|
吾郎を驚かせて、そして、喜ばせてやろうと。
吾郎の気に入りそうなワインを手を尽くして探し出し、ケーキは有名パティシェに何ヶ月も
前から予約を入れて吾郎の好みそうな大人の味の一点もののケーキを特注し、更にこの日の
ために腕によりを掛けて作った手料理の数々を、テーブルに並べ切れないほど用意もして。
今もこうして、自分の目の前に居てくれる事。
この世に存在してくれて居る事。
ただ、それだけの、けれど、そんな感謝を精一杯、伝えたくて。
7日を夜勤明け、8日は公休に当てて。
忙しい病院勤務の合間を縫うようにして、何ヶ月も前から周囲に根回しもして漸く、手に
入れた休日だった。
けれど、吾郎は7日の定時には当然のように帰宅する事はなく、それでも、辛抱強く待ち
続けた木村の限界を超えたのは午後の8時を少し回った頃。
> 今、どこ?
シンプルなメールの返信は、送信後20分を優に過ぎた頃。
> 会社。会議中だから
自分の送ったメールと負けず劣らずのシンプルなメールの文面には「メールや電話は控えて
くれ」と言下に含まれている事は容易に汲み取れても尚。
> 何時ぐれぇになりそう?
速攻で返した返信に
> 不明・・・・多分、今日中には帰れそうにない
先ほどより僅かに文字数の多い返信。
> 何時になってもいいから、待ってっから
ちょっと見、誤解を招きかねない文面を、けれど、時間を掛けて吟味し直している
猶予はないと咄嗟に判断して、そのまま送信していた。
> 木村くんは明日も仕事でしょ?先に休んでくれていい
明らかに訝ったニュアンスをありありと湛えた文面が返信されて来た事にも構わず。
> とにかく、待ってってから。つか、大丈夫なんか、会議?
自分からやり取りを長引かせている事に、さすがに多少の良心の呵責に苛まれつつ投げた
問いには
> 中居くんがメールに気付いて休憩、挟んでくれたから。けど、その分、また、遅くなったけど、
帰るのが
そんな風に返されて、木村は軽く唇を噛んだ。
> 身体、大丈夫か?
> 何?藪から棒に。大丈夫。そろそろ始めるから。ほんと、先に休んでくれていいから。
木村くんだって毎日、忙しいんでしょ?俺の事を待つ必要なんかない
ひんやりとした冷気を纏って、そう締め括られた吾郎とのメールのやり取りは、かなり一方的な
感は拭えないまま終えさせられた。
それから更に1時間弱後、漸く、帰宅したかと思った吾郎は中居を伴っていて。
「お邪魔します」
有無を言わせず押し入るようにして、自宅内に入り込んで来た中居を止める術さえないまま。
「ちょ?!吾郎!何、どうしたんだよ!中居が何で?!」
「あぁ、木村くん。ただいま。悪いけど、あんまり詳しく説明してるヒマはないんだけど」
足早にリビングを通り抜け、寝室に到達した吾郎に追い縋るように問いを投げた木村に対して、
そう口にしながら。
吾郎にしては珍しく、自分の前であるにも関わらず、更に言えば中居の視界にも入っている
であろう事もある上で、ネクタイを解き、上着はおろかシャツやスラックスまで脱ぎ捨てて。
断りもなく寝室のワードローブの扉を開け放した中居が、次々と取り出す下着やシャツ、
スーツ類をそれとなく吟味もしつつ、その中の一着を手に取って更に袖を通し。
「って、え?ちょ、おまっ・・・!」
それは明らかに自宅に帰宅後、寛ぐための着替えには到底、思えない服装に新たに身を包み
直して。
「これから最終の新幹線で大阪支社に飛ぶから」
「・・・・は?」
脳が全てを否定しているかのように、その言葉の意味を受け入れられずに。
「って、ちょ、おまっ!今日、何日か分かってる?!後何時間かしたら・・・・!」
