「おー、悪ぃ、吾郎!今日、夜勤なんだよ、ここ、泊めてくれ!」
「あー、悪ぃ、吾郎!夜勤明けでうちまで車、運転してく自信がねぇんだ。ちょい、仮眠、
取らして!」
「ちょー、悪ぃ、吾郎!」
「ちょっと、木村くん!幾らうちが君の勤務する病院から歩いて5分、車に乗ったら、
駐車場まで車を回したり、取りに行ったりする方がむしろ時間が掛かるんじゃないかって
ほどの位置にあるんだとしてもね!そう頻繁に利用されたんじゃ、はっきり言って迷惑って
言うの?!」
こちらの、元々、自分が入院していた、現在、木村が相変わらず勤務を続けている大学病院
への赴任が決まった際、恩師でもある東山が整えてくれた居住空間は、余りにも通勤の便宜を
配慮をされ過ぎた場所でもあって。
確かにあの病院にあのまま勤務し続けるのであったとしたら、こんなに立地条件に恵まれた
環境は他にないだろうと思えるほどの。
しかも新築。
そこまで万全の準備を整えて、自分を迎えてくれた事には素直に感謝していたし、その
職場を離れ、後継者業に専念し始めている今もその居住は有難く使わせてもらってもいる。
思えば、東山の度を越したお節介のお陰で、漸く、自分は色んなものから解き放たれ、
両親との約束の5年を待たずして、それでも、後任問題や引継ぎ等に1年ほどは費やした
ものの、そんな短期間での退職を可能にしてくれたのも、また、東山の尽力なくして
あり得ない。
結局、1年余で職を離れた吾郎の後任には、元々の医局での責任者クラスの助教授が
収まり、皆の納得も得て。
吾郎を慕い始めていた若手医師達はその退職を大層、残念がる声も相当、挙げられたりも
したが、こう、と決めた吾郎の意志を覆すものは何物もなく。
「あの・・・!あのっ!せめて、一度だけ!送別会には出席して頂けませんか?!」
掴みかからんばかりの勢いで、必死、と言う言葉をそのまま表わしたような生田の態度に
吾郎は幾らかは温かみを帯びた笑みを返して。
「ぜひ」
ただ一言だけ頷いたその言葉に「やったっ!!」と大袈裟にガッツポーズで飛び上がる
生田の頭を、木村がぐっと押さえつけたりする光景もあったりもして。
「稲垣先生!本当に本当にどうしてもお辞めになってしまわれるんですか?!」
こんな事は本当に珍しい、普段はその職務柄、そこまで酩酊する事は当然、意識して
控えているはずの生田が、赤く染まった顔で呂律も危うい語調のまま、懸命に吾郎に
そんな問いを投げて。
「元々、僕は父の跡を継いで実業家の道を進みたいと志していましたし、両親とも最初の
自己紹介の時に申し添えさせて頂いたかと思いますが、自分の体調管理に万全を期す意味
からも、期間を切って医師としての勉強をする事を許可しても貰いました。一応、自分の
目指していた勉強は出来たと感じたので、当初の予定よりは少し早いですが、今回のこうした
結論に至りました。その事で皆さんにはご迷惑等お掛けしてしまい、申し訳なく思って
います」
生田に答えている風を装いつつ、さりげなく医局員全員に対する謝罪を述べて。
「だって!だって、勿体無さ過ぎるじゃないですかっ!こんな優秀なドクターが全く別の
道に進まれるなんて。もう2度と稲垣先生の白衣姿を見る事も出来なくなるって事じゃ
ないですかっ!」
うるうると。
それがアルコールの効用だけなのか分かりかねるほど目を潤ませ、吾郎に幾ら訴えても
暖簾に腕押しだと諦めたのか、今度の標的はどうやら木村に移ったようで。
「ねぇ、木村先生っ!木村先生もそうお思いになられるでしょう?!稲垣先生の白衣姿が
もう金輪際見られないなんて残念過ぎますよねっ!」
今にも掴みかからんばかりの勢いで力説されて、木村は薄い苦笑を口元に刻んだ。
「俺、俺!稲垣先生の白衣姿、患者さんに接する態度、大好きだったのにっ!!」
アルコールの効用を得ずして、決して口に出来ないようなセリフを口走り始めた生田を
宥めすかすように、ドンドンと幾らか強めに背中を叩きつつ。
・・・・・・こいつ、この事、明日になって覚えてんのかねー?
