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【2】
カタカタ、カタカタ、カタカタ・・・・・・
微かな耳に触れる音は確かに耳慣れた音でもあって。
・・・・・やっぱり、木村先生・・・・・・?
薄ぼんやりとした頼りない思考の中にその名前が浮かび上がる。
リズミカルに続く音が、時折、ふ、と途切れ。
また、思い出したようにリズムを刻んで。
この音が好きだな、って。
何気なくそんな感慨を胸に抱いて。
ふふ・・・・・まだ、夢の続きを見てんのかな、俺は、って。
何となくどうしようもないだるさに見舞われて、ベッドの中に倒れ込んで。
次の朝には、また、どうしようもなく起き上がるのがだるくて堪らなくて、そんな風にして
1日、ロクに水分も取らず、当然、何も口にせずにベッドで死んでたら、その次の日には
本当に起き上がれなくなってしまい。
「・・・・・中居、さーーーん・・・・」
どうにか手探りでベッドサイドに置いておいたはずの携帯を探り当て、ボタンを操作して。
奇跡的にその相手に繋がる事は繋がったにも関わらず。
「んだよ、おめぇ、ひっでぇ声だな?何?風邪か?もしかして?今、流行りの新型インフルエンザ、
とか言うんじゃねぇよな?何かこうやって電話で喋ってるだけでも伝染されそうな勢いで
怖ぇんだけど。頼むから、今だけは止めてくれな。担当作家先生の締め切り3日前の、にっちも
さっちも行かねぇ修羅場の真っ最中なんだよ。おめぇも編集者の端くれなら分かんべ?落ち
着いたら様子、見に行ってやっから」
一言、泣きついただけで、一気にそれだけの返答を返されて、あっと言う間に回線は途切れて。
掌から携帯が滑り落ち、同時に瞼も意識も落ちた。
次に意識が戻った時、って言うのが、どうしようもないほどの生理現象で。
・・・・・・嘘でしょ・・・・・・
はぁ、って。
肩で息をついた途端に咳が迸り、腹筋を使った事で、一層、その感覚はのっぴきならないものを
伝えても来て。
ベッドからずるずると這い降りて、そのまま、廊下を這ってどうにか、目的の場所に辿り着き、
死ぬ気でもって立ち上がって用を足した後は、また、ずるずると自分の身体を引き摺るように
してベッドに戻り。
必死で這い上がって。
そこから後の記憶はまるでない。
ベタつく肌の上を柔らかで温かな何かが過ぎる度に、すー・・・っと肌を覆っていた疲れまでが
取れるように。
それは酷く心地良くて。
丁寧な動きで、全体をそうされた後に着せ掛けられたものの肌触りも、とても気持ち良くて。
その後で唇の間に挟み込まれたものを、何の疑いもなく吸い上げてしまったのは、もう、本能か
何かの為せる技としか思えなくて。
口の中に広がり、喉を滑り落ちて行く冷たい感覚が、枯れた大地に落とされた水滴のように、
細胞の1個1個にまで沁み込んで行くようで、その余りの心地良さに陶然としてしまう。
暑くて。
ガタガタと震えるほどに寒い、と感じたそれは、やがて、灼熱地獄に放り込まれたように、
全身を暑い熱で覆い尽くして。
焼け付いてひりつく喉は、やがて、咳込む時でさえ、微かな息だけを迸らせるような所まで
追い込まれても居て。
生き返る心地、ってこう言う事を言うのかも知れない、って。
ぼんやりと漂う意識の中で、一瞬だけそんな事を描いて。
そして、また、次には、どう言う訳かここに木村先生が居て。
梅がゆが何だとか言って、俺をベッドに座らせてくれて、しかも、口元までレンゲで掬った
それを運んでくれたりなんかもして。
へぇ・・・・って。
夢の中に木村先生が出て来るって初めてだなー、って。
何となくそんな事を思って。
夢の中でも木村先生はやっぱり木村先生で。
「んだよ、ヤケに素直じゃん?そんな恥ずかしい事、誰も頼んでませんよ!とか、いつも
みたく、可愛くねぇクチ、叩いたりだとか、さすがにそんな元気もねぇか?」
そんな風に投げ掛けられるセリフが余りにもリアルで、つい、笑ってしまう。
夢の中で食べる梅がゆは、その酸味がまるで食欲なんかどこにも、欠片もなかったはずの
俺の胃を、強過ぎず弱過ぎず、適度に刺激してくれて。
一口、口に含んで飲み込む度に、その仄かな温かさがじんわりと胃の中に広がって、満たして。
空っぽだった胃が歓喜してるのを感じる経験は・・・・
あー、そう言えば・・・・あの修羅場開けの朝、先生が作って下さった朝ご飯を頂いた時の
感覚ととても良く似ていて。
夢の中でまた、そんな感覚を再生してる事が、何だか少し不思議な気分で。
そうして、胃が満足した途端、また、どうしようもなく睡魔が襲って来て。
あー、夢の中でもまだ、眠くなったりもするんだなー、って。
そんな発見と共に、夢が途切れて行くのを、実は少しだけ寂しく感じたりもした。
もう少し・・・・・・・