「今日は7日。後何時間かしたら8日になっ・・・」
言い掛けて漸く、その日がある程度、自分にとって意味のある日である事には辿り着いた
らしい吾郎が、困ったように表情を曇らせたのはほんの僅か。
「・・・・もしかして、待ってる、とか言ったのは・・・・その事?」
酷く弱く、躊躇うようにそう口にして。
「中居くん、準備出来た?」
それでも、木村からの返事は待たず、そう問う声は既に、日本でも有数の巨大コングロマリットの
一翼である企業の代表取締役の顔を纏って。
「はい」
ほんの僅か数分の間に、その出張に必要な準備を携えた中居もまた、有能な秘書としての
顔を現し。
「・・・・・え、と・・・・・明日中には必ず帰って来れるように、何とか段取りするから」
木村からは顔を背けたまま。
「ごめん。行って来ます」
低く呟いて、帰って来た時と同じく中居を伴い、慌しく玄関に消えて行く後ろ姿を、ただ、
呆然と見送るしかなかった。
確かに約束の通り、8日の深夜12時になるほんの数十分前にどうにか玄関の扉を開けた
吾郎は、ぐったりとその全身に色濃い疲労を滲ませたまま。
「・・・・ごめ・ん・・遅、く・・なっ・て・・・」
今にも崩れそうに弱く声を洩らす吾郎の右腕を思わず掴み上げ、肩に担い。
「・・・・・お前、バカ・・・・・」
どうにかして、今日中に間に合わせようと。
そのために懸命に、必要以上に必死で戻って来たらしい吾郎に、別に誕生日なんか、こんなにも
苦労を強いてまで行わなくてはならない事ではなかったはずだと、過ぎた悔いが上る。
まだ20歳を迎える前の子供の頃・・・・・
病院のベッドに縛り付けられていた頃、あんなにも自分の誕生日やイベント日に拘った吾郎は、
もう既にどこにも居ないのだ、と。
遠の昔に分かりきっていた現実のはずなのに、と歯噛みする思いでもあって。
「何とか、今日中に帰って来られた、でしょ、ちゃんと約束通り。・・・・まさか、木村くんが
こんな風にお祝いの用意だとか、してくれてるなんて想像もしなかった、って言うか・・・・・
忘れてた、完全に今日の事。前以て知らせてくれれば、こっちでもそのつもりをしたのに・・・・・」
聞きようによっては高飛車な傲慢にも感じられないでもないそんな物言いが、けれど、吾郎の
悔いをその語調が如実に物語っていて。
言葉には乗せない謝罪の気持ちが木村には痛いほど感じられて、もう既に、十二分に立派な
成人男性に成長した、けれど、完全にこちらに体重を預けるようにしてうな垂れているつむじを
目にして、思わず、よしよしとその髪に手を触れたくなる衝動を暫し堪えて。
けれど、自分は吾郎がそういう性質である事を理解出来ているから、今のセリフも可愛いと
感じられるけれど、吾郎の性質を余り良く理解しない人間達と、吾郎はどんな風にして
コミュニケーションを取り、複雑な駆け引きを行っているんだろうか、と。
ちゃんと誤解されずに取引を成立させる事が出来ているんだろうか、と。
ふと、そんな心配に苛まれそうになる。
吾郎は吾郎で。
そんな言い訳を口に上らせながら、ふと、幼くて、てんで子供だった自分の我が儘を思い
出していた。
両親ともいつも多忙を極めていた人達で。
自分はその事をどうしても理解出来ずに居た。
病気がちの自分を両親が振り向いてくれないのは、そんな自分が疎ましいからだ、と。
愛されていないからだ、と。
本心で心の底からそう信じ込んでいた。
実際に両親の愛情の在り処がいかほどだったのか、自分はまだ人の親になってもいないから
それを想像する事は不可能なのだとしても。
