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【1】
「うぃーーーっす」
一般社会人が会社に出向く際、これほど相応しくない挨拶もねぇだろう、と言う自覚ぐらいは
もちろんあった。
けれど、自分はそれでまかり通るのだ、と知らしめたくて、敢えて、軽く片手なんぞを
挙げたりもしつつ、自分と関わりのある部署に顔を覗かせる。
「木村先生?!わざわざこちらまでご足労頂くなんて、お珍しいですね。何か急なご用件
ですとか、それとも、編集の者に不手際でもございましたか?」
慌てて、それまでふんぞり返っていた席から立ち上がり、そそくさとこちらに歩み寄りつつ
尋ねる編集長の額に薄く汗が滲む。
「別に。近くまで来たから、ちょい?寄って見ただけ」
そんな感じで適当に答えながら、俺は素早く周囲を見渡す。
どの席か、なんて事は当然、知るはずもない。
が、必ずこのフロアに居る事は必至で。
「そうですか。特にお急ぎ、と言う事でもございませんでしたら、ごゆっくりなさっていらして
下さい。戸田くん、先生にお茶をお出しして」
傍にいたOLらしいお姉ちゃんに鋭くそんな指示も飛ばしつつ。
「こちらでは落ち着かれないでしょう、どうぞ、応接室の方へ。いかがですか?新作の進み
具合は?いや、もう、来月号の予告だけでも、物凄い反響がございまして。さすがは木村先生。
今や日本中がその新作を待ち焦がれる大人気作家でいらっしゃるから」
手もみせんばかりの勢いで。
傍にへばりついて離れようとしない、頭のてっぺんの薄くなり掛けたおっさんのおべんちゃら
なんぞは端っから、右から左へ抜けてってるのは当然として。
俺はふ、と目についた男のデスクにおもむろに手をつき、その顔を覗き込む。
「おぅ、中居?お前んとこのへっぽこ新人編集者はどうしたんだよ?顔、見えねぇみてぇ
だけどよ。どっか俺以外のセンセんとこに原稿取りかなんかか?」
原稿の校正中と思しき手を止めて、中居が若干、面倒そうにその面を上げて見せて。
「稲垣でしたら4日ほど前から休暇届けが出てますが」
「休暇?んだよ?一人前に夏休みとか言う?いいご身分だな、おい?こっちは締め切りに
追い回されて、まだ、花火だってやってねぇし、スイカもカキ氷も食ってもねぇっつーのによ」
「お言葉を返すようですが。そんな優雅なもんでもないようですよ。体調不良みたいですね。
中居さーーーーん、って。掠れた酷い声で電話して来やがりましてね。その電話の会話だけでも
伝染
されるんじゃないか、って心配になったぐらいです」
「・・・・って、おま。自分が伝染される心配しかしねぇのかよ?」
「この時期の風邪はタチが悪いですからね。何ですか、新型とかも流行ってるようですし、
うっかり伝染されたりなんかしたら、こっちまで仕事にならなくなりますから」
「・・・・・・冷てぇヤツ」
「何か仰いましたか?」
「別にぃぃぃぃぃ」
道理で。
幾らそのフロアにくまなく視線を飛ばしてみた所で見つけらんねぇはずだよな、休んでんじゃあ
よぉ・・・・・・
中居との会話を俺の後ろにへばりつくようにして立って、耳にしてたらしい編集長を振り返り。
「稲垣の連絡先、知りてぇんだけど」
有無を言わさぬ口調で詰め寄る。
その視界の端で、中居のバカ野郎が思惑ありげに口端を歪めた事には、敢えて知らん振りを
決め込んだ。
「い、稲垣の連絡先、ですか?」
さすがにこんだけ個人情報の漏洩問題とかに世間が敏感になってる今、その質問においそれ、と
答える訳に行かねぇ事なんざぁ、百も承知で。
だからこその有無を言わさねぇ語調であって。
「何?いつも世話んなってる担当編集者のお見舞いに行ってもいけねぇの?この会社は?」
そんな風に詰め寄った事で、編集長の額からはまた、汗が噴き出し。
「え?あ、いや、そ、んな事は・・・・・・」
「それとも何?俺みたいな?いっつもそいつにメーワクばっか掛けてるようなヤツにお見舞い
されたんじゃあ、その新人編集者が可哀想ってか?」
敢えて半目で。
少しだけアゴを突き出し加減に、下から舐めるような角度から、視線を合わせてやって。
「滅相もない!誰か!今すぐ稲垣の連絡先を先生にお知らせして差し上げろ!!」
・・・・・はい、そこでやっぱ、究極の責任転嫁な訳ね?
もし、これで何か問題が持ち上がった際には、その直接、俺にそいつの住所なり何なりを
教えたヤツの責任?って意味?