この不思議な・・・・・・
あの木村先生が甲斐甲斐しく俺の世話をして下さってる、とか言う、現実には絶対に、天変地異が
起こったってあり得ない空想の世界に浸っていたい気もして。
この夢の続きが見られるといいな、とか・・・・・
そんな事を願ってる自分に、ちょっと笑いを噛み締めてみる。
明け方近くになって睡魔の野郎が突然、襲ってきやがって。
それをやり過ごすために、俺はベッド脇のちっこい机の上に置かれたノートパソコンを開いて、
ちょこちょこと弄ってみる。
ログインパスなんぞが設定されていたらアウトだな、と思って開いたそれは、あっさりと
俺を受け入れて。
ワードを開き、適当にカチカチと文字を刻んで行く。
それはリズムであったり、言葉遊びであったり。
何も考えずにただ指先だけを躍らせるその作業は、執筆に疲れた合間、たまーにやってみる
事でもあって。
少しずつ世界が目覚め始めるこんな時間を、こうして過ごす事が俺は案外、嫌いでもなくて。
朝飯は何を作ってやるかな、だとか。
また、そろそろ着替えもさせてやんなきゃな、とか。
起き上がれそうならシーツ、替えてもやりてぇし、だとか。
俺ってこんなに面倒見良かったっけか?って。
自分で首を傾げたくなる程度に、けど、次から次へと、してやりてぇ、と思う事は浮かび続ける。
そうして、完全に夜が開け切った頃、ベッドのそいつが身動ぎする雰囲気を感じて。
「よぉ、目ぇ覚めたか?」
少しこけた頬に手の甲を当てて、その顔を覗き込む。
ちょっと驚いたような瞳が俺を見止めて。
何かを言いかけ様とするかのように動きかけた唇の代わりに、眼差しがやんわりと綻ぶ。
「朝飯、何か食いてぇもんとか、ある?」
「・・・・・・ヨーグルト。フルーツ入りの」
「ヨーグルト、かぁ・・・・それはちょい、想定外だったな。フルーツってどんな?」
「ベリー類だとか・・・・あんまり甘過ぎないやつ」
「甘過ぎねぇフルーツ、っと。他には?」
「ハーブティー・・・・ベランダにあるハーブで。摘み立ての新鮮なので淹れたやつ」
「ハーブティー?んだよ、俺ぁ、そんなもん、淹れた事ねぇっつーの」
ふふ、と微かな笑みが新人の唇から零れ落ちて。
「汗・・・・気持ち悪い」
「んだな。じゃ、まず、買いもん行く前に着替えしとくか?ちょい起きられそうなら、シーツも
ついでに替えてやるけど」
「うん、お願い・・・・・」
「自力でソファまで歩けそうか?何だったらお姫様だっこ、してってやろうか?」
完璧に冗談のつもりでそう口にしてやったら。
「うん、お願い・・・・・」
とかって。
さっきとまんまおんなじセリフで。
ちょっと小首を傾げて、両腕をこっちに伸ばしてきやがって。
えっ?!えぇぇぇぇーーーー?!
内心ではっきり驚愕が迸る。
こいつ、あんまりにも熱が高かったせいで、脳の回路がどうにかなっちまったんじゃねぇか、
って。
それとも・・・・もしかして、今、こいつの目の前に居んのが俺って分かってねぇ、とか?!
「お、おまっ!な?!お前、俺の事、真剣、マジで誰だかちゃんと分ーってる?!」
「木村先生、でしょ?」
即答で返されて。
けど、その言葉遣いそのものが既にして、普段のお前と全然、違ってんですけど?!
「んだよ、いつもだったら、俺が幾らそう言う事言ったって剣もほろろ、っつーの?ばっさり
切り捨てちゃったりしてくれちゃってたんじゃねぇの?!」
「ふふ。いーじゃん・・・こんな事でもない限り、俺が先生に甘えられる事とかってない訳
でしょ?」
「なくねぇだろうよ。こっちはいつでも大歓迎」
「嘘ばっかり。いつも俺の事、虐めて喜んでるくせして」
それでも、ほんのりと瞳に刻まれた笑みはそのままに。
「ねぇ、早く。腕、だるいんだけど」
一言、甘えるように。
督促めいて唇から零された声に。
俺はうもすもなく、軽々とその身体を抱き上げていた。
その後も恐ろしく素直に。
俺のする事なす事、されるがまま受け入れて。
「さすがにちょっと恥ずかしいけど、すんごい気持ちいい・・・・・・」
せっせと蒸しタオルでそいつの身体を拭ってやる間、ほんわりとそんなセリフまでを賜って。
病気ん時ってぇのは、こんなにも人格、変わるもんなの?って。
そこまで弱ってんのか、と思ったら、それはそれで不憫でもあって。
新人が口にした、こんな事でもない限り・・・・って、頭も上がんねぇほど病気ん時でも
ねぇ限り、って事だもんなぁ。
そうして、ベッドシーツも無事に交換完了して。
「そんじゃ、ちょっと買出し、行ってくっから。ここにストローボトル、置いとくからな。
喉、渇いたら自分で飲めるよな?」
コクン、と素直に頷く様を見届けて、俺は少し急いで買い出しに出掛けた。
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