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「・・・・ったく・・・何でこんな無茶すんだよ?」
おとなしくベッドに横たわり、伏せた長い睫が、閉じられた唇が、吾郎が眠りの淵に落ちている
事を表わしている事を読み取って。
ベッドのすぐ脇に置いた椅子から、そっと手を伸ばし軽く指先で額に掛かる前髪をよけながら。
独り言めいて落とした言葉に、閉じられていた唇が小さく反応を示す。
「正月までに・・・・どうしても片付けておきたかったから・・・・仕事」
「・・・・・・・起きてたのか?」
何気なく伸ばしたつもりの自分の指が、ひょっとして何か特別な意味を持たなかっただろうか、と。
ほんの些細な時間、自分の中に湧いた疑念からは、敢えて、目を背けて。
「木村くんも・・・・大丈夫だよね、年始2日の夜」
「ん。こっちは大丈夫だけどな」
「・・・・・・良かった」
ほっと、見るからに安堵した吐息を零して。
誕生日に用意した年代物のワインを両親と一緒に愉しみたい、と言い出した吾郎が両親と
それを実現させるために取り付けたアポが正月2日の夜、実家で、と言うもので。
そのために・・・・・・
誕生日から年末までずっと。
普段にも増して忙しそうに過ごしていたのはそのせいだったのか、と。
「ま、2日まではこのまま、寝正月だな」
「・・・・・・つまらない言い方しないでよ」
やんわりと安堵を纏ったはずの唇が、途端にほんの僅か尖って。
相変わらず目は閉じられたまま、唇だけがその感情を物語る。
「お前がちゃんと摂生しねぇから悪ぃんだろ。年末働き過ぎた分、ゆっくりしてしっかり
体調を整えないとな。ま、その間、ちゃんと俺が責任持って面倒見てやるから」
木村の言葉に僅かに眉間の間隔を狭めた吾郎のそんな表情は、吾郎の不機嫌を表わしてもいて。
「・・・・・・初詣」
「んー?」
「行きたかったな」
「初詣?」
「うん」
「人混みの中はあんなに苦手で嫌いなくせして?」
「1年に1度ぐらいはね、謙虚な気持ちで神仏に手を合わせるのも悪くないかなって思ってさ」
「お前も変わったね。歳、取ったっつーか」
ほぅ・・・・っと。
少し深めな息を吐き出して。
吾郎がゆっくりとその長い睫を持ち上げて。
隠されていた黒曜石のような瞳が現れる。
「・・・・・・木村くんのその失礼な物言いはいつまで経っても変わらないね。成長しない
って言うか」
心持ち、顔を木村の方に傾け。
「お前のその憎まれ口もな。そんな態度とか物言いで取引先や社員達から誤解されたりしねぇの?」
「木村くんは俺のIQ、知らない?俺が自分に不利益になるような態度や言葉を相手に
対して表わしたりする事があると思う?その程度のコントロールや思考が働かない、とでも?」
「つか?!だってお前、いっつも俺に対しては大概な態度だったりすんじゃねぇか!」
「そりゃあ・・・・・」
薄っすらと、子供の頃に良くそうして見せた、少し相手を見下すような笑みが吾郎の表面を
彩る。
「んだよ?」
「つまり、俺にとって木村くんはそういう相手って言うか」
「そういうってどう言う?」
「・・・・・分からない?」
「んだよ?」
「分からないならいいよ」
「んだよ、ちゃんと俺に分かるように話せよ!勝手に1人で納得してんじゃねぇよ」
「いや、別に説明しなくちゃならないような事でもないから」
「気になんだろうが」
「気にしなくていいよ」
