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【10】
「先生、どちらへ?」
リビングのドアを開けた先生に、俺は読み掛けていた小説を閉じて尋ねる。
物凄く有難い事に先生のお宅の間取りは先生の書斎からはリビングを通らない事には
トイレにも玄関にもどこにも行けない設計になっていて、もちろん、リビングに着くまでには
他の部屋―――先生の寝室だとかゲストルームだとか、他の部屋もある訳だけど、さすがに
マンションの最上階ともなれば、それらの部屋の窓からの脱出なんて言うアクション映画
並みの暴挙は、幾ら先生でもなさらないだろう、って信じる事にして。
俺は先生が原稿を書いて下さるまで、ひたすら、先生を書斎に缶詰にしておく事が専らの
仕事で。
朝イチから来させて頂いちゃったお陰で、その一日の長い事。
朝のうちはまるで、家政婦さん並みに洗濯したり掃除したり、ゴミ出ししたり、なんて家事に
精を出してみたりもしたけれど、それも午前中もあれば楽勝に終わってしまい、後は本当に
手持ち無沙汰で。
先生が気分転換にシャワーを浴びるって仰ったから、その隙に先生の書斎にお邪魔させて
もらって本棚から適当に数冊、拝借させてもらい、午後からはその読書に当てて、どうにか
時間を潰していた。
そうして、先生が無駄にうろうろされる度に、嫌味っぽく
「どちらへ?」
なんて質問をその都度、ぶつけていたりする訳だけど。
「ト・イ・レ!」
そんな俺の問いに、わざとらしく声を張った後、先生はふと俺の手元に視線をやって
「・・・・んなもん、読んでんの?」
つい、とまた、俺に視線を合わせ、シニカルに口端に薄く笑みらしいものを浮かべた。
先生が「んなもん」と仰ったのは先生のデビュー作で。
この際だから、発表された順に先生の作品を改めて追わせてもらうのも悪くない、って
思って。
「もう何度も拝読させて頂いているはずなのに、読むたびに同じ所で同じ感動が込み上げて
来るんですよね。ストーリーも何もかも全部、暗記出来るぐらい覚えてるのに、どうして、
毎回、ちゃんと同じように心が揺さぶられるんだろう、って。それが不思議で」
閉じた本を胸に抱くようにして、その気持ちごと抱き締める。
「・・・んな、ご大層なモンかよ」
今度ははっきりと口元を歪め、眼差しの中に冷たい光を浮かべた先生が、次の瞬間には
また、悪戯っぽく笑みを浮かべて
「つーか、お前、本人、目の前にしてそーゆーセリフ言ってて、恥ずかしくねぇ?」
明らかなからかいを込めた声音が届けられる。
「あ・・・・そうですよね。先生がお書きになられたんですもんね」
「・・・・って、何だよ?何が言いてぇの?お前は」
「別に」
思ってても言えないよね、信じられない気がする、とは。
「どうせ、信じらんねぇ、とか思ってんだろ?」
何だ、ちゃんとお見通しなんじゃん。
「物凄く好きですよ、俺。先生の書かれる小説。俺だけじゃなくて、もっと大勢の先生の
ファンの人達がきっと、連載の続きや新作が発表されるのを楽しみに心待ちにしてるん
ですから、宜しくお願いしますね?」
「・・・・・・ふん、泣き落としの次は褒め殺し、ってヤツ?お前も意外に頭、回んだな?」
・・・・・・・・・・・
先生から返された言葉は少なからずショックだった。
本心からそう言ったつもりだったのに、そんな風に受け取られてしまって、後の言葉が
続けられない。
そのまま、閉じた本をもう一度開いて、続きに視線を走らせる。
トイレに行く予定だったはずの先生は、どういう訳かそのまま、俺の隣に腰を下ろして。
1ページ、2ページ、3ページ・・・と読み進んだ後、俺は溜息をついて本を閉じ、顔を
おもむろに隣に向けて。
案の定。
ソファの上に軽く膝を立て、その膝の上に片肘をついて頬杖を作り、こちらをじっと見て
いる先生とまともに視線がぶつかった。
「あの・・・何をしておいでなんですか?」
「見てた」
・・・・・何を?なんて質問をぶつけようもんなら墓穴を掘る事だけは確実に分かりきっていて、
溜息は更に深くなる。
「どうしてですか?」
「・・・・・何となく?」
「お手洗いにおいでになられるご予定じゃなかったんですか?生理現象じゃないんだと
したら、さっさと戻って原稿、書いて下さい」
「・・・・・・・・・・」
わざとらしく肩を竦め、無言のまま、先生はまた書斎に戻って行く。
やれやれ、と息をついたのも束の間。
先生はまた、小一時間もするとリビングに現れては、どうでもいい世間話をし掛けて来たり
して。
「先生、無駄話なさってるお時間なんかないんじゃないですか。さっさと原稿、書いて下さいよ」
俺は段々、面倒になって来て、読み掛けている本から顔すら上げずにそんなセリフだけを
返す。
「・・・・なぁ、それ、そんなに面白ぇ?」
ふ、と。
窺うような声がして。
思わずちら、と顔を上げてしまった。
そこにあったのは、ちょっと首を傾げて俺を覗き込むようにしている先生の、妙に複雑な
表情で。
「はい」
一言、頷いたら
「・・・・ふぅん」
と曖昧な唸りが返って来ただけで。
そうして先生はまた、書斎に戻って行く。
朝からもう、結構、時間経つけど・・・・・
少しは原稿、捗ってるのかな?