ふと、そんな思考に意地悪い楽しみを感じてしまいながらも、木村も内心では自分も
本当はそう思っている気持ちを、つい、確認してしまったりもして。
それでも、自分は知っているから。
吾郎がどれほど真っ直ぐに、それを望んでいたか、を。
だから、どんなに勿体無くても、残念でも、自分がそれを口にする訳には行かない、と。
吾郎にとっての目的は既に果たされた、となれば、後は一日も早く、吾郎が望んだ両親との
和解とまでは行かないまでも、吾郎自身が口にしたビジネスパートナーとしてであったと
しても、両親と関わって行ける事を自分も望むべきであって。
「もっと、もっと、勉強させて頂きたかった。ご教授頂きたかったですっ!!」
仕舞いには泣き出してしまうのではないか、と思えるほどに。
ほんのりと。
さすがにそんな生田の態度に吾郎も幾らかは、困った微笑を浮かべつつも。
「そんな風にして仰って下さる生田先生のお言葉、とても有難く感じさせて頂きます」
あくまで言葉遣いは余所行きではあったけれど。
きちんと眼を見交わして、返された吾郎の言葉に生田はうっ、と込み上げるものを堪えて
顔を伏せた。
「稲垣先生でしたら、きっと・・・どんな分野でもご活躍される事は・・・僕も信じてます。
どうか、お体に気をつけて・・・・素晴らしい実業家としての名声を築かれる事をお祈りします」
極、弱く震える声を隠すように。
一生懸命に伝えられる生田の言葉に、吾郎も静かに深く頷いて見せて。
「ありがとうございます」
就任した時の険悪な空気は嘘のような、穏やかな雰囲気の中で送別会も終えて。
今はかつて自分が望んだ道へ、確実に一歩を踏み出す事も出来ていた。
そんな日常生活の中に、もう、医者と患者としての関係も、上司と部下と言う関係も
なくなってしまっているはずの木村が、今もこんな風にちょくちょくと自分と係わり合いの
ある存在のまま。
そんな恵まれた立地条件を、まさか、かつての自分の恩人に利用される事になるなんて
夢にも想像した事もなかった。
何だかんだと理由をこじつけては。
始めは月に1度程度だった利用頻度が半年後には週1程度になり、最近においては・・・・
「おぅ、吾郎、お前、もう晩飯食った?俺、まだなんだけど、良かったら何か作ってやろうか?」
「結構です」
「遠慮すんなよぉ。どうせお前、料理なんか出来ねぇだろ?いつも出来合いのコンビニ弁当
だとか、外食だとかだと栄養、偏っちまうだろ?」
「ご心配なく。大抵は接待で高級フレンチだとか会席だとか頂いてますから」
「まぁ、そう言わずに。何?けど、今日はうちに居んだろ?今。だったら、1人でメシ
食ったって美味くねぇじゃん」
「いえ、1人の方リラックスして食べられるんで」
「そう言うな、って。あ、じゃあ、まぁ、お前は1人で食うとしてぇ、俺、1人で食うの
つまんねぇからお前んちで食っていい?」
「1人の食事が嫌なら医局の先生方を誘えばいいでしょう?」
「・・・・・・あ、や・・まぁ、そりゃ、そう、かも知んねぇけど・・・・」
大抵はそうした下らない用事で連絡を寄越しては、こちらの取り付く島もない対応に、
やがて寂しげな心許ない声音をこちらに聞かせて。
木村のそうした声を聞いてしまうと、それが仮に駆け引きや木村の作戦かも知れない、と
知りつつ無碍に出来ない自分が居て。
「分かりました。いいですよ、どうぞ。ですが、僕も仕事がありますから。余り長居なさらないで
下さいね」
つい、言わなくても良さそうな一言は、それでも、付け足さずにはおれずに。
