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【25】
「あ、喉、渇きました?何か飲みます?」
「身体の向き、変えますか?」
「退屈じゃないですか?DVDか何かレンタルして来ましょうか?」
何の前触れもなく唐突に、先生が起き上がれなくなってから、3日目に差し掛かり。
ほんの少しずつではあったけれど、先生も自分の意志で身体の向きぐらいは変えられる
ようにもなって来て。
支えてあげれば、トイレにも1人で行ける程度に回復の兆しが見え隠れし始め。
「もう少し痛みが楽になれば、一度、ちゃんと診察を受けた方がいいですよね?」
そんな振りに先生は「おぅ」とか「あぁ」とか、相変わらず曖昧な返事を口の中で濁して
いて。
「もしかして、お医者さんが嫌いだとか?」
ふと思いついて口にした質問に返って来た答えは、案の定「別に」とか言う程度の愛想も
へったくれもない一言だったりもしたけど。
「・・・・・つか・・・・お前、ほんとに平気なの?んなとこで、んな事、3日もやってて
マジで会社は何も言わねぇ訳?」
そう続いた先生の問いに、俺は浮かべ掛けた笑みを静かに引っ込めた。
最初の一日目はいつもとほとんど変わらない調子で、色々と下らない遊びと言うか、ちょっかいを
かけてくれてた先生も、それが2日目となり3日目を迎えて、何だか、すっかり大人しく
なってしまって。
自分には想像する事しか出来ないけど、そりゃあ、やっぱり、辛いんだろうなって。
痛みがある事もそうだけど、それよりも、何をするにも一々、俺の手を借りない事には、
自分1人の力で何も出来ない事が、プライドの高い先生にとっては屈辱的で、肉体の苦痛より
深く先生を精神的に疲弊させてる感じ、って言うか・・・・・
だから、俺としてはなるべく先生の口から「どうしてくれ」だとか「こうして欲しい」だとか
言ってもらわなくてもいいように、先回りして、ちょっと先生の身動ぎする雰囲気を感じる
度に、その欲するものを尋ねたりもするようには心掛けて来たんだけど。
昨日なんかでも。
「あ、喉、渇きました?何か飲みます?」
先生の傍らで先生の本を読んでた俺の視線の片隅で、天井をぼんやりと眺めていた先生の
視線がベッド脇のストローボトルに移るのを感じたから。
それを手に、先生の口元に差し出したら。
何口か少し喉を湿らせた後、「サンキュ」って、小さな小さな囁きが先生の唇を動かして。
「え?」
思わず聞き返してしまっていた。
「んだよ?」
「え、あ、いや・・・・珍しいな、と思って」
「何が?」
「何が、って・・・いや、まぁ、いいです」
先生が俺に向ってお礼を言う、とか。
初めてなんじゃないか、って気はしたんだけど、それを口にしてしまうのはさすがに失礼かな、
と言う意識も働いて。
後、「身体の向き、変えますか?」って尋ねた時にも。
ずっと、ベッドで横たわったまま、同じ姿勢でいる事自体が、身体にはまた結構な負担
なんだな、って。
割合、頻繁に身体の向きを変えようと苦悩してる先生を見てて思った事だけど。
普段、寝ている時には当たり前に打っている寝返りさえ、今の先生にとって、自力でしようと
思えば、途方もない苦痛が伴うようで。
それでも、先生は意外に何度も、自力で寝返りを打とうと悪戦苦闘しているのを、俺は正直、
少し寂しい思いで見たりもしながら。
「仰向けになられます?」
腰と肩の辺りに手を添えて、ゆっくりと身体を動かした時にも「悪ぃな」だとか。
普段の先生の口からは絶対に聞く事のない殊勝なセリフなんかも拝聴させて頂いたりなんかも
して。
そう口にした時の先生の表情が、何だか疲れて力のないようにも見えたせいで。
「いいえ」って。
なるべく先生に余計な気を遣わせなくてもいいように、って、そんなつもりで浮かべた笑顔に
先生は余計に困ったように眼差しを揺らして、顔を背けたりされて。
「退屈じゃないですか?DVDか何かレンタルして来ましょうか?」って。
俺としては凄いいい事を思いついた、と思って。
寝た状態のまま楽しめる事って、それこそ、歌を聴くだとか、テレビを見るだとかその