そんな不安が胸をよぎる。
夕飯の時に思い切って尋ねてみたけど、相変わらず、その返事は曖昧極まりなくて。
そうして、もういい加減、夜も更けて。
二日も続けてここに泊り込みってパターンは避けたかったから、書斎のドアをノックして
辞去する旨を伝えたら。
「あ、そ。ご苦労さん。これで俺も漸く、お前って番犬から解放されて自由を謳歌出来る
ようになる訳だ」
ドアの向こうからは妙に意地悪い、芝居がかった晴れ晴れとした声が届いて。
「は?」
「さて、と。それじゃ、俺もこれから夜の街に繰り出して、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ
って事で」
「先生っ?!」
思わずドアをぶち開けて叫んでいた。
「ふ、ふざけないで下さいっ!!ほ、本気じゃないですよねっ?!冗談ですよねっ?!
ど、どうして、そんな冗談、仰るんですっ?!俺に今夜もここに泊り込めって仰るおつもり
ですかっ?!」
「べーつーにー。だぁれも、んな事、言ってねぇし?ただ、原稿、原稿、って小煩ぇ番犬が
居なくなりゃ、羽、伸ばせるなー、っつっただけじゃん?」
「って?!」
「お前が帰んのはお前の勝手だし?好きにすりゃーいいんじゃねぇ?俺は別に止めねぇよ?」
「・・・・・・・・・」
これって人権蹂躙なんじゃないかっ?!とか。
労働基準法を無視してる!!とか。
だって、とっくに就業時間なんか過ぎてるはずで。
何で俺がこんな目に遭わなきゃなんない訳っ?!って。
勝手にすればいい、と断言されてしまっては、これ以上、先生に何を言っても無駄って事に
なるし。
バタンッ!!って。
普段はそんな閉め方なんかしない俺もさすがにキレて、ドアを力一杯叩きつける。
けど、その音が自分の思ってたより遥かに響いた気がして、途端にドアに当たっても
しょうがないじゃん・・・・って、ちょっとだけしゅん、として。
先生が今、仰った事はまるでデタラメで、本当は夜の街に遊びになんか出掛けたりする
はずなんかない、とは考えたりもしないでもないけど。
「中居さぁぁぁん、どうしたらいいんですかぁぁぁ?!」
結局、リビングにまた戻って、中居さんに泣きを入れる。
「おめぇはぁ!まった、んなくっだらねぇ事で電話なんかしてきやがって!!」
電話の向こうでは中居さんの取り付く島もないような冷たい怒声が響くけど。
「おめぇな?!いい加減、そのサラリーマン感覚どうにかしろ?!定時出社、定時退社の
OLじゃねぇんだかんな?!俺らの仕事はそーゆー仕事なんだよっ!原稿もらうまでは
就業時間だとか残業だとか、んな事、考えてんじゃねぇよっ!!もっと他に考える事、
あんだろーがっ!!どうすりゃセンセーにちゃんと原稿、書いてもらえっかな、とかよ」
「鬼っ!!悪魔っ!!」
「おぅ、何とでも言え。俺にストレスぶつけて、それで気ぃ済むんだったら、いっくらでも
付き合ってやっから。んなもん、まだまだ、序の口だぞぉ。もっと切羽詰まってみ?
