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【11】
まだ、電車の走ってる時間で良かった、って。
そんな事に心底、安堵しながら。
俺は自宅までの道のりを逸る気持ちを抑えきれずに、普段からは考えられないようなスピードで
急いでいた。
自宅に辿り着き、速攻でバスルームに駆け込んで。
手早くシャワーを浴びた後、着替えだとかドライヤーだとか、お泊りセットを整えて。
わざわざうちまで取りに戻って来た、一番肝心なものもバッグの中に一緒に放り込み、
とんぼ返りするような勢いで、もう一度、先生のマンションに取って返した。
チャイムを一回だけ押して
「稲垣です」
って名乗って。
簡単に開いたドアにちょっと驚く。
案外、無用心だなー、って。
そのままリビングに入って行くと、さっき見送ったままの状態の先生がそこに居て。
軽く眉間に皺を刻んで、ぐったりと疲れを滲ませた表情を隠そうとさえせずに。
それは俺が居ない事から表わせる、今のほんとの先生の顔なのかも知れない、と思うと
少しだけ胸が痛む。
別に俺だってせっつきたくて原稿、原稿って言ってる訳でもないんだけどなー。
でも、その事が負担になって先生の事、余計に追い詰めてるんだとしたら、何かもっと
別の方法はないのかな、と思いはしても。
これ!と言った名案がそんなにすぐに浮かぶはずもなく。
ソファーの上で少し身動ぎした先生に
「先生?」
と小さく声を掛けてみる。
「・・・・・ぁん・・・・?」
薄く片目を開けた先生が俺を見止めて、露骨にその表情が歪んだのがはっきり見て取れた。
「・・・・んだよ、結局、戻って来たのか?中居にド叱られた、とか?」
ゆらり、と身体を揺らして立ち上がった先生は、おもむろに、まるで俺から逃げるように
書斎に姿を消して。
何だかそんな先生の後ろ姿が痛々しく感じられたりもしたけれど。
俺は先生の後ろ姿を見送った後で、微かに浮き立つ気持ちを抱いて、バスルームに向かった。
「先生?今、少しいいですか?」
軽くドアをノックして中の様子を窺い。
「・・・・・んー?」
「少し気分転換、とかいかがですか?」
「・・・・・あー?」
ドア越しにそんなやり取りをした後、ドアが開いて、訝しげな顔で先生が俺をちょっと
睨むように見る。
「んだよ、気分転換とか。二言目には原稿書け、原稿書けって言ってたくせしやがって」
挑発的にも見えなくもない先生の笑みだったけど。
「お風呂にお湯、張りましたから、ゆっくり湯船に浸かられたらどうかな、って」
「一緒に入りましょう、ってか?」
不意にゆっくりと細められた眼差しの奥に意地悪い光を湛えて。
口元をシニカルに綻ばせる先生のそんな表情は、とても見慣れたそれだったけど。
「それは遠慮しときますけど」
「んだよ、だったら何でわざわざ風呂な訳?」
「まぁまぁ。入って見て下さい」
「・・・・気味悪ぃ・・・・・」
先生は低く一人ごちて肩を竦めたけれど。
それでも一応はバスルームに向かってくれて。
寸後。
「新人っ?!な、何だよ、この風呂はっ?!」
酷く狼狽した先生の絶叫にも似た声がいきなりリビングに飛んで来て。
俺は少しだけ首を傾げた。
そんなに大声張り上げるようなお風呂でもないはずだけどな・・・・・
「先生、どうかなさいました?」
「どうかなさいました?じゃねぇっ!!何なんだ、この風呂はっ?!」
先生は豪快に素っ裸のまま・・・・・いや、そりゃ、ちゃんと一応、タオルぐらいは巻いて
くれてるけど・・・・・そんな格好の事は全く気にもなってないらしく、力一杯浴室を
指差したその指が僅かに震えて。
「いい匂いでしょう?バスソルトって言ってざくろの香りの入浴剤をお湯の中に溶かし
込んであるんですよ?」
「匂いはいいっ!匂いなんかどうでもいいんだよっ!!じゃなくて?!そのロウソク
みてぇなのは何なんだっ?!」
「え?アロマキャンドルですか?これねぇ、こうして浴室の明かりは消して、脱衣所の
明かりだけにするとね・・・・」
言いながら俺は壁に手を伸ばし、浴室の明かりをOFFにして。
幻想的なキャンドルの灯りに彩られた浴室を先生に示して。
「炎ってね、想像してるよりもずっと、気持ちが安らぐんですよ?」
「リラクゼーションってヤツ?」
「はい」
「ふぅん・・・・・俺はロウソクって言やぁ、もっと全然、別のモン、想像すっけどな。
女王様ぁ!とか?」
はっきり分かりやすくイヤラシイ笑みを浮かべてくれたお陰で、先生がロウソクから何を
連想するのかは、敢えて訊かなくても分かってしまい。
「先生ってほんと、その手の下ネタ、お好きですよねー」
それが正常な成人男性の反応で、そういうネタで盛り上がる事が好きな人達の方が一般的には
普通な事も分かってはいても。
中居さんも好きだもんなー。
そういうとこ、先生ときっと話、合ったんじゃないのかなー、なんて思うけど。
「お前はほんっとノリ悪いよなー」
呆れたように笑う先生はそれでも少しは楽しそうで。
「にしても、何?こんなもん、こんな時間に良く売ってたな。わざわざこれ、買いに行ってた
のか、お前?」
「いいえ。家に取りに戻って来ました。これ、俺がいつも愛用してるやつですから」
「は?」
一言、声を上げた先生がはっきり信じられないモノでも見た時のような顔つきをして見せて。
「俺、風呂入る時、使ってるんです、この入浴剤と、後、自分でも凄く疲れたな、とか
癒されたいって思う時にアロマキャンドル」
「はぁぁぁっ?!」
先生は今度こそはっきり呆れた声を上げて。
不思議な生き物でも見るような顔でまじまじと俺を見詰めて来て。
「お勧めなんですよ?このバスソルト。凄く汗が出て身体の中の老廃物だとか不要なもの、
排出してくれて疲れとかも凄く取れるし。アロマキャンドルは香りと炎で凄く癒されるんで」
「・・・・マジで?お前、マジでこんな風呂、毎日入ってんの?」
「時間のない時はシャワーだけで済ます事もありますけど、なるべく湯船に浸かるように
したい、って思ってるんで。日本人はやっぱりお風呂に浸からなきゃ」
ひゃひゃひゃひゃ・・・っ!