「OKOK!!て言うか、お前、うちに帰ってまで仕事とかしてたりだとかする訳?」
「ええ。残業すると電気代だとか空調費だとか、バカになりませんからね。コスト削減は
まず経費節減からです」
「・・・・・へぇ」
曖昧に言葉を濁して、木村は気を取り直したように「それじゃ、お邪魔させて頂きますんで」
とか、ちょっと悪戯っけを含んだ物言いで断りを入れて来たりなどかもして。
「ねぇ、木村くん」
「ん?」
「僕の気のせいでなければ・・・・何か最近、毎日のようにこの家で木村くんの顔を見ている
気がするのは、僕の気のせい、なのかな?」
今日も目の前で美味しそうにハムエッグを頬張りながら食パンを齧る木村に、少し小首を
傾げ吾郎はそんな問いを投げる。
しかも、ここは自分の完全なパーソナルスペースであるはずにも関わらず、どういう訳か
そこここで木村の私物を目にするのは、どうした事か。
気がつけば自分のクローゼットには木村の私服が何着かは掛けられていて、しかも、引き出しには
なぜか下着まで収まっている。
洗面台の歯ブラシなどは当たり前で、食器棚には木村専用の食器や箸やマグカップまでが
常備されてあったりなどもして。
「・・・・・・・・・・・・・」
確かに。
木村が着替えてそのまま置いていってしまったものを仕方なく洗濯して、必要なものには
アイロンまで掛けたりなどもして。
そうしていつでも持って帰ってもらえるように紙袋に入れておいたりもするのに、気がつけば
また、別の衣服が持ち込まれて来るものだから、つい。
片付かないままなのが気になって。
仕方なくそれをクローゼットに仕舞ってしまうのが自分なんだとしても。
「え、と・・・・何だ、その・・・・ここ、病院にすっげ近くてぇ・・・・」
僅かに視線を空に泳がせ。
たじろいだ風に言葉を乱す木村の態度に。
それでも、どうしてだろう、自分はふと、口元に浮かぶ笑みを自覚していたりもするのだ。
「こう・・・・疲れて?1人っきりの冷え切った暗い空間に帰って・・・1人で風呂沸かして、
メシ作って・・・・こう・・・話相手もなしに1人でぼぉっとな・・・・ただ、寝るため
だけにうち、帰って、だとか?そう言うの何かすっげ虚しくて寂しくねぇ?」
「木村くん?だからね、そう言う事を感じた時に人はさ、結婚とか・・・・結婚まで行かない
にしても、相応の相手を見つけて、一緒に住めばいいんじゃないのかな、と、僕は甚く
常識的にそう判断したりもするんだけどね」
「・・・・・・今更、オンナなんか面倒くせぇじゃん」
「木村くん、今の発言をもし、本気で口にしてるんだとしたら、大いに問題発言だとは
思うけど。大体さ、適齢期を逃すからダメなんじゃない!医者で、しかも凄い優秀でさ、
ルックスだって超がつくぐらいいいのに、そうやってぐずぐずといつまでも仕事一辺倒
だったりするから、この年になって、今更、オンナなんか面倒くさいだとか言うセリフをね、
吐かなきゃならない羽目になるって言うの?!」
いきなり語気を強めた吾郎に、木村は益々、所在なさげにうろうろと視線を揺らして。
「まぁ、そう言うな、って・・・・・・・」
「あっ!そうか!分かった!俺がそう言う相手を見つければいいんだ!」
ふと、突然。
それまで、若干、余所余所しく「僕」と口にしていた呼称が「俺」に変わり。
物凄く良い事を思いついたと言わんばかりに吾郎がウキウキと語尾を弾ませる。
「なーんだ、そうじゃん。俺、一応、後継者だったりもする訳だし?だとすれば、当然、