「お前の口からお前の言葉で言わせてぇんだよ!お前が言ってくれんのを聞きてぇの!」
不意に、幾分子供っぽく駄々をこねるように聞こえなくもない語調を木村が発し。
「え?」
「お前が俺に対してだけ見せるその態度や言葉遣いは、俺だからだって事。お前にとって
俺はそういう他とは違った特別な存在なんだって事、ちゃんとお前の口から」
「ちょ?!今の発言には大いに誤解を招きかねない表現が含まれてるでしょ!確かに俺に
とっての木村くんって言う存在は・・・・親に対してでも見せないような、多分、1番
自分にとって自然に振舞える数少ない稀有な存在ではあると思うよ。俺がこんな風にして
あからさまに素の自分を晒す相手って言うのは・・・・多分、この世の中で、現段階で
木村くん1人だろうとも思うよ」
夢中になって木村の言葉に対する説明を口にする吾郎に、木村が唇を楽しげに持ち上げる。
「それって、思いっきり俺が他の誰にも替える事の出来ない唯一無二な特別な存在だって
言ってるようにしか聞こえねぇんだけど?」
「・・・・・ちが・・・っ!」
「違ぇの?」
慌てて木村の言を否定しようとして、それでも言葉を詰まらせた吾郎を、木村は益々、
楽しそうな顔で見詰めたまま。
まんまと、木村にしてやられたのかも知れない、と。
吾郎が唇を噛んで、上目遣いに木村を睨みつける。
「・・・・・・・・そんな事を良く真顔で・・・・自分で言ってて恥ずかしくないの?」
吾郎ははっきり当惑した様子を隠そうともせず。
「・・・・・って言うか・・・・分かってるんだったら、わざわざ聞き返さなくても良かった
じゃない」
抗議を含んだ心持ちきつめな眼差しに反して、薄く朱の上る頬のコントラストが微笑ましく
感じられて。
「だから、俺、もう医者、辞める事にしたから」
「・・・・・・・は?」
いきなりの木村の爆弾発言に、吾郎ははっきり遺憾を表わした。
「話の繋がりがまるで理解出来ないんだけど?だからって何?何がどうなったら、木村くんが
医者を辞めるって話になんの?」
「お前が・・・・医者になって俺の前に戻って来て・・・・その目的を果たして後継者業に
励む決断した時に、俺も本当は一緒に医者を辞めるつもりで居た。けど、そん時、お前が
俺に医者を辞めないで居て欲しい、みてぇな事、言ったから俺は医者を続けて来た。けど、
俺の中ではお前が元気になった時点で、病院を退院した時点で既に医者であり続ける必要
なんかどっこにもなくて」
「・・・・・・・・・・」
「けど、今回の事で思い知った。お前1人がぶっ倒れるまで仕事しなくちゃなんねぇような
会社の運営の仕方には大いに問題があんだろ?中居だけじゃ及ばねぇ部分を俺が受け持つ」
「ちょ?何?何、訳の分かんない事言ってんの?中居くんの及ばない部分って」
木村の言葉にずっと眉を顰め、難しい顔で黙り込んでいた吾郎が慌てたように言葉を挟んで
来る。
「秘書として出来る事が限られて来るんだとすれば、俺は別の立場からお前をサポートしてぇんだよ」
「いや、気持ちは有難いけど、現実はそんな簡単な事じゃないから。中居くんと別の立場って
具体的に何を考えているのかは知らないけど」
「お前が抱え込んでる仕事の半分ぐれぇは俺が引き受けてやる」
「簡単に言わないでよ。うちに就職とかする気?もし、この年齢から仮にそれが可能だったと
しても俺の仕事の半分を請け負えるほどの立場になるまでに一体、どれだけの時間や実績が
必要か・・・・・!
