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【12】
カチャッ・・・・っと。
僅かな音が耳に届いたのは、鼻腔からじんわりと全身に満ちるバスソルトの香りを、目を
閉じてぼんやりと堪能している時で。
ふんわりと。
少しいい感じに疲れが溶け出して、ゆるゆるとした緩い睡魔に似た感覚に襲われかけてた
時の事で。
だから。
その音が何を示すのか、咄嗟に反応が遅れてしまった。
いや、仮に反応が追いついたんだとしても、この場合、その対応に選択肢はなかっただろう
とも思えたんだとしても。
「おぅ」
案の定、浴室のドアを開けて顔を覗かせたのは、そりゃ、その人しか居ないはずの、その
人のお宅の浴室なんだから、それが疑う余地もない現実なんだとしても。
「せ、せ、せんせいっ?!」
反射的におもむろに立ち上がり掛けて、逆に咄嗟に顔の半分ぐらいまで湯船の中に隠れる
ようにして、それでも、声だけは逞しく喉から迸っていた。
「んだよ?」
さっき、浴室から俺を呼んだ時と同じスタイルのまま、先生は仁王立ちになって、面白そうに
意地悪そうに俺を見下ろしている。
「えっ、あのっ!あの・・っ!書斎にお戻りに・・・寝室にあの・・っ!だ、だって、今日は
ゆっくりお休みになられる、って、さっき・・・!」
声が引っくり返って震えるのを、自分ではどうしようもなかった。
「何も、んな驚く事でもねぇだろうよ?何?自分ちの風呂に入って、何が悪ぃの?」
「お、お入りになられるんですか?」
「おぅよ。せーーーーっかく、お前がわざわざ、自分ちまで取りに戻ってくれて?俺の
ためにセッティングしてくれた訳だろ?その好意?無駄にしちまったら悪ぃかなー、とか」
「え?・・・あ、あぁ、じゃあ、すぐ!すぐ、お湯、流して掃除し直しますからっ!もう
ちょっとの間、お待ちになってて下さい」
「あー?別にわざわざ、んな、しち面倒臭ぇ事、しなくていいし。っつーか、俺、待つの
嫌ぇだし」
・・・・・・・人の事は・・・・原稿、全然、書いてくれなくて、散々、待たせるくせに?!
とは、思いはしても、それも言っても仕方のない事で。
「でも!でも!他人の入ったお湯に入るのって、抵抗あるでしょっ?!」
「んな事言ってたら、温泉とか行けねぇじゃん」
「いや、温泉はちゃんとお湯が常時、循環してますからっ!」
「うちの風呂にもちゃーーーんと、そういう機能もついてっぞ。スイッチ1個入れりゃー、
ちゃーんとお湯、循環するようになってんだ」
幾分、自慢げに胸を反らして見せた先生に
「そ、そう・・ですか・・」
他に返す言葉も見つけられなくて。
「じゃ、じゃあ・・・すぐ、俺、出ますから、ほんのちょっとだけでいいですから、あの、
えっと・・・しょ、書斎、とか・・・出て待っててて頂けません?」
無駄な抵抗と知りつつ、それでも、俺はひたすら下でに出て、懇願してみる。
「出るのは別に構わねぇけど?けど、何?お前、人様の浴室から、その主、追い出そうってか?」
「い、いや、そうじゃなくて・・・・ほんのちょっと・・・・」
「だから、一緒に入んのがヤなら、お前が出れば?俺、止めねぇし」
完全に自分ちのお風呂に入る時とおんなじ感覚で。
当然、湯船の中にタオルなんて持って入ってないし。
先生はそれ、分かってて、そんな事、言って来んだから。
これって、セクハラって言わないの?!
って、どんなに喚いたとこで、同性同士だもんなー・・・きっと、誰も相手になんかして
くんないよねー・・・・・
「ほら。出んだったら、さっさと出ろ」
とか、先生、いつもの意地悪〜〜〜い笑顔で迫って来るし。
何も言えずに、ただ、上目遣いに先生を睨みつけてるだけの俺を、少しの間、上から見下ろしてた
先生は、やがて、それにも飽きたのか、俺に背中を向けて、シャワーのコックを捻って。
頭上にセットしたシャワーから迸るお湯が、褐色の肌の上で弾けて転がり落ちて行く様を
見るとはなしに眺めて。
他にする事もなかったから。
そうして、軽く全身を流した先生が振り返って。
「後ろ」
いきなり、一言だけ声を投げて来た。
「は?後ろ?」
「そっち、詰めて向こう向けよ」
先生は軽く手首から先を振って、浴槽の端を示して。
「は?」
「詰めろって」
先生に指示されるまま、仕方なくのろのろとその方向に身体をいざりながらも。
確かに。
1人で入るのなら、ゆったりと身体を伸ばして入れるサイズのバスタブだったとしても。
大の男2人で入るには狭苦しいのに。
つらつらと、そんな事を脳裏に浮かべる。
予想した通り、俺が詰めた事で出来たスペースに先生も身体を沈めて来て、溢れたお湯が
淵から零れ落ちて行く。
丁度、子供の頃した電車ごっこのような感じで。
俺の背中の後ろで先生が、バスタブに身体を預けて俺の両脇に脚を伸ばして来て。
「あぁ、確かに・・・・いい匂いすんな、これ」
背中からやんわりとした、そんな言葉が届けられた。
それと同時に、身体の奥深くから色んなものを吐き出すように。
深く長い溜息をついて。
「やっぱ、いいよな・・・こんな風にゆったりと湯船に浸かって身体、伸ばすのって」
言いながら大きく伸びをしている気配が伝わって来る。
「お、俺が居たら、ごゆっくりなされない、ですよね?俺、あの、やっぱり、出ます・・・」
浴槽から立ち上がって、出るのはほんの一瞬の事なんだから。
