「お前が入院当時、俺が担当医をしてた頃、自分の記憶から抹消したがってた、つか・・・・
抹消しちまってた自殺未遂事件あっただろ・・・・・・・」
それを知った時の自分の中で起こった混沌とした感情の嵐は、ふと、脳裏をよぎり、今も
心臓を握り潰されるような喘ぎを感じる。
「・・・・・・・・・・・そん時の当事者なんだよ、俺が」
酷く空気の薄い高山に登山でもしているかのような、息苦しさを感じ、必死に空気を
取り込もうと深く、息を吸い込んで。
断罪される思いで、その告白を、それでも、その言葉をどうにか口に上らせた。
「そっか・・・・・・」
真っ直ぐにぶつかり合っていた瞳が、一瞬、揺れて。
洩らされた言葉に、吾郎の唇端が極小さく動いたのを感じた。
けれど、吾郎からそれ以上の反応は窺えない。
「・・・・・・って、お前、俺がこんな一大告白してんのに、テンション、ひっくいなー・・・・
もっと、こう・・・・驚く、とか、そういうリアクション、あんじゃねぇの?」
余りにもクールな、そんな事にはもう今更、何の関心もない、と言わんばかりの吾郎の反応に、
木村は安堵で胸を撫で下ろすと言うより、ずっと苛まれて来た自分の苦悩が、酷くおざなりに
扱われたような錯覚に、言うべきではないと知りながら、思わずそんなセリフを口走って
しまっていて。
「何となくねー、何度かそうじゃないか、って思った事はあった」
吾郎は吾郎で、ずっと隠し続けた秘め事を、漸く明かす時のような、一種、晴れやかに
見えなくもない様子で、それを告げて。
「けど、確信はなかったし、木村くんがあの時のお兄ちゃんだって言う・・・・」
「・・・・あぁ、まぁ・・・・・・」
「そうは思いたくなかった部分もあったし、実は。気付くのが怖かったから、その頃は。
だから、ずっと気付かない振りして・・・・その事に俺が気付いてるって木村くんが
気付いたら、もう俺の傍には居てくれなくなるんじゃないか、って気がしてたから」
「俺もずっと怖かった。そん時の事をお前が記憶から抹消したくなるぐれぇ嫌な記憶として
お前ん中にあんだとしたら、お前がその事を知って、俺に下す判決がどうなるか、想像する
だけで恐ろしかった」
「・・・・・そっか・・・木村くん側からすれば、そうだったのかな・・・・」
その頃の事を回想するかのように、吾郎は僅かに視線を空に泳がせ。
そう、あの当時は、その告白がお互いの距離や関係性を余りに直接的に左右するに等しい
重大事だったにも関わらず、今となってはすっかり、その事も過去の事になってしまって
いる、と言う認識に、時の流れを感じずにはいられない。
「俺はあん時にお前に救われた」
「・・・・・・・死に掛けた、のに?」
そう言葉に出した吾郎は、さすがに苦しげに眉根を顰め、息を継ぐように小さな吐息を零して。
「確かに一遍は死に掛けた。けど、だから、それまで全然、気付こうともしなかった色んな
事に気付く事が出来た。お前は苦しんでた俺を救おうと、自分が救われるために、自分の
望みの全てを託して来たものを俺に与えてくれて、そして、俺はお前のそうした働きかけの
お陰で救われた。生きる意味だとか、家族の思いだとかっつーの?それを初めて知る事が
出来たっつーか?」
木村の熱の篭もった言葉から、その頃の薄ぼんやりとした情景が、吾郎の中にも浮かび
上がって来る。
「お前に感謝してんだ、俺」
まだ少年と青年の狭間にいた頃の木村の面差しと同時に、自分の身体を包み込んだ体温を
思い出す。
自分の記憶がちゃんと整い始めてから、あんな風にして誰かの体温を間近に感じる、と言う
経験は恐らく、初めてで。
とても驚いて。
けれど、抗う気持ちは起こらなかった。
ほとんど見ず知らずと言っていい相手からそうされた、けれど、その温もりが、ずっと
温かみを知らずに過ごして来た自分の、心の中の冷たい部分にほんの少し温度を与えて
くれた気がして。