それでも、ちゃーーーんと、そう言う時にそうした仕事を引き受ける人間、てのは居るみてぇで。
速攻、内線で人事部に繋ぎ、新人の住所と電話、携帯の番号からメアドまで。
瞬く間に、それは俺の携帯にインプットされていた。
で、たった今、入手した情報を元にその住所を尋ねてみたが、当たり前のように玄関には鍵。
そして、当然、俺はそこの鍵なんか持っちゃいねぇ。
・・・・・・けど、管理人つきのマンションだな。
って事に気付いて、俺はそそくさと管理人室のチャイムを連打していた。
「あー、すいません。560号室の稲垣の兄ですけれども。何か弟のやつ、熱出して寝込んでる
からとかってSOS送って寄越したくせに、肝心の鍵、寄越さねぇで。玄関、鍵掛けたまま、
何回呼び鈴押しても、ドア叩いても、全く無反応で。もしかして、中で弟が人知れず息引き取って
たりすんじゃねぇか、とかって、俺、気が気じゃねぇんですけど、ちょっと合鍵とか、貸して
もらう訳には行きませんか?」
多少、臭ぇか?!と思わなくもなかったが、けど、俺様の迫真の演技は管理人の猜疑心に
勝ったようで。
折悪しく、世間じゃあ日本を代表するような大女優の孤独な訃報が飛び交っているような
最中であった事もあって。
いやー、にしたって、世の中、どいつもこいつも、こんなに人を簡単に信用していいのか?とか。
騙した本人がそう思ってりゃ、世話ねぇ、っつーの?
「ほんと、どうもすいません。恩にきます」
深々と頭を下げて。
俺は合鍵で開けてもらった玄関の中に素早く、身体を滑り込ませた。
ざっと中を見渡して。1LDKらしいシンプルな作りの部屋は、LDKに掛けられたロール
スクリーンの向こうがどうやら寝室のようで。
軽くそれの裾を持ち上げてくぐり、ベッドの置かれた部屋へ侵入を果たす。
意外に普通に真っ直ぐ、仰向けのままベッドで横たわっている様は、いつだったか徹夜で
共同作業に励んだ後に拝ませてもらったその時の寝顔に似て。
違うと言えば、熱のせいで白皙の頬が薄赤く色味を帯びている事ぐれぇで。
色味、と言えば・・・・・
普段はどっちかって言うと色素の薄めな唇も、いつもよりは赤く熱を持っているようで。
ほんの僅か。息苦しいのか隙間を拵えた唇が酷く無防備に見えて、俺は慌ててそこから
視線を逸らした。
はぁはぁ、と。
苦しげな整い切らない呼吸に忙しなく胸を上下させて、寝返りを打った拍子に微かな咳が
迸る。
反射的に布団の中に手ぇ突っ込んで背中をさすってやるこっちの手に動きに、苦悶の表情を
刻んだ顔に、すぅっと穏やかな安堵が浮かんで。
そのまま、また、すぐ、すぅすぅと、相変わらず呼吸は苦しげでも、それでも、大人しく
眠りに落ちたみてぇで。
ただ、それだけの事なのに、何だか物凄くいい事をしてやった気分に見舞われるとかって。
そう言やぁ・・・・俺がぎっくり腰、なんつー、口にすんのも恥ずかしいようなアクシデントに
見舞われた時の、こいつの献身的な看病が、今更ながら脳裏をよぎり。
汗の浮いた額に数本、張り付いた前髪をそっとよけて。
額に手を当てた俺は無意識のうちに眉間に深い皺を刻んでいた。
・・・・・あっつ・・・・・・
普段の体温よりもほんの1、2度、体温が上がるだけで、こんなにもはっきりダメージを
くらっちまう人間の身体ってのは、どれほど精巧で精密な機能に基づいているのか、そんな
事をふと思いながら、台所に向かい、冷蔵庫を開けて冷却シートを探してみる。
が、探すまでもなく、目的のものはそこにはなく、また、それ以外のものもほとんど収められて
いない、ただ、煌々と灯りの洩れる庫内に俺は少し頭を抱えたくなる。
・・・・・んだよ、まぁた、金欠病でロクに食ってもねぇのかよ?んな事だから、たかが
風邪ぐれぇで4日も起き上がれねぇほどダメージくらっちまうんだろうが・・・・!
その腹立たしさの根底にあるらしい思いは敢えて認めず。
俺は携帯とサイフと鍵を手に、まずは必要なものの入手に奔走する事にする。
固く絞ったタオルを数本、皿に並べラップを掛けてレンジでチンして、まずは蒸しタオルを
拵え。
汗にまみれた身体を拭ってやろうと。
ぐんにゃりとして頼りない身体は発熱のせいで火照り、汗に濡れたパジャマを脱がせてやろうと
手を近づけるだけでも、その温度の高さを感じさせられて。
ぐったりと、ほとんど意識も朦朧としているようで、パジャマを脱がそうとするこっちの
動きにも、いつもみてぇな抵抗や反論ももちろんなく。
こいつの了解も得ないまま、俺がこんな事してる、とか知ったら、こいつ、また、すっげー
どうしようもねぇぐれぇ怒ったりすんだろうけどな・・・・・
何となくそんな想像はついて。
ほんの僅か、罪悪感に似た息苦しさ、みてぇなものを感じねぇでもなかったけど。
そうして、身ぐるみ剥いだ後、手早く全身を拭ってやり、また、新しいパジャマを着せて。
更にほんの少し開きかけの唇にストローの先を挟み込んでもやる。
ほんの少し唇が動いて。
やがて、小さく何度か喉仏が上下して。
コクコクと中のアルカリイオン飲料が飲下されて、少しずつ減って行くのを確認する。
そうして唇を外した後、ほぅ、っと小さく息をつき。
「・・・・・ありがと・・・・」
掠れた微かな声音がそんな言葉を告げるのを聞いて、胸の中に広がる、あったかいみてぇな、
くすぐってぇような、こんな感じ?
