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【23】
「そんじゃ、ま、頑張れや。センセに一日も早いご回復をお祈りしてます、って伝えてくれ」
買い物を終えた俺をマンションの前で降ろして、中居さんは一応、という体でおざなりに
そう言葉を添えてくれて。
「ありがとうございました。お世話になりました」
社会人になって叩き込まれた、ちゃんとしたお辞儀で走り去る車を見送る。
飛び出して来た時の勢いは、さすがに完全に削がれてはいたけれど、それでも、青褪めた
顔でベッドに突っ伏していた先生の、寝室のドアを開けた俺に向けた眼差しが、明らかな
安堵を物語るように、柔らかく解れる様を目の当たりにしたら。
「んだよ・・・・マジで戻って来た訳?」
だとか
「つか・・・・良くそんなナリで出掛けてって、しかも、買いモンまでして来るとか・・・・
恥ずかしくねぇの?」
だとか、思いっきり憎たらしいセリフを吐き掛けられて、正直、内心でかなりカチン!と
来たのだとしても。
「まぁ・・・・それだけ憎まれ口、叩ける元気がおありでしたら、俺、やっぱりこれで
失礼して社の方に戻りましょうか?」
そう返した俺の言葉に、途端に。
「そんじゃ、そうしろ。社でもどこでも帰れ」
そんなセリフを口にしながら、それでも。
意地っ張りな子供が素直に「ごめんなさい」や「有難う」を口に出来ずに、それでも不安と
困惑に瞳を曇らせる時のように。
そんな色が先生の目の中に浮かぶ事に、気付いてしまったから。
「湿布、貼りましょうか。ちょっとヒヤっとすると思いますけど」
早速、買って来た湿布の封を切り、熱を持つ患部にそぉっと乗せて。
「冷てぇっ!」
ほとんど反射的に叫んだ先生の反応が、こんな時に不謹慎なんだろうけど、ちょっと可笑しくて。
「冷たいですよねー?でも、割と気持ち良くありません?」
湿布を患部に密着させるように、そっと掌を滑らせる。
「つか・・・!触んなって。マジ、これ・・・ちょ、ヤベぇっつーの?くっそ!なんで
俺がこんな目に遭わなきゃなんねぇの?!」
「そりゃあ、日頃の行いが良くないからなんじゃないですか?いたいけな新人編集者を
面白がって苛めたりしたバチが当たったんですよ」
「けっ!自分で言う?いたいけな新人編集者、だとか?」
「自分で言わないと誰も言ってくれないですもんね?」
「バーカ」
軽口を利きながら、先生の声音にもほんの少し笑いが混じって。
「ててて・・・・笑わすな、って、だから。振動とか・・・クんの、結構」
「そういうものなんですか?」
「つか、お前、面白がってるっつーの?楽しんでんだろ?はっきり、喜んでねぇ?人の不幸をよ」
「まさか。俺、そんな非人道的な事しませんよ?」
「内心でざまーみろ、とか思ってんだろ?」
「思ってません、て」
「嘘つけ」
「何で俺が先生に嘘つくんですか?」
「ま、口ではなんとでも言えっし?」
「ざまーみろ、なんて思ってたら、今、ここに居たりなんかしないと思いますけどね、俺」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「ご飯、まだですよね?俺、適当に作って来ますから、暫く、待ってて下さいね?」
先生の目の中を覗き込んで、そう伝えた俺に、先生は無言のまま、顔をぷい、と背けたのを
一応、それでも、それが先生なりの了承なんだと勝手に受け取って。
別に食べるものは普通でいいんだろうけどな・・・
でも、少しの間は胃の負担の少ない消化のいいものがいいかな、とか思って。
中華風具だくさん海鮮リゾットにメニューを決めて。
野菜も魚介類も色々、ふんだんに盛り込んで。
1人分だったら、そんなに時間も掛からないし。
とは言え、結局、材料の下拵えだとかなんやかやで、半時間ぐらいは優に時間が掛かって。
