|
【16】
・・・・・・俺、原稿を頂く訳には行かないです
意外なほどきっぱりとそう言い切って、想像したより全然、潔く自分に向けられた後ろ姿を
見送ってから・・・時間にして小1時間ほど経っただろうか。
最近では原稿の督促以外、ほとんどその着信を響かせる事のない携帯が、たまたま、自分の
聴覚に届く範囲内の所で鳴動しているのに気付いた。
こんな時間に携帯が鳴るなんて珍しい・・・・と言うか、普通の一般社会生活を営んでいる
人間だったら、とうに眠りに落ちていて当たり前の時間で。
けれど、だから、余計にその電話の発信者に想像が及ぶ気がした。
滅多に使う事もないから、管理も雑で。
どこからその音が響いて来るのか、まず、その音源を探る事から始めて。
もう、切れるんじゃないか。
と、焦る程度に、自分はなかなかその音源に辿り着けずに居たにも関わらず、その音は
ちょっと意外なほど、しつこく鳴り続いていた。
やっと手にした携帯の着信者名を確認して。
やっぱり、と。
自分が脳裏に描いた想像が外れていなかった事に、僅かに感じた誇らしさと、それを遥かに
上回る、何とも言えない苦々しさ。
自分の前から潔く辞去した例の新人が、いつも、いつも、その先輩編集者を頼りにしている
様子は何かの拍子に窺い知れていて。
無言のまま繋いだ回線に「・・・お久し振りです」ワンテンポ置いて、耳に覚えのある声が
時間帯を考慮しての事か、普段にも増して低く届けられた。
「原稿は捗ってますか?」
こんな時間にまさか、原稿の督促もないだろうと。
タカを括っていた思いをものの見事に外された思いで言葉に詰まる。
あの妙に良く口の回る新人編集者がここを後にしてから、小1時間程度。
まさか、その僅かな間にも担当者が前任の中居に戻り、早速、そんな電話を寄越してきやがった
のか、と訝る思いで反応が遅れた。
「・・・・んだよ、お前んとこのへっぽこ新人が、いらねぇっつったんだぞ。そんな気持ちで
書くモンにロクなもんねぇって」
「ええ。本人からおおよその事は聞きました。こんな時間に先輩編集者である私を呼びつけ
ましてね、自力では帰れないほどの酩酊状態で、仕方ないんで今はうちに連れて帰って来て、
パンツ一丁で私のベッドに転がしてありますが」
「・・・・・・・・・・・・・へぇ、そりゃ、ご苦労さんなこって。幾ら職場の後輩とは言え、
えらく面倒見がいいんだな。何もわざわざ自宅に引っ張って来なくてもよ、そいつんちに
送り届けてやって、玄関放り込んで、後はほっときゃ良かったんじゃねぇの?」
「私は彼の自宅までは知らないので。聞き出そうにも既に意識も手放しているような状態で。
そんなに長い付き合いと言う訳でもありませんが、こんな風になってしまったこいつを見た
のは初めてです」
「・・・・・・・それ、自慢?」
「は?」
「そんだけ俺はこいつに頼られてて、俺の前だからそんな醜態も晒すんです、って具合に、
こっちには聞こえんだけど?」
「そんな風に聞こえます?」
意図を量らせない、けれど、妙に含みを帯びた声音が、異様に自分の神経を逆撫でするようにも
感じられて。
ぐっと。ほとんど無意識のうちに腹の底に力を蓄えていた。
「・・・・おう」
「だったら、そうなのかも知れません」
飄々と答える様が担当時代の中居を思い出させて、また、沸々と面白くない感覚が蘇る。
前任の中居は、例えるならば今の新人編集者とは対極のような性格の持ち主で。
こちらがどんなにごねようとも、そんな事はまるで意に関せず、仮にどんな泣き言もどんな
我が儘も、その大半は聞き流されて。
「ええ、お好きにどうぞ」
「そうですか、分かりました。で、原稿の方は?」
と、かわされて。
結局、気がつけばいいように言いくるめられて、原稿を挙げさせられるのが常で。
まだ、自分とほぼ同年代の若輩者のくせに、妙に達観したやり辛い相手だった事を、今も
忌々しく思い出す。
それに比べて・・・・・
今回の新人は・・・・信じられないぐらい真に受ける体質だったなー、と。
ほんの僅かな期間だったにも関わらず、その新人編集者とのあれやこれやのやり取りが浮かんで
不意に口元が綻びかけている自分に気付き・・・・・
その好ましい、とさえ感じられそうな空気を思いっきり否定する意味も含めて。
「そんなヤツに懐かれて、お前も大変だ?」