でも、今なら、多忙を極めていた当時の両親が、自分の誕生日にメールを送ってくれる
気遣いをしてくれしていたその事までも否定してしまっていた自分の幼さを、今更、悔いる
思いで。
実際に自分がその父と良く似た立場に立った時、やはり、自分の誕生日などは忙殺されて
しまっていて。
恐らく、木村がこんな風にして祝ってくれる、と準備してくれていなかったのだとしたら、
ずっと忘れたままだったのかも知れない、と。
「・・・・・・ごめ、ん・・・・」
木村に向けて、と。
そして、当時、両親に対して、そんな風に抱いてしまっていた思いに対しても、を含めて。
弱くそう声にした謝罪に。
「悪ぃ。こっちこそ。いつまでもお前の事、子供の頃の、そういう事に拘ってたお前のまま
みてぇな気がしてて」
木村もまた、バツの悪そうな苦笑を浮かべ。
「木村くんの中で俺はいつまでもあの頃の癇癪持ちの俺のままなの?」
眼差しにやんわりと不機嫌を漂わせ、それでも、口元を綺麗に綻ばせる笑みを投げ掛けられて、
思わず木村の背中に冷たいものが伝うのを知覚する。
「あ、いや、だから・・・悪ぃっつってんだろ」
幾らか口調を低く返すと、吾郎の方も若干の苦笑を灯し。
「折角、これだけの事を用意してくれたんだから、無駄にしたら勿体無いね」
そうして見事なまでにセッティングされたテーブルにつき、その中央に設えられたワインを
ヒタと見詰めた吾郎は、そっと、大切な宝物を扱うような丁重な仕草でそのボトルを手に取り。
「ピカソのエチケット・・・・・シャトー・ムートン・ロートシルトの1973年もの、だよね」
「お、さすがに分かる?」
「一部ではピカソのエチケットだけに値打ちがある、とか言う失礼な評も聞こえないでもないけど、
この年のワインでムートンの格付けが上がったって言う記念すべきワインでもあるらしいし」
「飲んだ事あんの?」
「まさか。お目に掛かるのも初めてだよ。凄いな・・・・今、自分がそれを手にしている
なんて、ちょっと信じられない気持ちって言うか・・・・木村くんがこれを用意してくれたの?」
「・・・・・・ん?あぁ、まぁな」
夢見るような。
こんな素直な眼差しをする事もあるんだ、と。
そのワインに向けたうっとりとした眼差しをそっくりそのまま、こちらに向けて、半ば
放心状態のような体でそんな問いを投げ掛けられて、返す答えが若干遅れた。
「・・・・・たかが誕生日に・・・・勿体無い事して・・・・」
再び、テーブルの上に静かにそれを戻した吾郎が、しっとりと伏せた長い睫が、僅かに小刻みな
震えを帯びて。
「んだよ、勿体無くなんかねぇだろ!早速、開けてみようぜ」
「え?!あ、そんな!2人で開けるなんて勿体無さ過ぎるでしょう?!」
早速、コルクを覆ったビニルをはがしに掛かろうとした木村の手を慌てて、留め。
「な、中居くんとか、慎吾とか剛とか・・・」
「あいつらにこれの価値が分かんの?」
「え?あ、いや・・・それは・・・・」
「価値の分かんねぇヤツでも居ねぇよりはマシ?」
「あ、いや・・・それは・・・・・・」
それはそれで勿体無い、と感じてしまうのもまた、致し方ない事で。
「あの・・・・それじゃあさ・・・・あのね・・・・」
いつもの高圧的な態度が珍しく成りを潜め。
そっと窺うように若干、低めの角度からこちらの目の中を懸命に見詰めて来る眼差しに、
まるで、恋人からそうされているかのような、一種、不思議な錯覚を感じかけて、木村は
す、とその眼差しから視線を逸らし。
「・・・・・両親と・・・」
低く唇の中に呟くように、吾郎が震わせた弱い空気の振動に木村は反射的に声を上げていた。
「は?」
