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【17】
「おらぁ!起きろっ!会社、行くぞ!さっさと支度しやがれ!」
身体に巻きつけていたはずの掛け布を思いっきり引き剥がされたばかりか、その上、ゆさゆさと
身体を揺さぶられ、あまつさえ、耳元にはこれでもかっ!ってぐらいの怒声を響かされて。
開きたがらない瞼を無理矢理、こじ開けようとして、途方もない頭痛に苛まれる。
「・・・・いっつぅ・・・・痛、い・・・・」
瞼を押さえ、洩れた声が僅かに震えた。
こんな痛みは生まれてこれまで生きて来た中で、初めて感じる痛みで。
胃を押し上げるようにして込み上げて来る、何とも言えない重く苦い痛みと同時に、それは
両方で俺を痛めつける。
なのに、声の主はそんな事にはまるでお構いなし、と言わんばかりに盛大に俺を揺さぶって
来る。
「・・・・まっ・・て・・やめ・・・苦し・・気持ち、悪・・い・・・・」
小さく言葉を吐き出しながら、他のものまで吐いてしまいそうな感覚に、瞼を押さえていた
手をのろのろと口元に移動させる。
たったそれだけの事なのに、酷く募る倦怠感。
うっ・・・!
本格化して来た吐き気に喉を詰まらせていると。
「うわっ?!おめぇ、吐くなっ!ぜってぇ、ここで吐くんじゃねぇぞっ!」
頭上から物凄い勢いでそんな声が降りかかって来て、それは、確実に俺の頭痛を直撃して
くれて。
一瞬、吐き気が吹き飛んで、そして、襲って来る壮絶な痛み。
「・・・・・ゃ・・もぅ・・・ちょ・・・お願・・やめ、て・・下さい・・・」
喘ぐように、したでに出て懇願していた。
とにかく・・・・
頼むから・・・・
ゆっくりと深く大きく息をつきながら。
ただ、それだけでも痛みのせいで吐いた息が震えた。
「そりゃー、あんだけ飲みゃー二日酔いぐれぇにはなんだろうよ」
同情の欠片さえ滲ませない冷たい声音に・・・・漸く、僅かだけ痛み以外の思考が浮かび
上がって来る。
「・・・・・・中居、さん・・・?」
ずっと目は閉じたままだったから、顔を確かめた訳じゃないけど。
今の氷のように冷たい物言いには、確かに覚えがあった。
「おぅよ。何、おめぇ、今、自分がどこに居て、どんな状況だか分かってねぇとか言う?」
大いに悪戯っぽい意地悪さを含んだ声音で向けられた言葉の意味を、痛みのせいでまともに
作動したがらない脳を必死に動かして考えてみる。
そう・・言われれば・・・
何で、こんな朝っぱらから中居さんの声で叩き起こされて・・・・?
恐る恐る、物凄くゆっくりな速度で薄く瞼を持ち上げて、回らない首を身体ごと少しずつ
辺りに視線を移動させる。
まるで、見た事もない部屋。
家具。
匂い。
空気。
完全な異空間。
「・・・・え?」
それでも、ただ、呆然とするばかりで。
「・・・・ここ・・・・」
「俺んちだ」
極めて短く的確な返事が返って来て。
「・・・・え?」
まだ意識はぼんやりとして。
ちっとも現状が飲み込めない。
「おら!目ぇ覚めたんだったら、いつまでもぼおっとしてねぇで、さっさとベッド降りて
支度しろ。シャワー浴びんだったら、風呂場は廊下出て右手の奥だからよ」
一方的に捲くし立てられるようにして投げつけられたセリフに反応しきれない自分が居て。
「あのぉ・・・どうして、俺・・・・」
「覚えてねぇか?」
既にシャツを着、ネクタイを結びながら振り向いた中居さんの目に嫌な光が浮かぶ。
「まぁ、無理もねぇわなー。おめぇ、へべれけだったもんな」
「あの・・・・・」
「俺を呼び出した事は覚えてんだろ?」
そう言われて、どうにかその辺りの記憶を辿り寄せる。
先生のお宅を辞去して。
真っ直ぐ家に帰る気にもなれなくて、目についたバーに入って、中居さんを呼び出した・・・・