わざと嫌味っぽい口調を作る。
「ええ。本当に手の掛かる可愛いヤツです」
返って来た返事は、思わず、つんのめりそうになるような答えで。
「・・・・・・・・あっそ」
益々、不機嫌さが募って、二の句も告げない。
「自分があっさり引き下がってしまった事で、先生の連載打ち切りにトドメを刺してしまった
んじゃないか、と。今更、震え上がってましたよ」
「・・・・・・・・バーカ。気付くのが遅ぇっつーの」
余りにもあっさりと引き下がったから、少しだけ怖かった。
自分のあんな理由に、あんな我が儘に、あんな風に本気で付き合ってくれたのは、あの新人が
初めてで。
もちろん、それが経験不足や、未熟さから導き出された結論なんだとしても。
それでも、そんな気持ちで生み出される作品は可哀想だ、と。
自分で愛着を持てない作品は生み出されるべきではない、と。
真面目な顔でそう語った、引き込まれそうに深い瞳が脳裏を離れない。
真っ直ぐな。
どこまでも真っ直ぐで、純粋な眼差し。
それは、ふと、自分の中にも確かにあった懐かしさを、まざまざと思い起こさせる。
こんな風に真っ直ぐな眼差しで。
真摯な思いで、真剣に作品と対峙していた頃の自分も、確かに居たはずなのに、と。
「もう遅いんですかね?連載打ち切り決定ですか?」
湧きあがって来るような、憧憬にも似た痛みを堪えている自分の聴覚に、まるで、タイミングを
量るかのように、中居の声が届く。
「は?何言ってんだよ。それ決めんのは、そっちだろうよ」
「稲垣がご説明申し上げたかと思いますが、今回の原稿が締め切りに間に合わない場合は
その可能性を否定出来ない、と言う程度の範囲内なんですが、まだ」
「そいつが引き下がった訳も聞いたんじゃねぇの?ま、そういう事だから。お互いのための
これが一番、賢い選択?」
「・・・・・・・そうですか。分かりました」
そう言って届いた溜息は、妙に作り物臭さを漂わせているように、自分には感じられて。
わざとらしい、と言えば、もっと分かり易いのかも知れない。
「先生?一つだけお尋ねさせて頂いても宜しいですか?」
「んだよ?」
「先生は・・・どうして稲垣を担当に、と申し入れられたんです?編集長に」
「・・・・・・さぁな。お得意の単なる気紛れ?お前に飽きたから?」
「どういう経緯で稲垣をご存知だったんですか?入社してまだ半年の新人の稲垣の事をどこで?」
「・・・・・・さぁな。どこだったけかな?」
「覚えていらっしゃらない?」
その言葉が余りにも上から人を小バカにしたような物言いで、つい。
「忘れるわきゃねぇだろ!」
と、口走ってしまったのが運の尽き。
「そうですよね。先生の記憶力もまた、創作力に匹敵する優秀なものをお持ちでいらっしゃるから」
「・・・・・たりめーだろ」
嫌味ったらしい口振りに、唇の端が歪んだ。
「で?稲垣とはどういう経緯で?」
「んなご大層な事でもねぇけど・・・・・」
「はい」
「たまたま・・・・打ち合わせって名目でメシ食いに行った先で、新人賞の選考やってて
・・・・・・・」
そう・・・・
丁度、デビュー作が予想以上の大反響でベストセラーになって、その勢いのまま、映画化やら
ドラマ化やらの話まで出て。
それに続く第二作をって事で・・・・・
出版社側もえらいリキのいれようで。
確か・・・どっかの料亭っぽい場所で。
そん時の編集者が打ち合わせの合間に、何かの話の拍子に世間話のように口にしたんだった
「今、丁度、○○の間で新人賞の選考会の真っ最中ですよ」って。
「その中からまた、第二、第三の先生が輩出される訳ですね」って。
別段、どうしてもって訳でもなかった。
それでも、やっぱり、少しぐらいは興味もそそられて。
「見せてもらう事とか出来んの?」
「いや、それはどうでしょう・・・・・選考委員の先生方にお伺いしてみない事には何とも」
編集者はマズイ事を口走った、と露骨に表情を青褪めさせていたけれど。
それでも、その部屋の前まで自分を同行させて、そして、雄々しくも中の先生方に声を
掛けてくれて。
その中でも、結構、発言力の強そうな女流作家の先生が、俺を見るなり「宜しいんじゃなくて?」
とか言う風に他の先生方を威圧してくれて。
お陰で選考作品の幾つかを見せてもらい。
その中にあったんだ、あの新人の作品も。
技術的にはてんでお話にならない状態で。
でも、何つーの?