「・・・・・あ、もちろん、木村くんも一緒に」
慌てたようにそう付け足す吾郎に、木村は正面から視線を合わせた。
「医者を辞めてこちらの職についた時点で、ある程度は両親に対してのわだかまりだとか
そういうものは感じないように、思わないように、自分でも心掛けてたつもりだった。けど、
それでも、まだ、心のどこかでずっと拘ってた部分はあって・・・・・ただ、木村くんが
言ってくれたから。まだ、俺が患者だった頃、親には何も期待するな、って。親に何かを
求めて、それが叶えられる事がなくて傷つくのは、もう止めろ、って。だから、多分、無意識の
うちにそう意識して・・・・親を親として意識するのは止めて、仕事上の師だとか、上司
だとか、そういう関係性の相手だと認識するようにして、ずっと過ごして来たんだけど・・・・」
懸命に言葉を紡ぐその綺麗な形の唇の動きを、木村はただ、一心に見詰めていた。
「でも・・・・この歳になってやっと・・・・少し分かって来た事もあって・・・・・・
両親は両親であれでも、やっぱり、あの頃、俺を見捨てた訳じゃなかったんじゃないか、とか」
「・・・・・・・・・・」
「忙しくて自分の誕生日さえ忘れそうな毎日の中で、それでも、ほとんど顔を合わす事もない
俺の誕生日を覚えてて、その日に合わせてメールを送ってくれた、とか、そういうの、今だったら
それはちゃんと、あの人達はあの人達なりに俺の事を思ってくれてたんじゃないか、とか」
一生懸命に言葉を紡ぐ吾郎の口元に視線を縫い止められたまま、木村は複雑な思いを
噛み締める。
吾郎があの当時の両親の事をそんな風に理解しようと務める事に対する、子の成長を
噛み締める親のような思いと、それが吾郎の希望的観測でしかないかも知れない不安と。
「・・・・・・・・かも、知んねぇな」
けれど、否定してしまう事は出来ないから。
曖昧に肯定を匂わす程度に言葉を添えて。
「でしょう?だから・・・・・あの・・・これ、両親と一緒に・・・あの人達だったら
このワインの値打ちもきっと分かるだろうし」
「・・・・・・・・お前がそう思うんなら、お前がそうしてぇっつーんだったら、俺は別に。
お前のために用意したもんなんだから、お前がそれをどんな風に愉しもうが、それはお前の
自由だから」
木村の言葉に吾郎は漸く、ほんの僅か、ほっとしたように表情を和らげて。
「・・・・・・ありがとう。こんなに色々と準備してくれるの、大変だったでしょ?木村くんも
忙しいのに、本当にありがとう」
こんな風に面と向かって素直に、感謝の意を伝えられ、若干の照れを感じないでもなかった
けれど。
そうして、もう既に日が変わった頃になってから、木村が用意した特別なワインとはまた
別の、新たなワインでお互いにゆっくりとグラスを重ね、木村が心を尽くして用意してくれた
それらを堪能して。
「今年もこうして誕生日が迎えられた事、もっと俺は真摯に受け止めて感謝しないといけない
んだよね。忙しさに紛れて、随分と色んなものを見落としてしまっていた気がする。本当は
こんな風に毎日を当たり前に過ごせる事が、決して当たり前じゃない事、俺は知ってたはず
なのに」
幾分、アルコールの効用が現れ始めたのか、元々、割合、饒舌な吾郎の唇がいつもにも増して
滑らかに解れる。
「ありがとう、本当に嬉しい。こんな風にお祝いしてくれてありがとう」
眼差しに柔らかな笑みを浮かべて。
子供の頃と変わらない、むしろ、あの尖った静謐さよりはむしろ、幾らかの柔和さを帯びた
今の方が可愛らしさを増した、とも感じられないでもない笑顔を向けられて。
木村の中にもやんわりとした温かさが灯る。
|