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【14】
とにかく、何が何でも締め切りまでに先生の原稿を頂くためには・・・・・・
自分に何が出来るんだろう、って。
既に会話は途切れて、回線を切ってしまった携帯を、ぼんやりと見るとはなしに見詰めて。
こんな時に何をどうしていいのかさえ、まるで、想像する事さえ出来ない自分の経験不足や
力不足が改めて、胸に迫って、それでも、先生の原稿の進み具合をちょっとでも確かめ
させてもらいたくて、書斎に向おうと、ソファーから重い腰を上げた所で、ふと。
人の気配を感じて、思いっきり振り返った先には、感情の一切を排除したような、生気の
感じられない先生の姿があって。
「・・・・・・・・・い、いつから、そちらに?」
嫌な予感に詰まりながら尋ねる声が、少し震えた。
書斎の、あの重厚なドアに隔てられた空間の中に居て下さったんだとしたら、今の電話の
会話も耳には届かないはず、だけど・・・・・・
一縷の望みを託すように、そんな想像を一瞬、脳裏に描いても見たけれど、こちらに向けられて
いる先生の凍った眼差しが、現実はそうではない事を嫌と言うほど物語ってくれてもいた。
「・・・・・・・・すみません」
「何が?何かお前、俺に謝らなくちゃなんねぇ事でもしたの?」
いつもシニカルに歪められる肉厚の唇が、いつもにも増して酷薄さを帯びて凄味を増す。
「・・・・・・・あの・・・・」
「別に隠す事、ねぇんじゃねぇ?打ち切り?そっかー、ま、・・・・後、何話分?まさか、
今回ので最終話にしろ、とか?」
「ち、違いますっ!そうじゃなくて!え、と・・・あの・・・編集部の方でも先生に奮起
して頂きたくて、その・・・発破をかける意味で・・・・・」
「んな、気ぃ遣ってくんなくていいから。で?後、何話?それ、書き終わったら、俺も
やっと、晴れて締め切り地獄から解放される訳だ。お前も俺なんかから解放されて万々歳?
編集部としても扱い辛ぇ我が儘作家と縁も切れて、お互いのために、すっげーいい事尽くめ?」
あからさまな嘲笑を深く頬に刻んで、先生の眼差しは暗い光が蠢く。
「長い間、お世話になりました、ってか?」
「先生!」
「って、そう呼ばれんのも後、何日?ってね」
「先生っ!だから、ちゃんと!ちゃんと俺の話も聞いて下さいよ!その・・打ち切り云々
とか言う話は、もし、今回、原稿を落とす事があったら、って言う、あくまで仮定の話で!
要は締め切りまでに原稿をちゃんと上げて下されば何の問題もないんですから!俺、俺の
出来る事だったら何だってしますから!飯炊きでも風呂焚きでも掃除も買い物も、とにかく
先生が執筆に集中出来るように、俺がしますから!だから、締め切りまでに原稿、上げて
下さい!バカな事言ってる編集部の人間全部を見返してやりましょうよ!」
先生に掴みかからんばかりの勢いで、とにかく、自分の思いの丈をぶつけて。
「・・・・もう、いいって・・・・・」
俺の言葉が途切れたほんの一瞬の後、極低く、微かな先生の声音が洩れて。
「え?」
少し・・・・自分的にはかなりの興奮状態だった事もあって、その微かな先生の洩らした
声を捉え損ねた。
「もう、うんざりなんだよっ!」
不意に。
叩きつけるように言葉がぶつけられて。
「お前、前に聞いたよな、今は楽しくないんですか?って。楽しくなんかねぇよっ!もう
随分と前から、自分の書くものが面白ぇって思えなくなってた。何をどんな風に書いても
全部、何もかも、どっかで誰かが書いたような、誰かの手垢に染まったような・・・・・
自分でも似たようなのをそれこそ、何十回も書いた気ぃして。こんなの、面白ぇのかよ、って。
けど、編集のヤツらはみんな、口を揃えて『傑作です』『面白い』『またお願いします』
しか言わなくて。こんなの、売れる訳ねぇじゃん、って、それ分かってんのに、そんでも、
締め切りに追われて、原稿用紙だけを埋めて・・・・・自分の書きてぇものはこんなモン