君が医者として優秀なのは認めるよ。それだけの優秀さを持ってる人間なんだって事も。
けど、俺の仕事はそれとはまるで畑違いもいいとこだよ。そんなに簡単に行く訳がない。
悪い事は言わないから、今更、そんなバカげた事を考えるのは止めてよ」
「俺が医者になっるっつった時、俺を知ってる全部のヤツが口を揃えてそう言った。ぜってぇに
無理だからバカげた事言うのは止めろ、諦めろって。けど、現実に俺はこうして医者になった」
「いや、それは若かったから出来た事って言うか・・・・・!」
「むしろあの頃よりも経験も知識も人脈も増えてる。それが不利になる事なんかねぇだろ」
「でもっ・・・・!」
「ほんとはお前に黙ったままそうしようかとも思ったけどな。けど、その事でもし、万が一
お前の体調に良くねぇ影響とか与える事になんのはヤだったからな」
「・・・・・・・気持ちを変える気はない、って事?」
「ない」
「・・・・・・そう」
大きく息を吐いた吾郎が諦めたように、そっと瞼を伏せた。
「冗談抜きで心臓が変な風に脈打って、背筋が凍えて嫌な汗が流れてる、今」
言葉ほどは、けれど、その不調を語調や声音が伝えて来る事はなくて。
「ほんとに・・・・・木村くんの思考回路ってどうなってるんだろうね?きっと、俺なんかには
一生解明出来ない謎に包まれてるんだろうな・・・・・」
ほっと弱く洩らされる吾郎の呟きは、極僅かな笑みを含んでいるように聞こえなくもなくて。
「俺が今の取締役に就く丁度その頃、統廃合された会社の中に中居くんが居る事を知ってね、
中居くんを秘書にって父に頼んだ時、当然、中居くんはそれまで秘書なんて仕事をした事も
なかったから。実は俺が1から全部、自分にとってこうあって欲しいと思う秘書にってね。
そうなってもらったんだよ?」
「・・・・・・あぁ」
「だから・・・・木村くんがそう言ってくれるんだったら、木村くんにもこうあって欲しい
と思う戦力になってもらえるように、俺がさせてもらう事になると思うけど異存はない?」
「・・・・・・受けて立ってやろうじゃねぇか」
木村の中に静かな闘志が湧き上がる。
「頼りにしてるね?俺、こう見えても結構、スパルタだったりするけど?」
「望む所だ」
「頼もしいね」
にっこりと。
眼差しを真っ直ぐに捉えたまま向けられた笑みは、いつもにも増して輝いて見えて。
いつだったか、吾郎の退院後についてささやかに中居と諍いした時の記憶が木村の脳裏に
蘇って来る。
そうして、方法など幾らでもあるのだ、と。
どんな形であったとしてもその関係性を一生涯に近いスパンで継続させて行く事も決して、
不可能ではないのだ、と。
「ちょっと・・・少しだけ窓、開けて見てくれない?」
少し瞼を伏せた吾郎が、何か思いだしたように、ふと、そんな声を掛けて来て。
「ん?エアコンの温度、下げるか?暑い?」
「聞こえるかも知れないと思って」
「ん?」
「除夜の鐘」
「あぁ・・・・」
そうして言われるまま細く、その窓を開き。
間もなく耳を澄ませた静寂の中に、微かにその音が流れ込んで来る。
「あ・・・聞こえるね?」
目を合わせたまま笑い掛けられ、それに頷きを返して。
「1回、病室でこんな風に慎吾と除夜の鐘を聞いた事があって・・・・・あの頃の自分に
少しだけ教えてやりたい気分・・・・お前にはちゃんとこんな素敵な未来が待ってるんだ
って事」
ほんのりと唇に描かれた弧が美しくて。
漆黒の輝きを灯す瞳が僅かに夢見るように揺らぐ様を捉えたまま。
今、この空間、この瞬間、この空気や温度や音や・・・・
そう言った全てのものを共有出来ている事の悦びを静かに胸の中で噛み締める。
今、ここに自分が居る事。
そして、吾郎が居てくれる事。
ただ、それだけの事がこんなにも大切で有難いと思えるこの瞬間に感謝を込めて。
未来へ続く新しい年が、また、明けようとしていた。
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