程度の事しか思いつかなくて、DVDとかレンタルビデオとかって、丁度いいんじゃない
って。
どうせ、先生の事だからさ、無修正の裏もので、だとか。
てっきり、具体的にあれやこれやと嬉しがって無理な注文をつけては、こっちがうろたえたり
困ったりすんのを面白がるんじゃなのかな、って。
そんな想像まで勝手に脳裏に描きながら口にした質問には。
「お前の方こそ退屈でしょーがねぇんじゃねぇの?別に、んな、ずっとついててくんなくても
いいっつーか。適当に息抜きもして、それこそ、ちょっとその辺ぶらついて来るとかすれば?」
返って来た答えは、そんな風に俺の想像を完全に裏切るもので。
そりゃ、考えてもみれば・・・・・
先生が別に他の人を呼ぶつもりはないって、初日に仰ったそのセリフを真に受けて、こんな
風にして、勝手に俺が介抱って言うか、させてもらっちゃってるけど・・・・・
先生にとっては、やっぱり、俺に面倒を見られるのは迷惑なのかも知れないな、って。
改めて、そこに思考が留まる。
「まぁ、別に会社としては俺が何日休もうが、大した損失でもないとは思いますけど・・・・」
でも、そろそろお暇しないといけないかな、って。
俺の手前、誰も呼ばないって仰っただけなのかも知れないし。
先生に限って、そんな風にこちら側の意向を察して下さるとは、ちょっと思えなかったけど、
そう断定してしまっていいほど、俺は先生とのお付き合いが長い訳でもなかったし。
そんなような事を何となく脳裏で弄んでいた俺の聴覚に「え?!」と。
不意に怒りの篭もったような低い声が刺さって。
「おまっ!ちょっ?!今、何つったの?何日休もうが、っつった?休もうが、って・・・・
ちょ、待てよ!お前、もしかして、会社休んでここに居る、とか言わねぇよな?!」
ほんの少し身体の向きを変えるだけでも、相当の苦痛が強いられるであろうそれを。
いきなり、先生は凄い勢いでこっちを向いて、ほとんど怒鳴るのに近い声音でそう問い質して
来て。
「一応、休暇出しました。中居さんに俺のしようとしてる事は社会人としてどうかって思う
って言われて」
「って、お前、バカ?!そりゃ、中居の言う事は尤もだろうよっ!何で?!何でだよ!
赤の他人の俺の面倒見るために会社休んで?!お前、何、やってんだよ、一体!」
凄い勢いで伸びて来た腕が俺の襟首を一瞬、強く掴み上げた刹那、その手はまた、力なく
するすると俺の胸元を伝って下がって行き、ベッドの上で小さく1回だけバウンドして。
「・・・・っく・・つ・・ぁて・・・」
一気に額に冷や汗を浮かべ、苦悶の表情を浮かべる先生に、俺は怒鳴られてる事も忘れて、
思わずその背中や腰をさすっていた。
「大丈夫ですか?」
「じゃなくて!お前、一体、何やってんだよ」
相変わらず先生は苦悶の表情のまま、それでも、俺を鋭く睨みつける。
「だって!だって、悔しいじゃないですか!今までずっと、先生の作品のお陰で会社は
利益を得て来たはずなのに!原稿を頂ける見込みがなくなった途端、掌を返したように
切り捨てるなんて!」
「バカか、お前は。それが会社、社会の当然の仕組みなんだよ。別に悔しがるような事でも
何でもねぇの。原稿書けないヤツに用はねえ、って。出版社がそう言うのは当たり前の話
だろうが。仕事しねぇようなヤツがのうのうと暮らして行けるほど、日本って国は甘くは
ねぇんだよ。お前、一人前に大学まで出てて、一体、何、勉強して来たんだよ」
「国文科でしたから。経済の事だとかね、そんなに詳しくは」
「バーカ。小学生でも分かるっつーの」
「・・・・・・・・・・・・」
「お人好しにも程があるだろっ。あんなにお前の事、苛めてやったのに、何でこれ幸い、
俺とは縁が切れたって喜んで会社に戻りゃいいものを、そうしねぇんだよ?」
「突然だったからビックリしちゃって。何とかしなきゃって、それしか考えられなくて。
けど、さすがに3日も経って冷静になって考えてみれば、先生にとっては俺がした事って
ご迷惑以外の何物でもなかったんだな、って、やっと気付きました」
「何が」
「先生、俺に面倒見られるの、凄い苦痛を感じてらしたでしょ?そりゃそうですよね?
