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【13】
・・・・・何か・・・何か、先生のお気に障るような事、言っちゃったのかなー・・・・
無言のまま、いきなり浴室から姿を消してしまった先生の行動に、俺は首を捻る事しか
出来ずに。
何だか、その後、まだ自分1人、のんびり湯船に浸かっている気にもなれず、俺もその
すぐ後を追うようにして浴室を出たけれど、案の定、先生の姿はリビングやキッチンと
言った俺の目の届きそうな範囲にはなくて。
コンコン・・・・・
まぁ、やっぱり、だとしたらそこしかないだろうと思える、いつもの重厚なドアを恐る恐る
ノックする。
中から返事はない。
コンコンっ!
・・・コンコンっ!!
・・・・・コンコンっ!!!
どんどん叩く音を強くしても、中からはうんともすんとも返事がなくて。
「先生?木村先生?!」
ドア越しに呼び掛けてみると。
「・・・・・んだよ、うっせぇな。何か用か?」
声だけの返事が返って来た。
何か用かと尋ねられ、ちょっと答えに詰まる。
「え?と・・・あ・・別に用ってほどの事でもないですけど・・・・・・急にお出になられたんで
何かお気に障るような事を申し上げてしまったかなと思って・・・・・・」
「別に。出たくなったから出た。それだけだから」
先生から返って来た答えは、案の定と言えば案の定な答えで。
先生が仮にさっきの俺との会話の中で何か思う所があったんだとしても・・・・それを俺に
仰るはずもないか、って。
確かにそれは自分の中でも納得の行く、当たり前の事で。
一介の編集者如きに先生がお考えになられる事だって、想像もつかなくても、それも当たり前
だろうし。
その事が意外な事に、極僅か、自分の心を曇らせたんだとしても。
「ですよね、すいません。あ・・・コーヒーか何かお淹れしますか?」
「風呂上がって水飲んだから、今はいい」
「はい」
リビングに戻って首に掛けたままだったタオルを手に取り、まだ、ちゃんと拭けていなかった
髪の水分を押さえながら。
風呂上りにこんな風にして、それまで着ていた服をそのまま着る、なんて普段だったら
あり得ない事も不快さを手伝って。
はふ・・・・と。
つきたくもない溜息が小さく洩れる。
1人きりのリビングは寛ぐには十分すぎる広さで、廊下の向こう、ドア一枚で隔てられた
書斎には先生がいらっしゃる事は分かっていても、その存在感は今は酷く遠く感じられて。
時間のせいも、また、恐らくは防音効果を施されてもいるらしい室内は無音で。
こんな時間帯にもなれば、誰もいない事は想像のつく仕事場のけたたましいほどの喧騒を、
それでも仄かに思い浮かべて、何となく手を伸ばした携帯が不意に着メロを響かせる。
ビックリして飛び上がりそうになりながら、着信者名を確認して、俺はすかさず回線を繋ぐ。
「中居さん?」
丁度、その喧騒を思い浮かべたタイミングのせいなのか、酷くその人の存在が懐かしく
思えて、悔しいけど声に僅かな嬉しさが滲む。
「・・・・・は?」
俺の語調を敏感に感じ取ったらしい中居さんの声は、電話の向こうで思いっきり訝しげな
それになって、低く一言だけ唸りを上げた後。
「どうよ、センセの調子は?」
何気ない風で、まるで天気を聞くような気楽さで続けられたセリフに、今度はこっちが
訝ってしまう。
中居さんのそんなお気楽な語調に向こうにある何かを感じて。
「相変わらず、ですけど・・・・」
「そっか・・・・・」
端的に呟いて、中居さんの声が暫く途切れた。
掌の中に握り込んだ小さな機器の向こうに繋がる電波の糸を感じながら、俺は中居さんの
言葉の続きを、自分でもちょっと意外なぐらい辛抱強く待った。
「今日はもうこんな時間だしな、明日にすべかとも思ったんだけどな」
不意に改まった語調に、無意識のうちに眉間の間隔が狭くなるのを感じる。
「先生の連載なー、もし、今回、落す事があったら・・・・・打ち切りの可能性もあるって
話が出てる・・・・」
「・・・・・え?」
「ここ2、3作、確かに販売部数も目に見えて落ち込んでて・・・・まぁ、言葉は悪ぃけどよ、
そろそろ読者にも飽きられつつあるっつーの?まぁ、センセーとしてもよ、そこそこ一財産は
築けてるだろうし、ここらが潮時?っつか・・・センセー自身、もうそろそろ、自分でも
その辺も気付いてんだろうし・・・・」
まだ、何か続きかけている中居さんの言葉を思わず遮っていた。
「ちょっ?!待って下さいよっ!打ち切りって何ですか、それっ!まだ、全然、物語の
途中で、そんなの、幾ら何でも不自然過ぎるじゃないですかっ!」
「別にそうでもねぇべ。良くある事だしな。ま、適当なとこでオチつけて、そりゃあ、多少、
強引に感じられんのは致し方ねぇとして。もし、センセーがそんな終わらせ方は気に食わねぇ
とか、駄々こねるんだとしたら、こっちで適当に書かせてもらってでも、終わらせるって
パターンは何もゼロって訳でもねぇし」
「何、それっ!そんなのおかしいでしょっ!だって、そんなのっ!!」
「ま、入ってまだ何ヶ月かのおめぇが知んねぇ裏事情ってだけで、ふっつーに当たり前に
どこでもやってる事だしな」
「信じらんないっ!」
「まあ、まだ、正式決定って訳じゃねぇよ。今回、オトしたら、危ねぇっつー話」
余りにも不条理な現実に、呆然とし掛ける脳をどやしつけながら。
今は呆然としてる場合じゃない、って。
「さっき・・・今、中居さん、仰いましたよね、先生ご自身がその事にお気づきになって
らっしゃるって」
「あぁん?」
「潮時・・って言うか・・・販売部数が落ち込んで、だとか」
「あぁ、そりゃー、おめぇ。手元に届くファンレターの数だとか?入って来る印税だとか?
