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木村の掌の中で温められた金属面が、前を肌蹴た胸に当てられ。
僅かに睫を伏せ気味に、心持ち硬い表情のまま、じっと心音に耳を澄ます、そんな様に
お目に掛かるのも本当に久し振りだ、と感じながら。
ふ・・・、と。
普段よりも少しだけ深い息を吐いて。
何箇所かに移動した金属面は、やがて、木村の腹の辺りにぶら下がり、そのまま、木村の
手でパジャマの前のボタンと閉じられて行く動きに任せたまま。
もう一度、少し重く息を吐く。
「ガキん頃みてぇな発作って訳じゃなさそうだけどな。所謂、過労ってやつ?」
確かめるように、噛み締めるように零れた木村の言葉に、うん、と頷いて見せた。
会社から中居に送られて自宅に戻る帰路に着いた車中で、何となく嫌な感覚をこめかみの
少し後ろ、耳の上辺りに感じ始めていた。
すー、っと。
体温がどこかへ奪われて行くような心許ない感覚。
発作とは別の、けれど、それは確かに身体が発している何らかの危険信号なんだろう、とは
理解出来た。
じっと目を閉じて。
その妙な感覚を懸命にやり過ごす。
「でぇじょぶか?」
職場で向けられる秘書としての言葉遣いとはまるで別の、親しみと言うか心おきない昔からの
仲間としての言葉を向けられ、弱く笑みを作った途端、その表情が曇るのを見て取って、
どうやら、自分の状態が単なる自覚症状だけではない事を知らされる。
車を降りる際、エントランスを入りエレベーターを待つ間も、隣から差し伸べられそうに
なる手を空気で拒んで。
「・・・・平気・・・大丈夫だから・・・」
言葉を吐いた事で一層、その大丈夫じゃない加減を中居に伝えてしまっていたのだとしても。
「今年1年、お疲れ様でした。この年末年始休暇には、どうぞごゆっくりご静養なさって
下さい」
玄関のドアの前で秘書の顔に戻った中居に
「うん。君も今年1年お疲れ様。色々とフォローしてくれてありがとう。来年もまた、
宜しく頼むね」
可能な限り普通の表情を取り繕って。
「あんま、無理すんな」
ぽん、と遠慮がちに肩に触れて来る手に、ゆっくりと頷きを返す。
「それじゃ・・・・・」
「お疲れ様でした」
きちっと綺麗な形に下げられた頭に、ほっと気分が和らぐのを感じて。
綺麗なお辞儀って言うのは、やはり、いいよね・・・・・
何気なくそんな事を思い描いて、ほんのりと浮かんだ笑みに頭を上げた中居もまた、それでも
硬さの抜けない笑みを灯して。
「マジで。ちゃんとゆっくりすんだぞ。ぜってぇ無理すんじゃねぇぞ」
ちょっとくどいほどに言い添えられる言葉に、軽く片手を上げて見せて。
ドアを開けると同時に、そこにあった顔にほっと気が緩んだ事までは記憶があった。
ゆっくりとフェードアウトして行く視界の中に、驚愕に歪むその人の表情を捉え、ふと
哀しい気持ちに囚われながら。
今もあの頃と変わらない力強い腕に支えられ浮かぶ安堵と、仄かに鼻先を掠めるいつもその
人が纏う微かな消毒薬の匂いと、触れ合った箇所から伝わる温度に、ただ、意識を手放して
しまっていた。
「大体、お前がついてて何でこんな状態になるまで気ぃつかねぇの?!」
「気ぃついてねぇわきゃねぇだろうがっ!」
「そんじゃ、何か?!気ぃついてて、それでも放っといたって事か?!吾郎が普通のヤツより
体調管理や何だに気ぃ遣わなきゃなんない身体だって知ってて、知らん顔してたって事かよ?!」
「んなわきゃねぇだろうがっ!俺は俺の出来る最大限、吾郎にも注意を促して、何回も
ストップだって掛けて!!」
「その挙句が今のこの状態ってか?!」
「俺の出来る事には限界があんだよっ!判断して最終的に決断すんのは吾郎自身なんだよ!