じゃねぇ、って。けど、じゃあ、どんなのが書きてぇんだ、って。自分でそれも分かんなく
なって・・・・・」
始めは激しかった先生の語調は見る間に、どんどん低く声音を落として。
「・・・・・・もう・・・うんざりなんだよ」
仕舞いには囁くような細い独り言に似た呟きを洩らして。
崩れるようにソファに腰を落とした先生は、両手で顔を覆って蹲るように上半身を膝に
つくほど折って。
覆われた両手の隙間から零れた溜息は涙のようだった。
そっと。
同じソファの隣に腰を下ろして。
静かに先生の背中に掌を下ろす。
肩を抱く、だとか。
そんなのは幾ら何でも失礼なのは分かってるし、けど・・・ほんの一部でいいから、小さく
震える先生の身体に触れていたかった。
「・・・・・・分かりました」
言葉を発して、少し深く息を吸い込み、そして、ゆっくり吐き出す。
「そんなお気持ちで生み出される作品に良いものが生まれるはずもないです。そんなお気持ちで
仮に体裁だけを繕って世に送り出される作品も可哀想です」
「・・・・・・・・・」
ほんの僅か。
俺の掌に触れていた先生の身体が身動ぎするのを感じた。
「これまでずっと、先生が発表して来られたどの作品も、もちろん、極最近のものも含めて
俺はどの作品も凄く好きで、とても好きで、全然、そんな風に先生が苦しんで苦しんで、
それでも仕方なくお書きになられた作品だったなんて、まるで、ほんの欠片ほども感じ
取れませんでしたけど。俺にとっては、いつも変わらず、先生の作品は魅力的で、先生の
描き出される世界は素晴らしくて、その物語の中で仮想世界を体感するような、そんな
感覚が大好きでしたけど・・・・でも、ダメです、そんなお気持ちのまま、作品に向われ
たんじゃ・・・・・凄い、物凄く、どうしようもないぐらい寂しいですけど、先生のその
お気持ちが変わられない限り・・・・・俺、原稿を頂く訳には行かないです」
「・・・・・って。原稿落とせば、お前の責任だって問われる事になんだぞ」
相変わらず、腿の上に両肘をついて、深く身体を前に倒した状態の先生が、顔だけをほんの
少しこちらに向けた。
「別に俺が負わされる責任なんてタカが知れてますもん。始末書書かされて、減給されて、
先生の担当から外されるぐらいの事で・・・・」
「俺の担当から外れんのは嬉しいだろ?」
「多分、正直、ほっとするんじゃないですか?元々、俺には荷が勝ち過ぎてましたから、
先生の担当なんて難しい仕事・・・・・・会社的にも俺はまだ新人なんで、その程度の
ポカはそんなに重要視されない様子らしいですし」
「・・・・・・・・・・・」
「ですから・・・先生はもう、ゆっくりなさったらいいと思います。ただ・・・・・・」
「ただ・・・?」
「今回、原稿を落とす事で、今、連載中のお話が打ち切りになるんだとしたら、こんな
中途半端な所でピリオドを打たれてしまうその物語が可哀想だ、とは思います。人間で
言えば志半ばで倒れるって事になるんでしょうし、それってやっぱり、寂しいですよね」
「・・・・・・物語りが可哀想、か・・・」
ゆっくりと、いっそ、危うげな心許ない口調で、先生が言葉を洩らした。
「お前って面白い感覚してんのな」
「そうですか?普通だと思いますけど。小説が好きで作品を愛おしく思う気持ちって普通の
感覚じゃないですか?」
「お前って、ほんとマジで俺の書くモン、好きなんだ?」
「はい。何度も言ってるじゃないですか、好きですよ、大好きです。悔しいですけど、泣ける
ほど好きですね・・・・」
「変なヤツ」
「そんな事ないですよ。先生の作品のファンは俺以外にも、たくさん、たくさん、たーくさん
居ますもん。だって、先生、そりゃー、デビュー作だとかに比べれば、今は少しは部数が
減ってるのかも知れないですけど、それでも、何十万部って販売部数があるって事は何万人
もの人が、先生の作品が好きで買い求めてるって事ですもん。何十万人って凄くないですか?
