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【3】
玄関の鍵をガチャガチャ言わせて、買いもんを済ませ新人宅に帰りついた俺は、買い物袋を
一端、テーブルの上に下ろし、まず、新人の様子を確認するためにスクリーンを捲り上げて。
ベッドの上で身体を起こし、肩に羽織った薄手の綿シャツを両手でぎゅっと握り締め。
青褪めた顔でじっとこっちを凝視してる新人のただならぬ気配に、ただ驚かされる。
「ど、どうした?!俺が留守の間に誰か上がり込んできやがったのか?!」
「上がり込んで来られてるのは木村先生の方でしょ?」
完全に掠れた声が、低く押し殺すように唇の奥に篭もるように。
険しい瞳が完全に俺を射殺さんばかりの勢いで注がれている。
「ど、どうして?鍵、鍵、掛かってませんでしたかっ?」
「鍵、って・・・これ?」
俺は管理人から借りた合鍵をやつの目の前に示して見せる。
「って、どうして?!木村先生が何でそんなもの、持ってらっしゃるんですか?!」
噛みつかんばかり、ってこう言う事を言うんだろうな、って。
「・・・・・管理人に借りた」
「って、そんな、どうして?!赤の他人の先生に、管理人さんもどうして、そんなに簡単に
鍵とか預けたりするんです?!」
「・・・・・って言うか・・・・・・もしかして、お前、なーーーんも覚えてねぇ、とか言う?」
こいつをお姫様だったこしてやって隣のソファーに運んでやったのは、まだ、ほんの数十分前で
しかなくて。
その余りの露骨な変貌に俺は愕然とした失望を感じたりしてる。
ただ、むしろ、今のこいつの反応が普段のこいつの普通の反応、とは言えて、俺の中の混乱は
頭の中に多少のクエスチョンマークを力なく明滅させていた。
・・・・・じゃあ・・・さっきのアレは一体、なんだったんだよ・・・・・
「何をです?!何を覚えてない、って?!」
「・・・・・色々?」
「色々?」
「ヨーグルトが食いてぇ、だとか?フルーツは甘くないの、だとか?摘み立てのハーブで
ハーブティーが飲みてぇ、だとか?」
言葉を重ねる度に、そいつの唇が小さく戦慄いて。
青褪めていた顔色が少しずつ紅潮して来る。
「う、そ・・・だ、て・・・・あれ、は・・・・」
そうして、間もなく茹蛸みてぇに、その耳から首筋から胸元までが真っ赤に染まって。
「だ、だって・・・・そ、んな・・・?!だって、あれ、は・・・・・!!」
あうあうと。
唇を震わせて。
目に一杯涙を溜めて。
まるで、たった今、正にここで無理矢理犯された後のオンナみてぇに。
震えて。
「・・・・・そ、んな、の・・・って・・・・・」
やがて、その頬をぽろぽろと透明な雫が零れ落ちる。
「・・・・んでぇ・・・何で泣くんだよ?」
何となく・・・・泣きたい気分なのはこっちなんですけど・・・と思わなくもねぇ。
「自分の余りのバカさ加減が・・・恥ずかしくて情けなくて・・・悔しくて泣けて来るんですっ」
ぐずぐずと鼻を啜り上げて。
「バカさ加減、て・・・・・」
「だってそうでしょう?!夢と現実との区別もつかない、なんて・・・・!」
「夢ぇ?」
「そうですよ!普通に常識的に考えて、ここに先生がいらっしゃるはずなんてあり得ませんから。
先生がここにいらっしゃる、って思った瞬間に自分は夢の中に居るって勝手に信じ込んで。
第一、あの先生が、ですよ?風邪引いて寝込んでる俺見て、バカは風邪引かないんじゃねぇの?!