けれど、それと同時に紡がれたその人の言葉は、自分の心の奥底にいつも仕舞い込もうと
足掻き続ける部分を、深く抉り込むように。
自分にはない何もかもを手にしている、と言うより、今回の事で手に入れた事を何より
感謝してくれているらしい、その事が酷く疎ましかった。
生きる意味も、殊に家族の思いについては・・・・自分がどんなに望んでも手に入れる事の
出来ない遥かな願望。
友達になりたい、と言われ、嬉しかったのは本当の気持ちで。
毎日、その人が病室に顔を覗かせてくれる事が楽しみだった事もまた、本当だった。
心の中に隠した途方もない羨望とは別に。
・・・・・・・・・けれど、ある日を境に、その姿は自分の病室を訪れる事がなくなり。
理由を知らされる事もないまま。
誰かにその理由を尋ねる事も出来なかった。
結局、お前はまた、捨てられたんだ、と現実を突きつけられる事の怖さに、色んな想像を
巡らせ、勝手にその満たされない寂しさを埋めて、その人が来なくなってしまった事から
眼を背け続けた。
「俺、医者になろうかと思って。医者になりてぇんだよな」
大嫌いな、空を幸せ色に染める花びらが完全に落ちて、枝に蒼い息吹が吹き始めた頃、
唐突に退院を告げに来たその人が、確かにそんな宣言をして去って行った事も、また、
吾郎の脳裏に蘇って来る。
・・・・・・・あの時の・・・・・
本当に医者になって・・・・・?
「俺はお前に恩返しがしたかった。何が何でもお前を元気にしてやりたかった。そのため
だけに、絶対に120%以上、無理っつー周り中の反対ん中で医者になった」
「・・・・・・・・・・・・」
「余程、優秀でもない限り、自分の希望する病院に勤務出来る可能性もなかったし、お前を
助けられなきゃ医者になった意味もねぇから、それこそ、死に物狂い、命がけってあの事
言うんだっつーぐれぇ?必死で勉強してトップ目指して、どうにか希望してこの病院に
勤務になった」
気の遠くなるような話だと感じた。
木村は吾郎が医者になった理由を「そんな事」と言ってのけたけれど、木村のやっている
事も大概なんじゃないか、とも思う。
道理で・・・・・
だから、最初からあんなにも必死になって・・・・・
そのために、その目的のために医者になった、と断言するこの人の真っ直ぐな真剣さは
そのまま、この人の瞳の中に輝く光そのものだった。
「幾ら勉強しても・・・・答えに辿り着けないはずだよね、最初から大切な推論の1つを
落としてしまったいたんだとしたら」
吾郎が小さく苦笑する。
「そうして・・・・件の木村くんの『こんな物発言』のお陰で・・・・あれが結局、俺を発奮
させてくれたんだよね」
思い出したように、木村の目を真っ直ぐに射抜く吾郎の視線は、けれど、微妙な笑みを
含んで綻び。
「だよね・・っつわれて・・・俺は何て応えればいいんだよ?」
吾郎の中でその事も既に何か解決済みの出来事のように捉えられている事を喜んでいいのか、
木村は複雑な思いに囚われる。
「凄いショックで悔しくて・・・・・けど、その時、絶対に木村くんを見返してやるって
思ったし、同時に俺の存在が木村くんの人生を狂わせてるのかも知れない、とも感じた。
そんな自分の存在が許せない気がして、いつまでも俺が病気のままいるからいけないんだ、
って」
「・・・・・吾郎」
「だから、木村くんととにかく一切、関係のない人間になりたかった、し・・・・2度と
こんな風にして係わり合いになる事もない、と思ってたのに」
「・・・・・・・・」
「まんまと東山さんに嵌められちゃった、かな・・・・・」
どこか遠くを見るように空間に視線を泳がせて、諦めるようにそう口にした吾郎は、けれど
色んなものから解放されたように、穏やかな顔つきをしている。
「今から思えば何て短絡的で浅慮だったんだろう、って言うか・・・・・あの頃の自分は
本当にそこにあった木村くんの、俺を心配し過ぎたせいで発せられた言葉だったんだって