漸く、出来上がった土鍋をお盆に載せて、再び、寝室に顔を覗かせた俺に浴びせられた
第一声は、当然の如く
「遅ぇっ!ったく、メシ作んのに、どんだけ人、待たせりゃ気ぃ済む訳?!」
だったりなんかもするんだけど。
青褪めた苦悶の表情をチラチラと垣間見せる割には、この人、元気だよなー、なんて。
そんな感想なんかは、正直、内心に描きつつ。
「いや、待った甲斐はあったって思って頂けると自負してるんですけど?結構、自分的に
自信作って言うか、かなりイケるんじゃないかなって」
蓋を開けた途端、立ち上る良い香りの湯気に、我知らず、満足な笑みが口元に上って。
「え、と。起き上がれます?」
ベッドサイドにお盆を降ろし、ベッドの脇に片膝を乗り上げるようにして、先生の肩の後ろと
背中の下辺りに腕を差し込み、先生が俺の首筋に両腕を巻き付けるようにして、少しずつ
そっと身体を起こし掛けたんだけど。
途端に先生の身体が薄く湿度を帯びるのを感じて。
俺からは逸らされている先生の横顔を窺うと、真っ青で額に薄っすらと汗が浮いて。
首筋に回された腕が僅かに震えて感じられるのは、きっと、痛みを堪えるそれなんだ、と
想像がついた。
「・・・・無理、みたいですね?」
ほんの僅か、身体をベッドから浮かせた状態だった先生の身体をもう一度、ベッドに慎重に
注意深く横たえて。
「顔だけ少し、横向ける事、出来ますか?」
俺の言葉に、眉間に深い皺を刻んで、汗を浮かべた先生が小さく息を吐き出して、それでも、
ゆっくりとどうにか顔をこちらに向けてくれて。
「少し食べ難いと思いますけど、もう少し痛みが和らぐまで、この姿勢で召し上がって
頂くしかなさそうですね」
ベッド脇に椅子を運び込み腰掛けた姿勢から、先生の口元に鍋から掬ったリゾットを運んで。
ふぅふぅ、ふぅふぅ、と。
何度も何度も。
思いの他、熱心に、と言うよりは必死に息を吹き掛ける先生の様子を見ていて。
「あの・・・・先生ってもしかして、猫舌ですか?」
その表情が余りにも真剣だったから、つい、確認してしまった。
「んだよ、何か文句あんのかよ?」
どういう訳か、先生は妙に凄んで来たりだとかして。
「文句なんかありませんけど。仰って下されば、ちゃんと冷ましたのにって思っただけです」
そうして、先生の口元に近づけていたレンゲを、自分の口元近くに運んで、ふぅふぅと
息を吹き掛ける。
先生がどの程度の猫舌なのかはちょっと想像がつかないけど、それでも、もし、自分が
食べるんだとしたら、こんなに冷めてたらちょっとヤだな、と思う程度には冷まして、また、
先生の口元に差し出した。
本当に恐る恐ると言う感じでレンゲに口をつけた先生が、それでも、安心したようにぱくり、と
レンゲを口に含んで。
「・・・・うま・・」
思わず洩れた、と言って多分、間違いじゃない感想に、ほっと口元が緩む。
こんなに息、吹き続けたら、酸欠になるかも・・・って、ちょっとバカげた心配をしたく
なる程度に、俺はそれでも一生懸命にレンゲに掬ったリゾットを冷ましては、先生の口に
運ぶ作業をもう何度となく繰り返して。
食べ難い事、この上ない不自由な体勢のせいで、時折は口端から零れるものを拭き取ったり
なんかもしながら、それでも、先生は一生懸命に、結構な量をその胃の中に収めてくれて。
「お前、へっぽこ編集者やってるよか、シェフとかよ料理人?とか、そっちの進路に進んだ
方が良かったんじゃねぇの?」
って感想は、褒め言葉と受け取っておく事にして。
「デザートは桃のコンポート バニラアイス添えですよ?」
温かいコンポートに冷たいアイスを添えて。
これなら猫舌の先生でも食べ易いよね、って。
食事の後片付けを終えて、再び、寝室に戻り。
「少しお休みになられます?俺、邪魔だったら外しますけど」
尋ねた俺に先生は「痛くてどうせ、眠れやしねぇし」と苦笑を浮かべて。