とかね、指差して高笑いする事はあっても、こんな風にね、甲斐甲斐しく献身的に面倒見て
下さるとかってね、夢以外の何物でもない、って思うに決まってるじゃないですかっ」
余りに切々と、そして、長々と一気にそんな風に捲くし立てられて、俺は途中で言葉を挟む
余地さえ与えられなかった。
「・・・・何か今更だけどよ、酷ぇ言われ方してねぇ?俺」
俺が余りにも一方的に捲くし立てたせいなのか、俺が言葉を切って、肩で息をついた頃、
少し伏し目がちに先生は低く言葉を洩らして。
「そりゃあ、お前に何の断りもなしに勝手に鍵借りて入り込んじまった事は悪ぃって思ってっけど。
けど、もし、俺があん時、そう言う無茶でもかましてなきゃ、お前、今頃は脱水症状とか
起こして生命の危険に晒されてたかも知んねぇんだけど?」
「・・・・・・・・・」
「って、別に脅すとか・・・恩に着せよう、とか、そう言うんでもねぇけどな・・・・・」
それは確かに・・・・・
先生の仰ってる事は、確かに間違ってない、って確信は俺にも持てた。
自分でもかなりヤバかったんじゃないか、って。
ほとんど意識さえ失いかけてた事自体を考えてみても、先生がそうした非常識な事をしでかして
下さらなかったとしたら、俺は今頃、もしかしたら・・・・・・
夢の中だと勝手に信じ込んで、色々としでかしてしまった自分の言動が余りに恥ずかし過ぎて、
少し我を見失ってしまったけれど。
少しずつ冷静な思考が巡り始めると同時に、そんな風にして面倒を見て下さった先生に、自分が
投げつけた失礼極まりないセリフの数々も思い出されて来て。
底のない沼にずるずると引きずり込まれるように、ずーーーん、と落ち込みそうになる俺の
耳に携帯の着メロが響いて来て。
え?ちょ・・・あれ?どこで鳴ってんの?
きょろきょろしてる俺に、先生が身を少し屈めて。
下から拾い上げたそれの液晶が知らせる着信者にチラ、と視線を走らせた後で。
ポン、とベッドに放って下さった。
「あ・・・すいません」
軽くお辞儀して回線を繋ぐと、聞こえて来たのは中居さんの声で。
「んだよ、てめぇ!生きてんのか?!何でメールの返事、寄越さねぇんだよ?!電話も!」
確かに、回線を繋ぐその一瞬に見て取った待ち受け画面には、何件もの着信と、メールの
着信が表示されてあって。
多分・・・・その中に中居さんからのもあった、って事で。
メールみたいな面倒臭い事はしない、って豪語してたはずの中居さんが、それでもメールを
くれてたんだ、って、その事は純粋に驚きでもあって。
「んだよ、電話にも出らんねぇぐれぇ死んでたのかよ?おめぇが今にも死にそうな声で電話
なんか寄越すから、こちとら気になっちまって。様子、見に行くぐれぇはしてやっか、って
思って住所とか知らせろ、ってメール打っても返信もなしで。どうよ?今、こうして電話に
出てるって事は、ちょっとはマシになったんか?」
「・・・・・お陰様で・・・・まだまだ完治には程遠い感じですけど・・・意識は戻りました」
「って、おめぇ、もんのすげぇ重病人だったみてぇな言い方してんじゃねぇよ」
カカカ、と。
耳慣れた笑い声に安堵が滲むのは感じられて。
「仕事帰りにでも、何か精のつくもんでも差し入れてやろうか?」
「・・・・あ、いえ・・・・お気持ちだけ有難く・・・・・」
今、このパニック状態な精神状態の所へ持って来て、中居さんと先生とのダブル攻撃を
くらう覚悟なんか、未熟者の俺には到底、敵わない。
「ふっ。んだよ、もしかして、今、目の前に彼女とか居たりすんのか?甲斐甲斐しく世話して
もらったりだとかして?風邪って人に伝染すと早く治るんだよ、とかゆって、風邪、伝染る
ような事してんじゃねぇだろうな?」
俺の返事がお気に召さなかったらしい中居さんが、すかさず、そう言う下世話な想像で
攻撃とかして来るし・・・・・
「な、何、バカな事、言ってんですかっ?!」
か、彼女なんか来てるはずないじゃないよ!先生の担当にならされて、先生に振り回されてる
間に振られたって言うの・・・・
ただ、彼女じゃない、自分以外の人がそこに居た事は事実で、その事まで見透かされてそうで、
何となく落ち着かない気分になる。
「お?マジで図星ってか?稲垣くんは分っかり易くてダメだなー」
完全におふざけモードで。普段、俺の事を君付けで呼んだ事なんか1回もなかったくせに、
いきなりそんな呼び方までして。
「ち、違いますって!勝手に決め付けないで下さいよ!」
「分ーった、分ーった。そんじゃあ、お邪魔虫はさっさと退散すっから。彼女にヨロシクな?