事には、全然、気付く事すら出来ずに居たから」
当時を回想するように、気まずげに、少し悔しげにそう口にする吾郎はいつになく酷く
素直な様相を見せて。
「・・・・・悪かったな・・・・今更だけどよ、折角、お前が生まれて感じた初めてそういう
気持ちをちゃんと理解して受け止めてやる事が出来なくて」
「けど、東山さんも言ったけどさ、結局、その事が今の俺に繋がってるんだよね。同じ分野で
絶対に木村くんよりも優秀なドクターになってみせるって。何でかその時の俺はそんな事を
考えて。そして、医師になるための勉強を進めるうち、って言うより、ずっと昔から・・・・・
木村くんが俺の担当医になった時からずっと思ってた疑問も解決したくて・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「誰かある特定の1人を救うためだけに医者になって、念願叶ってその相手の担当医に
なれたんだとしたら・・・・・やっぱり、普通の医師が患者に向ける熱心さとは異なった
真剣さとか熱意を持つのも、当然の成り行きだったんだ、って・・・・・・・スタートから
して違うんだから、絶対に俺には当時の木村くんの情熱が理解出来ない事も理解出来た、し」
「・・・・・・・ま、だな」
「まぁでも、その目的のお陰で、多分、元気になれたんだ、俺。だから、結局、木村くんの
お陰なんだよね、俺が今、こうして元気で居られるのって」
そんな風に理解して、納得もして、吾郎は少し深く息をつき。
「あの頃、散々、聞かされ続けてた気の持ちよう?元気になりたいって意志?結局、余りにも
それが如実でねー、それはそれで悔しかった部分はあったけどね」
「・・・・・そうかよ」
意外に楽しげな声音と口調で小首を傾げた吾郎に、これまであんなに色々とわだかまっていた
色んな感情がすーっと解れて行く感覚に、知らぬ間に強いられていたらしい緊張からも解かれ。
唇から零れた声は自分でも恥ずかしいほど気のないものだった。
「有難う、木村くん。結局も何もかも君のお陰だから」
漆黒の瞳の奥に確たる感謝の意が湛えられて。
真摯に向けられる眼差しが余りに純粋で美しくて。
「違ぇよ・・・・俺の方こそ、お前のお陰っつーの?お前が退院して初めて分かった。
お前って存在があったから、俺はここまで来れたんだって事」
ほんの僅か。
眩し過ぎて感じられるその視線から目を逸らすようにして、木村もまた、その思いを唇に
乗せた。
「じゃあ、お互い様、って事?」
途端ににっこりと。
長い間蕾だった花が、満を持して花開くように。
艶やかに鮮やかに浮かべられた笑みは、無垢で、稀有で。
「ん・・・・・・・・」
ただ、頷く事しか出来ない自分が歯痒い気さえして。
「ふふ。そっか。俺が存在してる事の意味も・・・・少しぐらいはあったって事だね、木村くんの
人生において」
「少しどこじゃねぇよ。お前に命もらった瞬間から、俺はお前のために生きて来たんだ」
真顔でそんなセリフを伝えられて、吾郎は思わず、まじまじとその顔を真正面から見詰めて
しまった。
「・・・・・え、と、さ・・・・・」
喘ぐように言葉を紡ぎかけ、けれど、どう続けていいのか吾郎にも分からない。
暫くの間、2人の視線が交錯し。
「言葉の使い方って言うの?もう少し気をつけた方がいいと思う。思いっきり誤解を
招きかねない表現だよ、今、木村くんが口にしたセリフ」
「そか?」
けれど、肝心の木村はまるでその事を意に介していないかのような、気楽な様子で、酷く
晴れやかに笑っても見せて。
そんな笑顔を向けられると、少々の語彙のミスはどうでもいいか、と言う気になって来さえ
するようで。
「それに。俺だけの人生だけじゃなくて・・・・今やお前の存在は医療界の宝、だろ?」
更にそう付け加えた木村に、吾郎は苦笑を浮かべた。
「止めてよ、そういうのは。俺、本気で全然、医者、続ける気はないからねー、残念ながら」
