|
【15】
マンションを出て、こんな時間にはすっかり人通りの絶えた歩道を暫く歩く。
タクシーを拾うのは億劫で・・・・
真っ直ぐうちに帰るような気分でもなくて。
半分は無意識に、後の半分は意図的に、俺はジャケットのポケットに落とし込んでいた
携帯に手を触れた。
発信履歴を開いて、再び、その同じ番号にコールする。
3回のコールの後、意外に早く繋がった電話に、ほっと小さく唇が緩んだ。
「んだよ、まぁだ、何かあんのか?」
いい加減にしろ、と言いたげな空気を隠そうともせず、受話器の向こうから伝わる声音は
明らかな不機嫌と、それをほんの僅かに上回る諦めにも似た同情を灯して。
「ねぇ、中居さん、ちょっと俺に付き合ってもらえません?」
「んだよ」
「飲みたい気分なんですよ・・・お願いします。可愛い後輩のお願い、聞いてやって下さいよ」
「けっ!抜かせっ!何、気色悪ぃ事、言ってんだよ!誰が可愛い後輩なんだ、誰がっ!
第一、今、何時だと思ってんだよっ!こんな時間からおめぇなんかに呼び出されて、のこのこ
この俺が飲みに付き合うとでも、おめぇ、本っ気で思ってる?」
「思ってますよ。中居さん、口では辛辣な事言いながら、本心では突き放したり出来ない
タイプの人ですもん。仮に今、俺を突き放したんだとしたら、今夜は朝まで眠れないほど、
きっと『やっぱ付き合えば良かったか』って悩みますよ、絶対」
「んだよ、んな事、あるわきゃ、ねぇだろうがっ!」
「俺がこんな時間にこんな用で電話して来る事自体を訝ってるでしょう?今、何を差し置いても
他に最重要課題を抱えてるはずの俺が、中居さん、誘って飲みに行くってあり得ないでしょう?
そのあり得ない現実の謎を、中居さん、気にも留めないまま、俺の誘いをこのまま断るなんて
出来ないはずですもん」
「・・・・・・・・何かあった、か?」
暫くの沈黙の後で、嫌味ったらしい溜息を添える事は忘れずに、それでも、それを聞いて
くれた声音は探るような色と、困ったような、諦めを乗せた色が交じり合って。
「まぁ・・・少し。ね?だから、お願いですって。少しでいいです。俺に付き合って下さいよ。
断ってそのまま布団の中に潜ってたってどうせ、気になって眠れやしないでしょう?」
強引な事もムチャクチャな事も理不尽な事も、全部、分かってた。
分かってても、俺は中居さん以外に、今、自分が1人きりでいなくて済む相手を思い浮かべる
事が出来なかった。
先生のマンション付近の地理にはまるで明るくない俺は、それでも、何となくプラプラと
歩を進めるうちに適当なバーの前に出くわしていて。
店の名前と、その辺を歩いている時に目にした番地を口にしたら、驚くべき事に、数十分後には
ちゃんと中居さんもカウンター席の俺の隣に腰を下ろしてくれていて。
「おめぇ・・・・人ん事呼び出しといて、何、先に出来上がっちまってんだよ。っつーか、
一体、どんだけ飲んだんだ、おめぇ」
中居さんが隣に来た事さえ気付かないほどに、俺はカウンターに突っ伏して、それでも、
まだ、手からグラスを離せずにいた。
何をどれだけ頼んで、自分の喉をどれほどのアルコールが流れ落ちて行ったのか、まるで
把握出来ないほどに・・・・
こんな飲み方をしたのも、こんなに飲んだのも初めてで。
大学のコンパでも飲み会でも、新入社員の歓迎会でも、酔い潰れるなんて経験はついぞ、
した事がなかった。
元々、アルコールには強い体質らしくて、人と比べて結構な酒量を摂取したんだとしても、
自分の感覚的に普段とほとんど変わりがなかったし、第一、自分の美意識が、人前で
醜態を晒す事を厳に良しとしなかった事もあって。
中居さんは、そんなに長いとは言いかねる付き合いの中で、それでも、俺が酒に飲まれる
タチじゃない事ぐらいは知ってくれてもいたから。
乱暴に髪を掴んで、俺の頭をカウンターから引き剥がしながら。
瞬時、アーモンド型の瞳が哀しげに曇るのを見た。
「何で、今、こんなとこでこんな事、してやがんだ、おめぇは。普段、ほとんど交流がねぇ
っつっても過言じゃねぇ俺の事まで突然、呼びつけやがって」
「俺ね・・・・・」
そうして、俺は中居さんとの電話の後の、先生とのやり取りをかいつまんで中居さんに聞かせて。
「俺ねー・・・先生の我が儘、承諾しちゃったんですよー・・・だったら、もうゆっくり
して下さい、って・・・・編集、失格ですよねー・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
「けど、俺、すんげー悔しかったって言うか・・・・・俺、自慢じゃないですけど、ほんっとーに
先生の作品、好きで。マジで、本っ気で好きで・・・・・なのに・・・先生がね、あんなに
嫌々書いてらした、って事に、ほんとの欠片ほども、微塵も気付きもしなかったんですよ?