男同士なんだし、ちょっとぐらい見られたって、別に死ぬ訳じゃないんだし・・・・
それよりも、先生にちゃんと、ゆっくりしてもらいたいって・・・・
無性にそんな思いに駆られるほどに、先生の洩らした溜息は深かった。
腰を浮かせかけた俺の背中に先生がおぶさるように覆い掛かって来て。
「ちょ?!先生?!」
裸の肌が触れて、途方もなく驚く。
これまで、こんな風に、異性じゃなくて、裸の肌を触れ合わせた経験なんか、ほとんど
皆無に等しいし。
普通、水泳パンツ一丁ではしゃぎまわる夏だとか、俺はそういうのがとにかく好きじゃ
なかったから、ある程度の学年になってからは水泳の授業はほぼ、見学に等しかったし、
当然、友人達とそういう場所に遊びに行った覚えもないし。
本当のまだ子供の頃・・・・もしかしたら、そんな経験もあったのかも知れないけど、でも、
それは俺の記憶には留められてはいなかった。
「せ、先生っ!ちょっ!あのっ!は、離れて頂けません?!離して下さい!」
抱き締められるようにして回させた腕の中でもがく。
「別になんもしねぇ、って。何、そんなに焦ってんだよ、お前は」
「いや、焦りますよ、普通、焦るでしょ?!風呂の中で背後から同性にこんな風にして
・・・・・だ、抱き締められたりだとかしたら、驚きますよね、普通ね?!」
「あー・・・・そうか?」
「そうですっ!」
「つか、別にどうって事ねぇスキンシップじゃねぇ?」
「いや、スキンシップって?!スキンシップって範囲を十二分に超えてますよっ!」
「なぁ・・・・お前ってさー・・・俺のどこが好き?」
そのまま、極、近い距離から耳元に渋い低音を響かされて、一瞬、ドキッとはしたけど。
・・・・・オレノ ドコガ スキ・・・?!
耳の中に流れ込んで、鼓膜が捉えた音声を脳に神経が伝達する一瞬の作業の後、脳はその
意味不明な音声信号をひも解く事に、焼き切れそうな勢いでフル回転するのを、いやに
リアルに感じながら。
かー・・・っと耳が熱くなって、けど、ぞぉぉぉぉっと背筋が凍るような、言葉には表わし
難い違和感に、自分でもどう対処していいのか、分からないでいる。
「はぁっ?!」
それだけの作業をほんの一瞬のうちにこなしながら、自分の喉から迸った何とも言えない
声音は、嫌になるほど忠実に、俺の心情を物語ってくれた、と確信が及ぶ。
人間の機能って言うのは・・・・・
こんなにも優秀なんだなー、って。
妙な事にしみじみ感動してみたのは、多分、この意味不明な現状からの現実逃避に他ならない
気がしてしようがなかった。
「ほら、お前、言ったじゃん、凄く好きですって」
「い、言いませんよ、そんな事っ!!俺、一っ言だって、これっぽっちも、欠片ほども、
そんな事、口走った事なんかないですっ!!!!」
「言っただろーが。俺の書く話が好きだって」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
やっと、先生が口にした言葉の意味を理解して。
絶句するって言うのは、こういう事を言うんだな、って。
妙に深く納得させられた気分で。
同時に、一気に脱力・・・・・
「・・・・・言いましたね、ええ、言いました・・・先生の書かれる作品が好きだって、ね」
・・・・・・溜息
紛らわしい言い方しないでよ。
「どこが好き?」
「何ですか、藪から棒に」
どっと疲れが沸いて。
尋ねる声に苦笑が混じる。
「なぁ、どこが好き?」
それでも、先生はしぶとく同じ問いを重ねて来る。
少し考えて。
「・・・・・・全部、ですかね?」
「んだよ、それ・・・・・」
今度は先生の方が呆れた溜息を洩らした。
「好きですよ、何から何まで。自分でも呆れるぐらい好きですねー・・・・・」
「もっと具体的に言えよ」
「主人公の物事を見詰める眼差しが好きですよ。生き様が好きです。真っ直ぐで強かで
雄々しくて凛々しくてカッコ良くて。誰だって憧れるんじゃないですかね。そうして、そんな
主人公の目線から表わされる情緒に満ちた描写が好きです。映像のように浮かび上がって来る
ようなリアルで緻密に計算されつくした表現が好きです。いつも、いつも、先生の描き出される
世界にいざなわれて、その世界で主人公と一緒になって色んな事を感じ取るのが大好きでした。
好きなシーンはそれこそ、何度も何度も読み返したりして、覚えるほど読んでも、それでも、
読み返す度に、最初に心を動かされたそれと同じ感動を何度も味わいました。俺・・・・
本当に好きですよ、先生の書かれるもの」
ひとつ一つ挙げて行くうちに、どんどんと感情が昂ぶって行くような、そんな錯覚を感じ
ながら。
一種、陶酔にも似た、そんな感覚に突き動かされるように、俺の唇は自分でも想像した以上に
たくさんの言葉を吐き出していた。
相槌もなく、聞いているのかいないのかすら分かりかねる空気で。
膝を抱くようにして座り込んだ俺の背中を包み込んでいる腕の、背中に触れている肌の、
僅かに震えたのを感じた瞬間。
ザバッ!と。
想像以上に派手な水音と、それを証明するような、大きなお湯の揺れが俺の身体を揺らして。
バタン!と。
一瞬後にはドアの締まる音と同時に、先生の姿はなくなってしまっていた。
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