どう言ったらいいんだろうな。
水分を取ったせいで、また、一気に汗が滲み出して来る額や首筋、そして、パジャマのボタンを
少し外して、肩から鎖骨の辺りまでタオルを滑り込ませ、その汗を拭ってやりながら。
何度も冷却シートを張り替え。
夕方近くになって取り敢えずシンプルに梅がゆを作り、枕元に運んだ。
「おぉーい・・・新人?梅がゆ作ったんだけどな、食えそうか?」
まだ熱を帯びて赤い頬に掌を当て、そっと、その薄い肉を摘み上げる。
うにっ、と口端が少しだけ持ち上がって。
薄っすらと、億劫そうに瞼が開いて。
けれど、その目に力なんかはまるでなくて、ぼんやりと視線も定まらないまま、それでも、
俺を映す瞳が熱に潤んで淡い光を湛えている。
「おぉーい・・・分かるか?俺?」
「・・・・・・・木村、せんせ・・・・」
どうにか唇を動かして発せられたその言葉は、熱のせいか、酷く頼りなく、そして、あどけなくも
聞こえて。
「へぇ?分かってんの?」
その実、その事がちょっと意外ではあって。
そんじゃあ、あのぐんにゃりと頼りなく、されるがまま着替えさてせやってた時にも、頼り
なくはあっても、意識はあったって事か?
俺が驚いた事が可笑しかったのか、ぽやんと顔の筋肉が緩むように顔全体に笑顔が広がった。
「梅がゆ、作ったんだけどよぉ、食う?」
その問いにも極々、素直にコクン、と首を縦に起こして。
「んじゃ、ちょっと身体、起こしてやっから。ちょい、こう・・・掴まれ」
身体を起こさせるために、新人の両腕をこっちの首筋に引っ掛けさせるようにして。
そのまま、背中に腕を回し、ゆっくりと抱き起こすようにして身体を持ち上げると、ぐったりと
こっちに寄りかかるようにして体重を預けて来たりもして。
その態勢のまま、俺の身体に新人の身体を凭れ掛けさせたまま、手早くベッドヘッドに整えた
枕に、そぉっとその身体を預けるように、少しずつ身体を離して行く。
はぁ・・・、と。
ただ、それだけでも疲れたように軽く溜息をつくそいつの口元に、レンゲで掬った粥を
近づけてやると、親鳥からエサを与えられる雛のように、極々素直に唇が開かれて。
そうしてくれなくちゃ困るとこではあるんだが。
まさか、けど、そんな素直に口、開けて来るなんてこっちは想像もしてなかったせいで、
大いに驚かされる。
「んだよ、ヤケに素直じゃん?そんな恥ずかしい事、誰も頼んでませんよ!とか、いつも
みたく、可愛くねぇクチ、叩いたりだとか、さすがにそんな元気もねぇか?」
調子狂う事この上なくて、つい、そんな憎まれ口がクチをついて出る。
俺を映した眼差しがゆるり、と解れて。
見てるこっちがもどかしいぐれぇ、ゆっくりと、ほんの少しだけ首を傾げ。
何を言いかけようとしたのか、ほんの少し開きかけた唇から、けれど、洩らされたのは、
さっきと似た淡い吐息だけで。
「ま、いいから・・・・・食え」
そうして、俺は親鳥よろしく、せっせとそいつの口元にエサならぬ粥を運んでやって。
「熱くねぇ?」
「美味い?」
思い出したようにそんな問いを投げる俺に、新人はその都度、素直にコクン、と頷いて。
ほわほわと儚げな淡い笑みを纏って。
茶碗の半分ぐらいをたいらげた辺りで、俺が運んでやるレンゲに唇が開かれなくなった。
「んだよ?もう食わねぇの?」
覗き込んだ瞳にほんの僅か、申し訳なさそうな色を湛えて、けど、それもすぐにまた、長い
睫に隠されてしまう。
唇の辺りをそっとタオルで拭ってやって、また、そいつの身体をベッドの中に横たえて。
そうしてまた、汗を拭いて、アルカリイオン飲料のストローを唇に挟んでやったりしつつ。
夏の暑い夜が更けて行くのを、そんな風にして俺は過ごして行く。
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