先生がそんな風に苦悩してらっしゃる、とかね・・・・ほら、普通、写るもんじゃありません?
書き手側のそういう・・・・こう・・・誤魔化しであったりだとか虚偽?何となく、薄っすらと
漂ってるもんじゃないですか。なのにね、全然、まったく、気付きもしなかったんですよ。
何か、それが凄い悔しくて、情けなくて・・・・・俺ってその程度にしか、先生の作品を
読み解けてなかったんだ、とか思ったらね・・・・・・」
基本的に自分はお喋りな方って言うか、口が人よりも良く回るらしいって事は自分でも
知ってた。
テンションが上がった時も、そして、逆に下がった時も、要するに、平常時でない時の
言葉数は平常時よりもまだ、相当量増えて。
こんな風に口から零れ出る言葉達が、ちゃんと中居さんの聞き取れるものになっているか
どうか、呂律が回っているだろうか、って不安はあった。
「つか・・・・それがあん人の天才たる所以なんだよ」
俺が言葉を切った辺りで、中居さんの声が聞こえて。
取り敢えずは、ある程度は伝わったのかな、と、そんな確認を胸に描きながら。
「え?」
今度はその言葉の意味に思考を伸ばす。
普段にはない量のアルコールを摂取してしまったお陰で、自分の思いに関して脳は、まだ、
比較的スムーズに働いてくれたけれど、人の言葉を理解する能力の方は、自分でも驚くほどに
低下していた。
「あの人は悔しいけどな、天才なんだよ。んな事な、どんな熱心な読者にだって微塵も
感じさせねぇのが、あん人のすげーとこ。俺ら編集だって、盲目じゃねぇんだからよ。
こっちはこっちでプロ、っつーの?ダメなものは、はっきりダメっつーし、ここをもう少し
って思やー、それを伝えて直してもらったりもするし。けどな、あのセンセはあんだけ
グダグダゆってても、俺らにそれを言わせねぇだけのモノをちゃんと上げてくれる人なんだよ。
ケチのつけようのねぇもん、ちゃんと上げてくれる」
中居さんの話の内容が先生の事に関する事だったから、それは、今の俺の思考や感情の
大半を支配している最大の関心事でもあったから、その会話の内容に関して、伸ばし掛けた
思考がちゃんと働いてくれている事に、自分でもほっとしながら。
これがもし、自分の全く興味のない話だったんだとしたら、絶対に、速攻で眠りに落ちる事が
出来る確信が持てた。
「でも!じゃあ、どうして?どうして、販売部数が落ち込んだりだとか・・・・・」
「ま、読者っつーのは気紛れなモンだし?新しいモン好きだし?正味、本当に混じり気ねぇ
純粋なファンって言うのはなー・・・段々、絞り込まれて来るっつーの?話題性だとかで
飛びつくヤツなんかは特に、また新しいのが出りゃ、すぐそっちに目移りしたりしてな」
「・・・・・・あぁ・・・」
「けど、バッ!って出て、ドンっ!って売れちまうとな、その落ち着いて来る過程が既に、
落ちこぼれてくような錯覚?に陥っちまうのも、また、致し方ねぇとこっつーか」
「・・・・・・そこまで分かってんだったら、一言、先生にそれ、伝えて差し上げれば、
先生も少しは気も楽になったかも知れないのに」
実際に先生ご自身が販売部数の低迷について、どの程度に心を痛めていたのか、さっき、
聞かせてもらった、もう書きたくない理由の中に、その明確な所は何も含まれては居なかった
けれど。
「こういう問題っつーのは、デリケートだかんな。んな、簡単に口に出来るような内容でも
ねぇんだよ」
ある種、言い逃れにも聞こえなくもない中居さんのそんなセリフは、けれど、現実問題として
そうなのかも知れない、と言う程度の想像は出来た。
「・・・・・俺・・・もっと、ちゃんと粘んなきゃダメだったのかな・・・・・・・・俺が
今までやって来た他の人達みたいに、それでも書いて下さい!って、もっと強い態度に
出たんだとしたら・・・・先生はちゃんと、今、中居さんが言ったみたいに文句のつけようの
ない原稿を上げて下さって・・・・そうして、ちゃんと連載も続いて行ったのかな・・・
俺が・・・・先生の連載打ち切りの・・・とどめを刺しちゃったって・・・事?」
考えたくはなかったけど・・・・
今の中居さんの話を総合すると、そう言う事になって。
先生にもう書かなくていい、って言ったのは俺で・・・・・
今回、原稿が落ちる事になれば・・・・連載打ち切りの話も本格化して・・・・・・
俺が・・・・先生の作家としての未来を・・・・潰した、って事・・・・?
そんなのって・・・・?!
突き上げて来る苦いモノを堪える術さえ思い浮かばない。
自分が、自分の未熟さ故にしでかしてしまった取り返しのつかないミスに、脳が冷たく冴えて。
ガタガタと。寒くもないのに、震えが止まらなくなる。
「・・・・な、かい・・さん・・・」
夢中で縋りついた中居さんの腕の、胸の、身体の温度に、何かが途切れるように。
俺の意識はそこで途絶えた。
|