何か酷く印象的で。
どんな事にも、一旦は肯定して、イエスと言おうとする主人公の眼差しだとか。
メゲないポジティブな物事の捉え方だとか、が。
ただ、それは一歩間違えば偽善、とも捉えられかねない素直過ぎる描かれ方が、選考委員の
中でも意見の割れた所らしく。
曰く、綺麗事過ぎる、だとか。
けど、俺はその作品に酷く心を囚われちまって。
わざわざ、その作者の住所を確認して自宅付近まで出没してしまったほど。
どういう人間がそれを書いたのか、ただ、純粋に知りたかった。
稲垣吾郎・・・・
年齢は20歳。
たった、それだけの情報だけで。
そこまで自分を駆り立てた、今もそれが何なのかは、分かりかねるのだとしても。
夕方。
丁度、いかにも大学帰りですと言う風体の男が通り掛り、その玄関に手を掛けた所に飛び出して
「アナタ、稲垣吾郎さん?」
いきなり問うた声に、思いっきり訝る様子を隠そうともせず。
「・・・・・そうですけど?何か?」
完全に初対面の。
顔を隠すようにして、帽子を目深に被りサングラスを掛けた相手に、胡散臭そうに冷たい
視線を突き刺して来る、それは普通の人間の普通の反応で。
物語の中のただ、綺麗なだけの感性の持ち主とは別の、けれど、リアリティーのある反応が、
その実、ちょっと嬉しいような肩透かしなような感覚も感じながら。
それでも、そんな胡散臭い相手の問いにさえ、極、素直に頷いた、それは、この眼前の男が
物語の中に描き出す主人公に相通じるものを、確かに匂わせてはいた。
「あ、いや・・・・失礼しました」
ただ、顔が見てみたかっただけだったから、その願望は果たされた訳だし。
別に会って何をどうこうって事もまるで考えてなかった俺は、そそくさとその男に背を向け、
足早にその場を後にした。
「その稲垣吾郎をな、丁度、ちょっとした野暮用で編集部に顔出した時に見つけて」
「・・・・・・」
「何しでかしたのか、お前に頭ごなしに怒鳴られてたわ」
「・・・・・・」
「こんな偶然てあり得ねぇだろう、普通?で、折角なんでちょい遊んでやろうかなって。
そんだけ」
「なるほど、先生が稲垣をご指名になられた理由(わけ)が、今のお話で良ぉく理解出来ました」
『良ぉく』の部分に思いっきり含みを持たせた言い方が、俺の眉間に皺を刻ませる。
「何が良ぉくご理解出来た訳?」
「ですから、先生がどうして、敢えてド新人の稲垣をご指名になられたか、がです」
「別に敢えてもクソもご大層な理由なんか何もねぇし。ただ、お?と思って、じゃあ、って」
「いいですよ、別に。どう誤魔化されるのだとしても、そこに込められた真意に変わりが
ある訳じゃありませんから」
「そこに込められた真意って何?」
何か勝手に勘違いされている感が強く迫って。
「真意なんか何もねぇんだよ。何、勝手にごちゃごちゃと思い描いちゃってる訳?」
「ええ、そうですね、こちらの勝手な想像なんでしょうね」
「気に入らねぇ。断然、気に入らねぇよ。はっきり言ってみろ。何、想像してんだか」
「・・・・・・・・いえ・・・申し上げたんだとしても、どうせ否定されるのが分かりきって
ますから。ここでこの件に関して、これ以上の論議は時間の無駄遣いに過ぎません」
一瞬の躊躇の後、きっぱりとそう断言して来る中居に、これ以上の問いをぶつけても無駄な
事は、簡単に理解に及んで。
「・・・・・・相変わらずムカつくヤツだな、お前は本っ当に」
「・・・・・・ありがとうございます」
「・・・・・・・・・・・」
「明日、また、稲垣をそちらに向わせます」
「は?何で?別にもう用なしだろうよ?」
思い掛けない中居のセリフに、声音がありありと驚きを示した。
「一応、締め切りまであと僅かですし、最終日のその日まで通わせますよ」
「それこそ、単なる時間の無駄遣いに過ぎねぇんじゃねぇの?っつーか、あいつだって別に
ヒマ、持て余してる訳でもねぇんだろうよ?」
「いえ、稲垣には今、先生の担当以外に仕事らしい仕事はありませんから」
「・・・・・んだよ、それ」
「ま、別にお好きに遊んでやって構いませんよ?本人は嫌がるでしょうけど」
鷹揚に請け負って中居の電話は切れた。
|