良かった、って。
自分でもかなり恥ずかしいぐらいに感激してる。
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