そのまた跡継ぎも必要とされるって言うか?」
「・・・・・・わーった。お前が俺の事をどんぐれぇメーワクに思ってっか、今のお前の
発言でよぉっく分からせてもらったから」
不意に木村が酷く低い不機嫌そうな声音でそう呟き。
「・・・・・え?」
咄嗟の事にそのセリフを完全には聞き取れなかった吾郎が声を上げる。
「悪かったな。何だかんだと理由こじつけて、ほんとは元気そうに忙しそうにしてるお前を、
ただ、見てたかっただけ、っつーの?そんな風にしてお前が元気に毎日を過ごして忙しそうに
後継者業に飛び回る姿を見られる日が来るなんて、そう願いながら、そんな日が来る事なんか、
まるで想像も出来ずにいたんでな。ただ、毎日、そうしてるお前の顔を見てたかっただけ
だから」
向けられた木村のセリフに、はっと心の中によぎるものを感じたけれど。
「ま、けど。そんな風に言われちゃ?お前にとっちゃ、益々、気色悪ぃっつーの?そうゆう
感じ、してんじゃねぇの?ただ、顔を見たかっただけ、だとかな。けど、俺にお前の気持ちが
理解出来ねぇのとおんなじで。お前にも、けど、そう言う俺の気持ちとか理解なんか出来
ねぇんだろうし」
心底、木村が腹を立てて・・・・
傷ついてしまっている事を感じて。
自分は別にそんな風に木村を傷つけるつもりなんかなかった、と。
今更、言葉にしてみた所でどうなるものでもない、と思えて。
「悪かったな、マジで。口では何だかんだ言いながら?結構、邪険にされなかったせいで、
俺・・・・・お前がそこまでメーワクに感じてるとか言う事、まるで分かんなくて、ほんと・・・・
もう、来ねぇから安心しろ。お前の元気な姿、見届けてぇのは俺の勝手なエゴな訳だし。
お前はそうやって、既にアメリカ(むこう)でも1人、元気で頑張って来たんだもんな」
・・・・・・・ごめん
胸の中に突き上げて来る言葉を、それでも音にして唇に滲ませる、ただ、それだけの事が
こんなにも難しく苦しい事だなどと思った事もなかった。
「ま、これからも元気で頑張れよ。お前の活躍、また、新聞とか経済情報誌とかで、いつでも
こっちには知る手立てもあんだしな。陰ながらいつも祈ってる。お前の健康と活躍と」
来た時と同じ身軽なスタイルで。
玄関のドアに手を掛けた木村がこちらを振り返り。
思い直してくれたのか、と一瞬、期待した思いは、続いた木村のセリフに粉々に打ち砕かれた。
「あ、面倒掛けて悪ぃけど・・・・俺のもん、全部。ゴミの日に纏めて捨てといてくれ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
一言も発せられないまま。
喉の奥で。
胸の底で。
言葉が固まってしまったように。
ただ、出て行く木村を見送る事しか出来なかった。
木村が出て行ってしまった後の、自分のものだけであるはずのパーソナルスペースはけれど、
酷く余所余所しい冷たい顔を纏って、今の自分の他愛ない暴言を責め立てるようでもあって。
明日までに纏めておきたかった会議での案件は、パソコンの中でただの一文字も手がつけられ
ないまま。
別にそんなにどうしようもなく迷惑に感じていた、などと言う事はなかったのに。
むしろ・・・・・・
むしろ、そこにそうして居てくれて。
その自分以外の人が居てくれる温度や空気に温かさを感じても居たはずなのに。
けれど、それが余りにも当たり前になりそうで。
そうして、自分はやっぱり、ふと、疑ってしまったのだ。
いつか、こうした日が壊れる日が来る時、自分は・・・・・・