ま、編集部企画の人気投票であったり、だとか?販売部数そのものだって、幾ら無頓着な
先生だとしても、まるで気にしねぇって人はいねぇんじゃねぇ?」
「・・・・・・・・・・・」
「元々、運悪くすっげー華々しくデビューなさっちゃってなー、書くもん書くもん大絶賛
されちまって・・・・挫折をご存知ねぇ人だかんなー、ま、今が一番、厄介な時っつーか」
「・・・・・・・・・・・」
「ここを乗り切れるかどうか、が、先生の今後を決定づける1個の分岐点っつーの?」
「・・・・・そんな大事な時だって分かってて、何で俺、なんですか?」
問う声が少し震えた。
混沌と渦巻く色んな思いのせいで。
まだ、ほんの少ししか関わり合いを持たせてもらってない先生の、それでも、俺の知り得る
限りの色んな先生の様子が次々と浮かんで。
『・・・・なぁ、それ、そんなに面白ぇ?』
『・・・・・だよなー。あるよな、そういう頃。俺にもあったし」
「過去形なんですか?」
「・・・・・・・・・」
「今は楽しくないんですか?」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・先生?」
「・・・・・・帰れ」 』
『・・・・・なぁ・・・・お前ってさー・・・俺のどこが好き? 』
先生は・・・・・・俺にどんな答えを求められたかったんだろう・・・・・
「ま、先生からのご要望っつーのが最大の理由っちゃー理由ではあっけども・・・・会社的に
渡りに船ではあった、っつーか」
回想を巡らせている俺の思考に割り込んで来るように中居さんの声が届いて。
「仮に新人のおめぇなら、原稿、貰い損ねたんだとしても、仕方ねぇで済ませられるっつーの?」
「・・・・・何、それ」
独り言めいて洩れた声は、沸々と静かに荒ぶる感情に、敬語を忘れていた。
「おめぇの力不足って事でぇ、会社そのものの体面にはそんなに傷つかねぇし、何、まさか
マジでおめぇ1人に責任押し付けてどうこうだとか、幾ら何でも、んな事ぁねぇから心配
すんな」
「俺の事じゃなくて。・・・・・今まで散々、先生の作品で儲けさせてもらって来たんじゃ
ないの、会社は?」
「まぁなぁ・・・利潤の追求が会社の最大唯一の目的だかんなー」
「で?使えなくなったら切り捨てるの?壊れた機械みたいに?作家の先生は機械なんかじゃ
ないんだよ。感情も心もあるれっきとした人間なのに」
「まぁまぁ、そう感情的になんなって。何も金輪際、一切、先生の作品をうちで扱わない
って言ってる訳じゃねぇよ。先生がまた、良いものをお書きになられりゃー、いつでも
・・・・・・・」
「そう言う問題じゃなくてっ!」
中居さんの言葉を遮って、語調が荒れた。
「人気稼業っつーのはな、そーゆーもんなんだよ。ま、先生もここまでずっと突っ走って
来られた訳だしな、ここいらでちょっと一息?そういう考え方もありなんじゃねぇ?」
そんな俺をいなすように。
幾分かご機嫌を取ろうとするかのようにも聞こえなくもない声音で、中居さんはそんな
セリフを綴って。
中居さんの言っている事も確かに抗い難い現実なんだろう、と言う程度の理解は出来た。
綺麗事ばかりで成り立っているはずなんかあり得ない。
それも分かる。
それでも、やっぱり、どうにも押さえようがないほどの憤りを感じる。
編集者である事以上に、ファンとして、そんな事はどうしたって承服しかねる現実で。
そして、それは同時に、力不足、経験不足な自分に対する憤りでもあって。
俺にもっと、力があったんだとしたら・・・・・
そんな事は言わせずに済んだかも知れなくて。
それでも・・・・・・
そんな事は絶対にさせたくない。
これまで生きて来た中で、こんな風に湧き上がるように強い思いに駆られた事は、多分、
初めてだった。
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