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【22】
「中居さん!緊急事態が発生しまして。いきなりで本当に申し訳ないんですが、お金、
貸してもらえませんか?」
先生んちを飛び出して、真っ先に俺がした事は中居さんへ電話をする事で。
「は?何だって?!もいっぺん、言ってみ?」
俺の第一声が余りに突拍子もないものだったからだろう、中居さんの声は、いつも電話で
聞くそれとはまるで別人のようなふざけたテンションの高さがあって。
「だから、お金、貸してもらえませんか?」
もう一度、繰り返した声が若干の鈍りを帯びた。
「はぁ?」
どうやら、俺の最初の言葉が聞き間違え等でなかった事は分かってもらえたようで、一言、
聞き返して来る中居さんの声もまた、いつもの恐ろしくトーンダウンした声音に戻っていて。
「緊急にちょっと入用になっちゃったんですけど、俺、貯金とか全然なくて」
「つか・・・・何で俺んとこに金の無心して来んだ?」
「・・・・・・俺の知ってる人の中で、中居さんが一番、がっちり貯め込んでそうかなー、
って・・・・・・」
「はぁ?おめぇだって知ってんだろうよ、俺らの職業がどんだけ安月給か」
「そうですけど・・・・でも、中居さんだったら案外、堅実に貯金とかしてそうかなー、って。
いざって時のために計画的に貯蓄してそうだなー、って」
「・・・・・・・にしたってよ・・・単なる職場の上司より、親とか兄弟とかの方が頼み
易いんじゃねぇの、普通?」
「まさか。親にそんな電話なんか出来ませんよ。心配掛けるじゃないですか。自分の給料で
ちゃんと自活出来てないなんて、思われたくないですし」
「・・・・・・・親にカッコつけてどうすんだ」
「余計な心配、掛けたくないんです」
「・・・・・・・ちゃんと訳を話せ。幾らぐれぇ入用なんだ?」
その唐突な申し入れがどれほど非常識で図々しいものかは、一応、一般社会人として大いに
恥ずべき所はある、と理解出来る程度には、自分でも分かっていたけれど。
けれど、本当にどうしようもなく、背に腹は変えられない事態と言うのはあって。
少しぐらいは俺の切羽詰った状態が伝わったのか、中居さんは取り敢えず、そんな問いを
返してくれて。
「え、と・・・・取り敢えず2、3万もあれば足りるか、と・・・・・」
「おめぇ・・・・たった2、3万も手元にねぇのかよ?貯金ねぇのにも程があんだろ?!」
はっきり呆れた怒声が鼓膜を突き刺して来るけど。
「はぁ・・・・ほんと、自分でもねー、そう思いますけど、ないものはないんですから、
仕方ないですよね・・・・」
「つか、そんな計画性のない生活で、良く暮らして行けてんな、おめぇ。今回みたいに
突発的な何かが起こった時、今後、どうやって乗り切って行くつもりなんだよ?」
「今回の事を教訓に、今後はもう少し計画性のある生活設計をして行こう、と心に決めました。
だから、すいません、お願いします!」
「ちっ・・・しゃーねーな・・・・で?その金が急に入用になった訳っつーのは?」
聞こえよがしな舌打ちの後で、中居さんはわざとらしい溜息と一緒に、また、問いを重ねた。
「先生が急にぎっくり腰になっちゃいまして・・・・」
「は?」
「で、動けるようになるまで色々と物入りじゃないですか。医薬品だとか食料品だとか」
「・・・・・・・・まぁ、な・・・・・」
中居さんは何かを考え込むように、間を置いて、低く沈み込むような声を洩らす。
「それで必要なもの、買って来ますって言って、先生のお宅を飛び出して来たのはいいん
ですけど・・・・・・」
「・・・・・・全然、良くねぇだろうよ」
1人ごちて呟く中居さんの声は、敢えて、聞こえなかった事にして。
「それで・・・・ついでと言っては何ですが・・・・・もう一つお願いがあるんですが」
「・・・・・・・んだよ?」
「俺、ここからだと全然、地理とか分かんなくて。正直、まるで身動きが取れないって
言うか・・・・・でも、タクシーとか使っちゃったら、そのタクシー代だけでもバカに
ならないでしょう?最寄の駅も分からないですし・・・・・」
うだうだと言い募ってると、電話の向こうで深い嫌味ったらしい溜息が長々と聞こえて来て。
「何?もしかして、金の無心のみならず、その上、更に、この俺にアッシーやれ、とか
言ってんの、おめぇは?」
恐ろしくドスの効いた声が俺の背筋を凍らせてもくれたけど。
「お願いします!だって!編集部にとしても・・・・・先生にはずっとお世話になって来た
訳でしょう?!その先生の一大事なんですから!」
「・・・・・・・まぁ、なぁ・・・・・・・」
相変わらず、腹に一物持ってる風の中居さんの歯切れはすこぶる良くないけど。
「・・・・・・・おめぇが面倒、見んの?」
低く何かを探るように届けられた言葉の意味が良く理解出来ない。
「そのつもりですけど・・・・締め切りまで粘れって仰ったの、中居さんじゃないですか」
「それは平常時の話だろ?つか・・・・その状態となると、これでいよいよ、原稿もらえる
可能性は完全に消えた訳だ」
酷く考え深い声音が綴ったセリフに、俺はさっきとは全然、別の意味で背筋が冷たくなるのを
感じる。
「・・・・・原稿を頂ける見込みがなくなったら・・・・どうだって言うんです?」
確認なんかしたくなかった。
敢えて、中居さんが口にはしなかったセリフを引きずり出したくはなかった。
けれど。
「どうせ、社に戻ったってお茶汲み以外の仕事なんかない、って仰ったのも中居さんですよね?