って、初めて一人でこのマンションに来た時に耳にした、例の独特の笑い声がいきなり、
鼓膜に突き刺さる。
「・・・や、やべ・・・・腹、痛ぇ・・・」
腹を抱えて笑うって揶揄があるけど。
本当にそんな風にして笑う人を初めて見た気がした。
先生は文字通り腹を抱えて、身体を半分に折り曲げるようにして暫くの間、笑い続けて
くれて。
「・・・も、ダメ・・・・笑い過ぎて死ぬ・・・・」
仕舞いには涙まで流して笑い転げて。
何?!
一体、何がそんなに可笑しい訳?!
俺、そんな、腹抱えて笑われるような事、何にもしてないって!!
「あり得ねーーーっ!!あり得ねぇだろうっ?!OLでもやんねぇだろっ?!アロマキャンドル
風呂に浮かべる、だとかよっ?!お前、凄過ぎっ!!」
更に指差して笑われて。
何か・・・・物凄く面白くない・・・・
先生がお疲れだろうと思って・・・・・
少しでも先生の創作意欲が復活してくれればいい、って。
俺は俺なりに一生懸命考えたつもりだったのにさ。
そんなに笑わなくてもいいじゃん・・・・・
「お前、マジ、すげーわ。そこらのOLよりよっぽどOLしてんのな」
そうして、ひたすら感心したように、そんなセリフを続けてくれたりもするんだけど。
「いやー・・・サンキューな。こう・・・・なんつーの?いいよなー、たまにはこういう
どうしようもなくバカバカしい事?なかなか起きねぇじゃん?日常生活ん中で腹抱えて
笑うような事?特に大人になったりだとかすっと。はぁ・・・・疲れた。マジ、腹、筋肉痛
とかになりそうだわ」
まだ、くくくく、と笑い続ける先生を軽く睨んで。
「・・・・・何か久し振りに眠れそうな気ぃする」
笑い声の下で先生がぼそり、と洩らした一言が、え?と聴覚に引っ掛かる。
「眠れないんですか?」
思わず深刻そうに尋ねてしまった俺に
「寝てる時間なんかありませんよ、っつわねぇの?実際、そろそろ、寝てる場合ではなくなって
来てるわな」
先生は相変わらずシニカルに唇を歪める。
「けどまぁ、丁度いいから、今日はこのまま、きっちり寝て。原稿は明日からだな」
「えっ?!ちょっ?!先生っ?!今日は、って?!」
そのセリフはまたもや、聴覚に引っ掛かる。
ちょっと待てよ?!
久し振りに眠れそう、って・・・・確か、昨夜って言うか・・・・今朝も酔っ払って力一杯
寝てたんじゃありませんでしたっけ、先生っ?!
「ちょっと、待って下さいよっ!!ほんとに寝てるお時間なんかないんじゃないですか?!
先生っ!!先生ってばっ!!」
先生は惚れ惚れするほどの素早さでさっさと脱衣所から姿を消してしまい。
結局、俺のお勧めのお風呂にも入ってくれなかったし。
笑われただけで・・・・・
何か、もう、力一杯脱力・・・・・
えぇいっ!!
こうなりゃ自棄だっ!!
さっきは簡単にシャワーしか浴びて来なかったし、お泊りセットとか着替えも準備万端
整えて来たんだし、ここで思いっきりゆっくりバスタイムしてやるっ!!
折角、溶かした入浴剤も、浮かべたアロマキャンドルもちゃんと有効利用しなきゃ勿体無い
じゃん!
そう自分に言い聞かせて、思い切り良く身につけていたものを全部、脱ぎ捨てて。
ここが先生のお宅のバスルームだ、とか。
チラリ、とそんな事は脳裏を掠めもしたけれど。
どうせ、先生は入らないみたいだし。
そう思いながら、やっぱり、少しは気兼ね、みたいなものも感じつつ、浴槽に身体を横たえる
ようにして、湯船に浸かって。
ふ、と天井を見上げたら、天窓みたいになってる天井に星空が見えて。
・・・・・知らなかったなー。先生んちのお風呂って、空が見えるようになってるんだ。
今更、そんな事を改めて認識したりして。
こうして、浴室を暗くして、天井の星空、眺めてると、そのまま空に浮かんでいるような
錯覚まで出来て、何となくうっとりしてしまう。
身体の中がじんわりと温かく満たされて。
大好きな香りに包まれてリラックスするこんな時間、俺自身もちょっとだけ久し振りな
気もして。
本当は先生のために用意したつもりだったけど、これはこれで案外、良かったのかも
知れないな、なんて、試しに前向きに考えてみる事にした。
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