こんなにたくさんの、数え切れないほどの人数の作家先生がおいでになられて、更に、その
著書がまた、どれぐらいあるか分からないような中で、先生の作品と巡り会って、先生の
作品に心打たれて、先生の世界に胸躍らせて、先生の描き出される世界に翻弄される人間が
何万人もいるって・・・・凄いでしょう?」
「俺には分かんねぇよ・・・・俺なんかの書くモンの、何がそんなにお前を魅了すんのか
・・・全然、分かんねぇ」
「感性・・・じゃないですかね?作品を好きになる要素って言うのはそれこそ、ごまんと
ありますけど・・・・やっぱり、こう・・・自然と惹かれるもの?巡り合せって言うか、
運命って言うか・・・・・」
「運命?」
その言葉を唇に乗せて、先生の目がちょっとだけ意地悪く笑みを灯す。
「こんな奇跡にも近しい巡り合せなんて、もう、運命としか言えないと思いますけどね。
赤い糸か何かで結ばれてんですよ」
「バーカ。赤い糸ってのは、恋人とかそういう時に使うんだよ」
「知ってますけどね、それぐらいは。でも、それに近しいものがあるな、って。色々と
そりゃ、言葉を尽くして説明出来ない事もないですけど、やっぱり、出会った瞬間から
恋に落ちてた、みたいな?」
「訳分かんねぇ・・・・・・」
「そうですか?まぁ、いいんですけれどもね。とにかく・・・・先生がお書きになられたく
ないお気持ちは・・・少しぐらいは理解出来たつもりなんで。俺、今日はもう、これで
失礼させて頂きます。先生もどうぞ、ごゆっくりなさって下さい」
「・・・・・マジで?」
「え?」
「マジで引き上げんの?俺の原稿・・・もう、いらねぇんだ?」
「いらない、なんて申し上げてませんよ。先生がそんなお気持ちで生み出される作品は
頂けない、と申し上げてるだけです。俺の目から見れば、俺が未熟だから、そこまで深く
読み解く事が出来ないだけなんでしょうけど、先生の書かれる作品は以前と少しも、何も
変わりなく今も素晴らしい、って感じてて・・・・先生が仰られてるようなね・・・・
うん、葛藤って、実は良くは分からないですけど。でも、先生ご自身がそうお感じに
なられるのであれば、それはそうなんでしょう?先生のお感じになられるものなんですから、
他の誰が大丈夫と申し上げた所でね、何の意味もないって言うか・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「ご自分で愛着をお持ち頂けないような、そんな可哀想な作品は・・・生み出されるべき
ではないですよ、ね、先生?」
「・・・・・・・・」
「それじゃ、おやすみなさい」
ゆっくりとソファから腰をあげて。
ジャケットを軽く羽織り、先生に向って深く丁寧に頭を下げた。
今回の先生の原稿を落としてしまえば、恐らく、先生の担当を外される事は確実で。
俺はやっと、この厄介な先生から解放される訳で。
それでも、自分の大好きな作品を生み出されるその人なんだ、って言う思いは、酷く自分の
心を魅了していたようで。
あんなにも嫌で堪らなかったはずなのに、外される、と思うと胸が痛む。
・・・・・・・せめて、1回ぐらいは・・・・活字になる前の先生のちゃんとした作品の
最初の読者になりたかったな、って。
今更、そんな思いは胸に迫って。
マンションのエントランスを出て、投げ掛けられる月明かりは、中秋の名月と賞されるほどに、
余りに美し過ぎて、その美しさが哀しかった。
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