「・・・・・それってやっぱ、マジなのか?勿体なさ過ぎねぇ?っつか、周りが黙ってねぇ
だろうよ」
木村にはその周囲の雑音もまた、余りにも容易に想像がつき、つい、吾郎より熱を込めて
そんなセリフを言い募ってしまっていた。
「さっき・・・・・この会話のほんとの始めの方で木村くんが、俺が子供の頃に持ってた
夢を捨てた、みたいな事、言ったけど」
「・・・・・んー?」
少し前の記憶をリプレイするようにして、木村は脳の回路を働かせ。
「捨ててなんかないから。ちょっと先延ばしにしただけ。今もそれは思ってる。ちゃんと
跡を継いで、相応な立場に、両親にも少しぐらいは俺って息子が居たって程度ぐらいには
認識されたいかな、とかね?」
「って・・・お前」
「あ、もう余計な心配はしないでね?昔の俺とは違うから。親って生き物に過剰な期待は
しないし、今後はいいビジネスパートナーになれればいい、って程度に割り切ってる」
「・・・・・吾郎」
木村に向かって言い掛けるそのセリフを、自分にも言い聞かせるようなニュアンスも幾分かは
漂わせつつも。
想像したより、全然、明るい語調でそう言い切る吾郎に、木村は胸が詰まった。
「木村くんは木村くんで頑張って。俺は俺で頑張るから」
晴れやかな様子でそう続けられて、木村は少し考え込むように。
「・・・・・いや、まぁ・・・・俺も正直なとこ言やぁ、医者、続けてる意味、なくなっ
ちまってんだけど?」
そんな結論を口にして見る。
そもそも、吾郎1人を助けたくて医者になり、そのまま、何となく辞める決断も出来ずに。
そんな風に医者を続ける事で、吾郎と繋がっていた頃の自分を、ただ、自分の中に繋ぎ留めて
おきたかったに過ぎなくて。
「今から何か他の仕事に転職する気?」
ぎょっとしたように、吾郎はやや冷めた眼差しを遠慮なく木村に突き刺して来る。
「ダメか?」
「木村くんの人生なんだから木村くんが決めればいい事だけど」
木村から窺うようにして目の中を覗き込まれ、ふいっとその視線を逸らし、吾郎は突き放す
ようにそう口にして。
「だけど?」
それでも、その語尾に僅かに漂わせたニュアンスを木村に嗅ぎ取られ。
若干の照れを押し隠すように、ぶっきらぼうに吾郎はまた、言葉を続けた。
「勿体無いよ。医者って高給なのに。それにさ今から他に転職してペーペーでさ、人に頭
下げて使われる、なんてさ、何か木村くんには似合わない気がするけど」
「うーん・・・・・」
「木村くんの白衣姿、案外、俺、好きだけどね」
考え込むように腕を組んだ木村の顔を覗き込み、吾郎は敢えて、悪戯っぽく目を細める。
「は?!」
「別に変な意味じゃなくて」
「変な意味だったら怖ぇよ」
まるで、以前のような。
病室に居た頃の自分と木村を彷彿とさせるような下らない会話のやり取りに、けれど、
吾郎は日本に戻って、初めて感じる心浮き立つような嬉しさを感じていて。
「俺は木村くんに医者を続けて欲しい」
それは吾郎の紛う事のない本音だった。
木村が医者として自分の前に現れる事がなければ、こんな自分の人生は決して、考えられ
なかった、と。
それは確信として吾郎の中にあって。
これからもまだ、そうして木村の手を必要とする人達は幾らも居るはずだ、と感じる。
「そっか。そんじゃ、そうすっかな」
あっさり、そんな吾郎の言に素直に頷いた木村に、今度は逆に吾郎がうろたえる。
「何、それ?!そこに木村くんの意思はないのっ?!」
「俺の意思?あるぜー。吾郎がそうして欲しいっつったから、その希望を叶えてぇ」
完全に絶句した吾郎を面白げに見遣って。
「別に変な意味じゃねぇぞ?」
木村がシニカルに唇の端を持ち上げる。
「変な意味だったら怖いよ」
それに応えるように、吾郎は冷たい眼差しをきっぱりと正面から木村に突き刺した。
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