俺ぁしがねぇ1秘書でしかねぇんだからよ!」
それなりの広さの寝室の、奥まった位置にあるベッドのさすがに病人の頭元は避け、ほとんど
入り口付近と思しき辺りから。
恐らく、それでも、声を殺して。
こちらを気遣った上で交わされている口論なんだろうと言う事は理解出来た。
それでも、怒気を孕んだ声音は押し殺されたそれであったとしても、周囲の波長を妙な具合に
刺激するように、その空気の震えをこちらに伝えて。
まだ、力の入らない身体をそれでも懸命に起こし、壁を伝うようにその諍いの繰り広げられて
いるであろう場所に顔を覗かせる。
「・・・・・中、居くん・・・の、せい・・じゃない、から・・・・」
吐き出した声が自分でも切なくなるほど頼りなくて、こんな声を出す事で余計に木村の
心配は昂じて、一層、中居に向けられる感情が険しくなる事も想像がついて。
失敗したかも知れない、とも自覚しながら。
「中、居くん、は・・・ほんと・・・いつも、ちゃんと・・・フォローして、くれて、る・・・」
息が上がり、呼吸が微妙に苦しくなり、視界が狭まって来る感覚と闘いながら。
「も、いい。喋んなくていいから!」
険しい表情のまま近づいて来た木村に、まだ子供の頃にそうされたように、今もまた、抱え
上げられそうになり。
慌てて、その腕を掴んで微かな抵抗を試みる。
幾ら何でも、中居の眼前でそうされる事は憚られた。
上司としての面子と言うほどの事はないのだとしても。
吾郎の僅かな抵抗を知って、抱え上げようとしていた腕は背中に回され、肩を支えられて。
「とにかく、ベッドに戻れ。悪かった、お前にこんな話・・・聞かせるつもりなかった」
悔しげに唇を噛み締める木村の横顔をチラ、と視界の隅で捉えて。
「遅くまで失礼しました。私はこれで失礼させて頂きます」
頭を下げて来る中居に、小さく頷きも返して。
「気をつけて。君も・・ゆっくりする、ように・・・」
弱く添えた言葉に中居の表情もまた、木村に少し似た苦味を灯した。
そうして、再び身体を横たえたベッドの上で、木村の診察を受けて。
「大体、オーバーワーク過ぎんだよ。夜もなく昼もなく仕事して。普通の健康な人間だって
あんな真似してりゃあ、ぶっ倒れるっつーの」
聴診器を仕舞いながら、顔を背けて投げ掛けられる木村の声に、僅かな不満や言い訳が顔を
覗かせないでもないけれど。
「誕生日もクリスマスも・・・日曜も祝日も・・・大晦日の今日にまで・・・・お前、ずっと
働き詰めじゃねぇか」
自分もそれと変わらない程度にハードワークなくせして、平気でそんなセリフを投げ掛けて
来る木村に、ちょっとむっと唇を尖らせもして。
「誕生日は・・・ちゃんと当日の24時までには自宅に帰ったし・・・・・クリスマスは・・・・
だって・・・・仕事なんだから仕方ないじゃない」
「取引先のパーティーで飲んだくれて来んのが、・・・・仕事、な訳?」
「飲んだくれてなんかないでしょ。乾杯の時に少しシャンパンを飲んだだけだよ。顔繋ぎも
社交辞令もおべんちゃらも全部、全部、俺にとっては大切な仕事・・・!社員を慰労する
ための催しも、取引先とのイベントや接待に付き合うのも・・・・・」
背中に冷たいものが伝って行く感覚をやり過ごしながら、ゆっくりめに深く細い息を意識的に
吸い込みながら、心掛けて呼吸を整えるように神経を遣って、言葉を紡ぐ。
吾郎とそんなやり取りを行いながら、木村の脳裏に今年の、その吾郎の誕生日前当日の事が
昨日の事のように蘇る。
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