けど・・・・・
バーで飲んだ記憶でさえが、今じゃほとんど思い出せない。
「俺が行った時には既に完全に出来上がっててな。おめぇんちに送って行こうにも住所も
分かんねぇしな」
「って・・・免許書とか・・・」
「あ?勝手に荷物だとかポケットだとか漁って欲しかったか?」
「あ・・・いえ・・・」
「とにかく、起きたんだったらさっさとしろよ。俺ぁ、もう少ししたら出んだかんな」
「・・・・・無理、です・・・とても、無理・・・仕事なんか出来る状態じゃありません、て
・・・・・・」
洩れる息が今もまだ、震えを帯びて。
「バカか、おめぇは!二日酔いで仕事休むだとか言語道断!くっだらねぇ事、抜かしてねぇで、
冷たいシャワーでも浴びて頭、すっきりさせて来い!」
強引にベッドから引き摺り下ろされ。
「こんな季節に冷たいシャワーなんか浴びたら、風邪ひきますよ・・・・」
まだ、落ちて来る瞼もそのままに、抵抗出来ずに。
ベッドから出たせいだろう、身体は急激に温度差を感じて、少しだけ身震いした刹那。
それが温度差だけがもたらすものじゃないような・・・
何とも言えない違和感?
心許なさを感じて、また、重い瞼を持ち上げて。
「・・・・ぅ、・・・えぇぇぇぇーーーーっ?!」
迸った声が鼓膜を直撃して。
いててててて・・・と頭を抱えてしゃがみ込みながらも。
そのまま、小さく、小さく、身体を縮こまらせて。
「お、俺・・・・俺・・・何で服、着てない、んです、か・・・?」
今度は別の意味で声が震えた。
「何でだと思う?」
既にビシッと身支度を整えた中居さんが、わざとらしく俺の目の前にしゃがみ込み、視線を
合わせて。
唇に浮かべた笑みが油断ならない様相を呈していて。
そんな事はあり得ないはずの・・・・・
けれど、つい、そんな想像をさせられてしまいそうな眼差しに言葉が詰まる。
「あの・・・中居さん・・・ふざけてないで教えて下さいよ・・・・」
頭の痛みも吐き気さえも吹っ飛ぶほどの破壊力でもって、自分の今の状況が迫って来る。
「別にぃ。おめぇが想像したような事ぁ、なーんもねぇから安心しろ」
「おめぇが想像したような事って・・・そんな事、あるはずないじゃないですか?!」
「だから、ねぇっつってんじゃん?」
「中居さん!そんな事は分かってますから・・・けど、俺・・普段、うちでもこんな恰好で
眠ったりなんかしないんですってば!それが・・よりにもよって他人の家でこんな・・・・」
言ってるうちにどんどん恥ずかしさが増して、顔に血が上るのをはっきり自覚させられる。
「・・・・すっげー・・・真っ赤・・」
ほんの僅かだけ感心したように、中居さんの声が洩れて。
「あ、あの・・・まさか、とは思いますけど・・・な、中居さん、が脱がせた、とか言う
事は・・ない、ですよね?」
「んー?俺がおめぇの洋服、脱がす訳?何で?何で俺がおめぇの洋服脱がしたりだとかする
訳?」
怒っているような、なのに、楽しんでもいるような。
とても分かりづらい表情で、中居さんのアーモンド型の瞳が、困惑して赤面している俺を
意外にくっきり写し取っている。
「・・・じゃない、ですよね・・・当たり前ですよね、そんなのね・・・・」
俺が困っている事を、多分、ただ、楽しんでるだけなんだ、この人は・・・・
その結論に漸く至って。
少しだけ気分が落ち着きを見せ始める。
そう・・・・
木村先生にしたって、中居さんにしたって、ただ、ただ、俺が困ってんのを楽しんでるだけの
人種の人達だったって事、今更ながら思い出す。
そうして、俺が現在進行形で困っている最中、どんなに詰問した所で、この人は絶対に
本当の事なんか教えてくれないだろう事にも、想像が及んだ。