「お前の方こそ・・・んなとこで、んな事やってる事、中居が知ったらド叱られたりだとか
すんじゃねぇの?」
「いえ、大丈夫ですよ。中居さんには既に了承済みですし・・・・・・あ、中居さんからの
伝言です。『一日も早いご回復をお祈りしてます』だそうです」
「んだよ、もう中居に知れてんの?カッコ悪ぃ・・・・・」
露骨に苦虫を噛み潰したように顔を歪めた先生が、ふと思い出したように。
「っつー事は・・・・・何?中居は知ってんだよな、この事?で?だとしたら・・・・・・
お前、戻んなくていいの、会社?」
「はい」
「・・・・・・ふぅん」
何かを言いたげに、一瞬、たじろいだ色を浮かべた先生は、それでも、ただ、一言、そう
呟いただけで。
「お休みになられないんでしたら・・・・少し、お話しても構いませんか?」
こんな機会でもなければ、先生と世間話をするって言ったって、なかなか難しい事だろうと
思えた事もあって。
「・・・・・・おぅ」
「先生って・・・初めて小説をお書きになられたのは幾つぐらいの時だったんですか?」
「・・・・ぷっ。何、それ?そのインタビューみてぇな質問」
作り物めいて噴き出す先生に。
「いいじゃないですか。教えて下さいよ」
「20歳ん時」
「え?」
「生まれて初めてオンナに振られて。チクショー!!って。悔しくてよぉ。何かメチャクチャ
腹立って。腹立ち紛れにバババババーーーーっ!!って書いたんが、新人賞取った小説」
「・・・・・・は?」
「現代の若者の等身大の叫びがリアルに聞こえて来るような、とか何とか評されてよぉ。
そりゃあなー、リアルもクソも・・・・余りにリアルな実体験?元に書いた訳だから」
「そ、そうだったんですか?」
「おぅよ。もう、受賞の知らせ聞いたって、何がなんやらチンプンカンプンでよ。何て
言うの?別にプロとか目指してるんでも何でもなくて。だのに、賞とか取っちゃって、
マジ、日本の小説界ってこれでいいのかよって思ったぐれぇだもん」
そう言う先生の口調に自嘲めいた色が混じって。
とか言いつつ、それがデビュー作となって、映画やドラマを始め、色んな形で取り上げられ
映像化までされて・・・・・
結局、才能のある人って言うのはそういう事なんだろうな、って。
何の苦もなく。
ずっと地中に埋まっていた不発弾が何かの拍子にある日、突然、爆発するように。
或いは。
季節の訪れを待っていた花が、その季節の到来と共に自ずとその花弁を花開かせるように。
この世界に現れて来るって言うか・・・・・
天才は1%のひらめきと99%の努力からなるって言葉があった気もするけど・・・・・・・
「けどよぉ・・・・なんつーの?自分の書いたもの?を誰かが読んでくれて、しかも、感想
くれたりなんかもして?そういうのって初めての経験だったりする訳よ。で、割と素直に
嬉しかったりなんかもして。何がそんなにウケたのか、自分でも今でも良くは分かんねぇけど。
でも、それから、色んなとこから執筆依頼とか来て・・・・編集の人がちょくちょくアドバイス
なんかもしてくれて?打ち合わせてとかしてるうちに、あ、って閃いたもんを形にして、また、
それが誰かの何かになる?それがすっげ、面白くて。もう、寝てらんねぇぐれぇ、嵌って?」
俺を苛める時にしか見られないと思ってた。
でも、少し似ててまるで違う・・・・・
こんな風に大切な宝物を胸の奥深くに隠し持った少年のような、キラキラと輝く瞳。
眩しくて、綺麗で、ただ、じっと、いつまでも見詰めていたくなるような、そんな憧憬さえ
感じさせるほどの。
けれど、その瞳はすぐ、暗い薄曇に覆われて行く。
「・・・・・何か、まだ、ほんの何年か前の事なのによ・・・・すっげ、昔の事のような
気ぃする・・・・・」
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