渋る俺を無理矢理先生の所へ向かわせたのは中居さんでしょう?なのに・・・・!まさか、
原稿もらえる見込みがなくなったからって、今の状態の先生を見て見ぬ振りして、見捨てて
来い、なんて仰ってる訳じゃないですよね?!」
「・・・・・・わーった。おめぇの好きにすりゃあいいべ?」
ほんの少しの間を置いて、この電話中に既に3度目の溜息がまた、聞こえた。
「・・・・・・ありがとうございます・・・それで、あの・・・さっき、俺がお願いした事
・・・・・・・」
さすがに、こんな展開になって、もう一度、その事を切り出すのは心苦しいって言うか・・・・
自分でも、そう感じない訳じゃなかったけど。
「おめぇ、それ、自分で言ってて、とんでもなく手前勝手だって思わねぇ?」
「・・・・・・・・・・・・」
「おめぇ、さっき自分でも言ってたべ?嫌々、無理矢理、センセんとこ行ってんだろ?
なのに、何でそんな状態のセンセの面倒まで見ようとか思ぉ訳?」
「って?!目の前で苦しんでる人がいれば・・・自分の可能な限り手助けしたいと思うのは、
何も特別、変わった事なんかじゃないでしょう?」
「道徳論としてはな?けど、仕事中にそれするってどうか、って言う・・・・・」
「分かりましたよ!休暇にしといて下さい!次、俺が出社するまで休暇でいいですから」
「休暇取ってまで?あんなに煙たがってたセンセの面倒、見んの?」
「いけませんか?」
「・・・・・・・別に」
一言、突き放すように呟いた後。
「センセのマンションの前で待ってろ。20分で行くから」
「20分も掛かるんですかっ?!」
「殴られてぇのか、おめぇは」
押し殺した声は、いっそ、迫力もので。
「あ、いえ、そんな、滅相もない・・・」
慌てて、口の中で小さく言葉を添えた。
約束のきっかり20分後。
不機嫌丸出しの仏頂面で車を運転して来る中居さんの表情が、こちらに向って来る車の
運転席に見えた時には、さすがに怖くて回れ右したくなったほどだったけど。
器用に俺の隣に方向を転換しながら回り込んで来た車は、ぴったり俺の横で停止すると、
ガチャリ、とドアが開けられて。
「・・・・・・乗れよ」
絶対零度の冷気を纏った中居さんの声でそう促されて、俺は小さくなりながら、その隣の
シートに身を滑り込ませた。
俺がシートベルトをセットする間も待ち切れないようにいきなり、アクセルを踏み込んだ
中居さんは無言のまま、ずっと、前を睨み、ハンドル操作を続けていて。
とても、話し掛けようにも話し掛けられるような雰囲気でもなくて。
「一応、外回りって断って出て来たけども、1時間が限度だかんな。一箇所で大抵のモンは
何でも揃う大型ディスカウントショップに連れてってやっから・・・・20分で買いモン、
済ませろ」
ハンドルを握ったまま、相変わらず、前を睨みつけるようにして、中居さんは低く、そう
申し渡して来る。
「今のうちに、必要なモン、メモするなりして、確認して頭ん中に叩き込んどけ」
「・・・・・はい」
辛うじて、それだけ口にして。
携帯のメモを開き、足りないものがないか、もう一度、考えながら頭の中で必要なものを
チェックしてみる。
「着いたぞ」
ほんの数分走った後、車は目指す大型ディスカウントショップに到着して。
「一応、5万、な。返せる時でいいけども・・・・」
隣の運転席から腕だけが伸ばされて。
目の前に突きつけられるようにして差し出されたそれを受け取り。
「あの・・・すいません、ありがとうございます。ちゃんと、今度のお給料入ったら返します
から」
申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちを中居さんにちゃんと伝えたくて、中居さんの顔を、
中居さんの目をきちんと見たいと思ったけど、相変わらず、顔は前を向いたまま、視線も
前だけを睨みつけていて。
じっと、暫く、その横顔に真っ直ぐに視線を当て続けていても、やっぱり、中居さんの顔が
こちらに向く事はなくて。
「マジで休暇でいいんだな?」
シートベルトを外し、ドアを開けて下りようとした所へそんな声が届いた。
「はい」
確かに俺が勝手にする事なんだし。
それが編集者としての俺の仕事の範疇を超えているんだとしたら、個人的にする以外に
方法はないんだし。
「・・・・・・勝手にしろ」
・・・・・・・俺がしようとしている事、間違ってんの?
これって・・・・・社会人として、常識を逸した行動?
何か、俺・・・・・・・
想像した以上に中居さんの態度が硬化しているのを感じて、段々、自分の行動に対して、
自信がなくなって来る。
おかしいのかな・・・・・
俺のやろうとしてる事・・・・・・
頭の中に、割と熱心に叩き込んだ必要なものを、オレンジのかごの中に放り込みながら、
俺はすっかり考え込んでしまっていた。
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