マジで彼女に風邪、伝染すとかな、そう言うかぁいそうな事だけは止めとけよ」
最後の最後に、妙に男っぽいマジメな声音になって、言いたい事だけを言って、中居さんの
電話は切れた。
俺がその回線を繋ぐのと同時ぐらいに、先生は無言のまま立ち上がって台所の方に向われて。
ロールスクリーン越しに先生が動き回ってる気配を感じながら。
会話が終わった頃合を見計らうようにして、先生はスクリーンを捲り上げて、少しだけ顔だけを
覗かせて。
「ヨーグルトとか冷蔵庫ん中に仕舞っといたから。後、冷却シートとか、イオン飲料とかも。
それと、ハーブティーとかは中居にでも作ってもらえば?」
「・・・・え?」
「来んだろ?中居」
「いえ・・・・何か差し入れて下さるって仰って下さいましたけど・・・お断りしました」
「・・・・・・何で?」
「何で、って・・・・・」
端的に尋ねられて言葉に詰まった。
「俺なんかに面倒見られるよか、気心の知れた先輩に世話んなる方がお前もいいんだろ?」
「・・・・え?・・・・あ・・・・」
「俺がダウンした時?お前が一生懸命んなって面倒見てくれた事?あん時のせめてな、ちょっと
ぐれぇは恩返し?出来ればいいかな、っつーか・・・・や、そんなご大層な事でもなくて。
アレだな。たかが風邪如きで?すっかり弱っちまって?てんでお前らしくねぇお前がおっそろしく
面白くて笑わしてもらったわ!」
口元にすっかりひねたシニカルな笑みを浮かべて。
眼差しの中に忌々しそうに浮かべられた嘲笑は、けど、俺に向けられているものではない気が
した。
「悪かったな、本人の許可もなしに勝手に上がり込んだ上に、好き勝手やっちまって。不法
侵入とかで訴えるっつーんだったら、そうすれば?」
「・・・・・先生」
「ここで中居とバッシングだとかな、笑えねぇから、俺、もう行くし」
「先生!」
呼び止める声が迸って、同時に咽て、また、咳き込んでしまう。
「バーカ。おっきな声とか出してんじゃねぇ、っつーの」
玄関に足を向け掛けた先生が、それでも戻って俺の背中をさすって下さってる。
「・・・・あの・・・有難うございました。俺・・・勝手に夢って勘違いして、何か先生に
凄い失礼な事とか・・・色々と我が儘とか・・・・え、とご迷惑をお掛けしてしまって・・・・・」
「別にぃ。ごメーワク掛けられた、なんてこれっぽっちも思ってねぇし・・・・」
「すっかり甘えて・・・お世話になっちゃって」
「夢?ん中だと・・・・お前、甘えたりだとかもすんのな?」
俺を映す眼差しが・・・・こう、一瞬・・・・何かを言いたげに細められて。
「・・・・あの・・・・・」
「んー?」
「あの・・・・・ありがとうございました」
「・・・・・おぅ。さっさと元気になれよな。お前、来ねぇと遊び相手居なくて退屈で
堪んねぇからよ」
「・・・・・はい」
頷くのと同時に先生は俺に背中を向けて。
「あ、別に見送らなくていいし」
見送れって言われたって、この体調じゃまだ、それも無理そうで。
寝込んでからこっち、こんな風にして身体を起こしてる時間、て言うのもなかったせいか、
先生の姿がスクリーンの向こうに消えると同時に、自分の意志なんか無視して、身体は勝手に
ずるずると横向きにずり下がって行く感覚がして。
ベッドからはみ出した手がサイドボードに置いてあったストローつきのペットボトルに当たり
ボトッと鈍い音を立てて、それが床に落ちる。
「・・・・・なぁにやってんだよ」
呆れた風な先生の声が割合、耳のすぐ傍でして。
そのまま、先生の手でベッドにちゃんと収まる位置に身体をずらしてももらって。
「しゃーねーな・・・・中居が来るまでは居てやっから」
・・・・・・だから・・・中居さんは来ません、てば・・・・・
口にしようとした言葉はけれど、音にならないまま、俺の思考はまた、深く沈み込んで行く
ようだった。
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