追い詰められた人間て、怖ぇぞぉ」
中居さんの声が意地悪さを含んで、それが物凄く楽しそうに耳に響くから、タチが悪い。
「これ以上何があるって言うんですかっ?!大体、ロクな経験もない俺みたいな新人が
こんな難しい先生の担当につかされる事自体がおかしいんじゃないんですかっ?!中居さぁん、
お願いですから助けて下さいよぉ!!」
「だってよぉ、おめぇ。別にただ、そこに泊り込むだけだべ?んで、センセーが逃げ出さ
ねぇように見張ってるだけなんだからよ、それ以上楽な仕事もねぇべ?」
「・・・・・・・・・」
「んだよ?うちでかぁいい彼女でも待ってる、とか?」
・・・・・・昨夜、先生が仰ったのとおんなじセリフを、またしても投げつけられて。
一緒に住んでる彼女はいないけど、今は。
そりゃ、別に今晩、会おう、って約束してる訳でもないし。
けどさぁ、なんか、拘束時間って言うの?
それだけでも立派に俺にとっては、問題なんだけど。
「とっととそこからおさらばしたきゃ、とにかくセンセーから原稿、もらうこったな。
おめぇがそこで頑張ってる事はちゃぁんと編集長に伝えといてやっからよ。あ、明日の
タイムカード、俺、押しといてやっから」
有難くもない進言をしてくれた後、中居さんの電話はいきなり切れた。
ただ、そこに居て見張ってるだけ、か。
確かに仕事そのものは物凄く楽な方なのかも知れないけど・・・・・
電話を切って、暫くするとまた、先生が現れる。
表面上はいつもと同じ、ちょっと意地悪さを滲ませた、そんな顔つきなんだけど、それでも、
その奥に何かを隠し持っているような複雑な瞳の色合いは現れる度に少しずつ濃くなって
いる気はする。
・・・・・・・どうすりゃセンセーにちゃんと原稿、書いてもらえっかな、とかよ
・・・・・・・追い詰められた人間て、怖ぇぞぉ
つい、今しがたの中居さんのその二つのセリフが頭の中で交互にリプレイされる。
「・・・・原稿、捗らないんですか?」
俺の質問には答えず、先生は一人掛けの方のソファーに身体を投げ出すように腰を下ろして。
どこか虚ろな瞳で低く声を洩らすように、先生は口を開いた。
「お前だったらよ、書ける?こんな風に朝から晩まで四六時中見張られて、書け、書けっ
つわれて」
・・・・・・・・けど、それをするのがプロじゃん
内心に浮かんだ思いは取り敢えず飲み込んで。
「分かりません、俺、そういう立場になった事ないですから」
「だろうな。分かんねぇわな」
「はい」
「・・・・・お前も書いてたっつったっけ?小説・・・・」
不意にそんな話を振られて少しだけ面食らったけど。
「あ、まぁ、子供の悪戯書き程度に、ですけど」
「面白かった?」
「話の内容ですか?」
「じゃなくて。書く事そのもの」
「え?あぁ。楽しかったですよ。うん。楽しくて楽しくて仕方なくて、40時間ぐらい
寝ないでぶっ通しで書いた事とかもあって。自分って天才じゃないか、って本気で思ってた
頃もありましたもん」
そんな昔の事を懐かしんで、思わず笑みが洩れた。
現実は厳しくて、そんな自信作でも掠りもしなかった訳だけど。
「だよなー。あるよな、そういう頃。俺にもあったし」
「過去形なんですか?」
「・・・・・・・・・」
「今は楽しくないんですか?」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・先生?」
「・・・・・・帰れ」
「え?」
「今日はもういいわ。お前、帰れ」
「って、えっ?!俺、何か先生のお気に障るような事・・・・・」
「いいから、帰れ、って。心配しなくても別にどっか抜け出して遊んだりだとかしねぇから。
っつーか・・・・どうせ書斎に缶詰になってたからって書けるモンでもねぇけどな」
酷く自虐的に見える笑みに頬を彩らせて、先生は深く息をついて、そのまま、目を閉じる。
何がそんなに先生を苦しめているのか、俺には皆目見当もつかないけど、それでも。
・・・・・・・どうすりゃセンセーにちゃんと原稿、書いてもらえっかな、とかよ
中居さんの言葉が改めて胸に浮かぶ。
「え、と・・・・・それじゃ、俺、失礼します」
椅子の背に掛けておいたジャケットを手に、先生に向かって軽く一礼した俺に、先生は
ほんの少しだけ眉を動かしただけで、無言のまま。
そんな先生を逆に見送るような感覚になりながら、俺は玄関を出、マンションを出ると
地下鉄の駅まで結構な勢いで歩いた。
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