考えてみれば看護士でも何でもない、資格も何も持ってない、しかも赤の他人にね、そんな
風にして色々と面倒見られるのって、先生は特にプライドの高い方でいらっしゃるし。俺、
ほんとすいません、そんな事、3日もかかんないと気付かないヤツで」
「・・・・・・つか・・・お前さー、その勝手に色々想像して先走る癖、どうにかなんねぇの?」
「は?」
「いつ、誰が言ったんだよ、メーワクだって」
「でも・・・・・だって!」
「だって、何だよ?」
「何か・・いつもの先生と様子が違って・・・・遠慮されてる雰囲気って言うか・・・・
何か言いたい事があるように窺えるのに、何も仰らないままで・・・・・・」
「バーカ」
今度はゆっくりそっと、腕が伸びて来て。
僅かに痛みを堪えるように片頬に薄い歪みを刻んで。
それでも。
掌が後頭部の辺りを包むように触れて。
先生の瞳がこれまで見た事のないような優しい温かさを灯す。
「遠慮するだろ、少しぐらいは。たかがぎっくり腰如きであんなに一生懸命に看病とか
されたら、誰だって恐縮するっつーの」
「・・・え?」
「他人にこんなに献身的に、しかも無償で尽くされたりだとかする経験?初めてだしな。
素直に有難いとか嬉しいとか、そんな言葉も口に出来ねぇぐれぇ?こう・・・・結構、胸に
クるもん、あんぞ?」
「・・・って、でも・・・先生、いつも凄い当たり前に俺の事とかこき使って下さってたじゃ
ないですか、原稿を頂きに上がってた時」
「あれはギブアンドテイク。需要と供給の関係?」
「は?」
「ちょい違ぇか。見返り?お前は俺にこき使われる事によって、俺様の有難い原稿を頂戴
するって言う厳然とした利害関係がそこに存在しただろうが」
「・・・・ああ、そうですね、それは確かに」
「けど、今回のは全然、それとは違って・・・・言えば何の利害関係も成立し得ない無償の
奉仕な訳だから」
「そんな大袈裟なもんでもないですけど」
「仮に俺に恋人が居たんだとしても、ここまで献身的に尽くしてくれたかどうかは、いささか
疑問?っつーの?」
「別にそんな大した事してません、て」
「すんげー一生懸命なの?この3日、一緒に居て、すげぇ感じた」
「らしくないですよ、先生」
こんな風に面と向かって何の衒いなく、感謝の気持ちに近いものをはっきりと言葉にされて、
さすがに恥ずかしくて。
そんなに大袈裟に言われるほどの事なんて何もしてない。
ただ、ほんの少し、先生の痛みが軽減されるといい、って。
少しでも早く回復してくれればいい、って。
ささやかにそんな事を思っただけで。
「お前にとっては、ただのうぜぇ我が儘担当作家に過ぎねぇ俺の事・・・・・」
「違いますよ?大好きな、俺が物凄く尊敬してる先生、です」
「バッ・・・!おまっ・・何でそんなこっぱずかしいセリフ、面と向かって言えんだよっ!」
「先生だって結構、既に仰って下さってましたよ?色々と」
「・・・・・・・・・るせぇ」
はにかんだように、少し目を伏せて、それでも、柔らかく口元を綻ばせる、こんな素直な
先生の笑顔を見たのも、初めてだった。
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