「・・・あの・・じゃあ・・・俺の服って・・・・」
とにかく、こんな恰好じゃまるで身動きが取れないから。
何か着なくちゃ。
「服ぅ?あー・・・・どこだ?えっとなー・・・その辺にねぇ?」
面倒臭そうに軽く指先でこめかみをかきながら、中居さんは普段、持ってるカバンに携帯
だとか財布だとかを適当に放り込んでいる。
「その辺、て・・・・」
ぐるり、と辺りを見回して。ベッド脇にぐしゃぐしゃに押しやられるようにして脱ぎ捨て
られているあれって、もしかして・・・・・・
のろのろと床に手をついたまま、そこに近づき手にして見て。
溜息が洩れた。
確かにそれは間違いなく俺が昨日身につけていたスーツで。
「・・・・なんなんだよ、これ・・・こんなの着らんないじゃん・・・・・」
スーツを手にしたまま、ぼんやりと座り込んでる俺に
「おぉ、見っかったか?良かったな。そんじゃ、さっさと支度しろ!」
当然のように中居さんの声が聞こえる。
「・・・・ヤだ!」
「は?」
「ヤだ!こんなスーツで仕事になんか行けないもん!」
バサッ!っと、手にしていたそれを床に叩きつけて。
ツカツカっと足音が聞こえそうな勢いでこちらに近づいて来た中居さんが、俺の前にしゃがみ
込んだかと思ったら、いきなり、顎に手を掛けて、救い上げるようにして無理矢理、目線を
合わせられて。
「ふざけた事、抜かしてんじゃねぇぞ。今から着替えになんか戻ってたら、おめぇ、ぜってぇ
遅刻だかんな」
凄味を帯びた刺すような眼差しが、極、至近距離から向けられて、さすがに怯む。
「出社すんのが嫌だったら、そのまま、木村センセんとこ、行け」
「・・・・は?え?だって、でも、俺・・・・」
「とにかく、締め切りまで粘って来い」
「って、でも・・・」
「どうせ、社に戻ったってお茶汲み以外、ロクに仕事もねぇんだからよ。だったら、センセん
とこでヒマ潰してたっておんなじだべ?」
・・・・ヤですよ
零れそうになる言葉を辛うじて飲み込む。
「第一、原稿、もういいって言っちゃったのは俺だし・・・今更、どのツラ下げて先生の
とこに行けって言うんですか・・・・・・」
「連載打ち切りのトドメ、刺してぇか?」
「・・・・・それは・・・・」
「ま、原稿書かなくても良くなりゃー、先生の機嫌だって良くなるだろうし、案外、いつも
よりは真っ当なセンセにお目に掛かれるかも知んねぇぞ」
・・・・・いつもよりは真っ当な先生、って・・・・・
何だかそれって酷い言われ方じゃない?って気にはなったけど。
「これで連載打ち切りになりゃー、センセとのご縁もそれっきり、って可能性もねぇ訳じゃ
ねぇんだし?おめぇ、センセのファンだったんだろ?だったら、最後にちょっとぐれぇはよ、
創作秘話だとか世間話?だとか、そう言うのでもしてくれば?」
「いいんですか、そんなんで・・・・・」
「そんで、もし、何かの拍子にセンセが原稿、書いて下さる気になったとしたら、ラッキー
じゃねぇ?」
「そんなに上手くなんか、行きっこないですけどね・・・・・」
「飴とムチってやつだな」
「は?」
「別に」
つい、と立ち上がって。
準備万端整った中居さんが目だけで早く支度しろ、と凄んで来る。
これ以上、何をどう駄々をこねた所で、絶対に聞き入れられない事だけは確信が持てたから。
「・・・・着替えますから・・・席外して下さいよ」
「けっ!良く言うよ。ずっとそのカッコで一晩、一緒に過ごした仲だっつーのに」
「・・・・・・・・?!」
絶句するって言うのは・・・・・こう言う事を言うんだ、って・・・・・
うな垂れる俺にうっすく一瞥をくれた中居さんは、それでも、その部屋から出て行ってくれた。
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