どうして、そんな・・・・・
描いても仕方のない不安を。
自分はどうして胸の中に描いてしまうんだろう。
どうして、ただ、今、ここにある事を、ただ、喜んで受け止めて愉しむ事が出来ないんだろう。
見もしない哀しいいつか、を想像してしまうのだろう・・・・・
ベッドに入っても一向に寝付かれず。
けれど、極力、可能な限り・・・いや、無理矢理にでも体力の保持に努めなければ、自分は
いつ、また、体調に異変を来たして・・・・・・
漸く、浅い眠りに落ち掛けた、と感じた頃、ふと。
胸元に昔、良く感じた、嫌な兆候を覚え。
いつでも自分で処置出来るように、と。
枕元のサイドボードには酸素マスクや安定剤等は仕舞ってあって。
酸素ボンベにマスクのチューブを繋ごうとしている自分の指先が震えて翳む。
そ、んな・・・・
こん、な・・・・いき、な、り・・・・
子供の頃でさえ、こんないきなり襲って来る発作に見舞われた記憶がなかった。
向こうで過ごした5年間、もちろん、自分として精一杯の体調管理に加え、恐らくは
それとなく、いつも心を砕いてくれて来た東山のサポートのお陰もあっただろう、こんな
風に発作に見舞われる事など一度もなく過ごして。
医局を退き、後継者業に専念し始めたここ暫く、普通の人と同じような感覚で生活して
来てしまっていて。
体力的に少し不安を感じない事が皆無ではなかったのだとしても。
意識的に小さく身体を縮み込ませ、懸命に深く息を吸い込みながら、まるでその空気が
肺まで届いて行かない感覚を、余りにも痛切に突きつけられる。
・・・・・・う、そ・・・く、る・・・し・・・・
完全に両方の肺胞の全てを塞がれるような、急速な呼吸困難は、これまで経験して来た事の
ないほど激しいものに感じられて。
それが久々に起こしてしまった発作のせいでそう感じるのか、或いは、本当にその頃よりも
激しい発作なのか・・・・・
自分の身体なのに、自分の身体だから、か、冷静な判断が出来ない。
・・・・・・・た、すけ・・・・
一瞬、脳裏に浮かべ掛けた、余りにも身勝手な要求に唇をきつく噛み締めた。
自分が傷つけて追い返した相手に、今更、何を求めようとするのだろう。
そんな自分に吐き気がするほどの強い憤りを感じて。
その憤りに応えるように、本当に胃の中のものが逆流して来る痛い熱を感じる。
・・・・・・・ご、めん・・・・・・
本当に伝えたかったその言葉だけをもう一度、胸の中に反芻して。
それを伝えられなかった事だけが心残りでならなかった。
吐き出した息が自分の鼻や唇に触れる、自分でも知っているその感覚に重い瞼を極、僅か
だけ持ち上げて見る。
薄く滲んだ、極細く限られた視界では、けれど、何も認識する事も不可能で。
もう一度、閉じ掛けた視界を、けれど、一瞬、ゆっくりとよぎった影に。
・・・・・・・・・・・・・・
ただ、息をついた。
どうして、と言う疑問は浮かばない。
だって、木村はいつも・・・・・
そうして・・・・・そこに居てくれたから。
「・・・・・ったく、なぁにが自分で処置出来る、だよ、ったく・・・・・俺の心臓を、
お前、本気で止める気?」
独りごちて呟かれる静かな声音に涙が溢れる。
その零れた痕を辿るように、そっと、やや遠慮がちに添えられた指先が滴を拭ってくれて。
「気ぃついた、か?」
囁かれる声音が酷く温かい。
「・・・・・・・」
ごめん、と。
そう言葉にしたいのに、胸の中に何かが詰まっていて声が出せない。
「医者の不摂生って言葉、知ってる?つか、お前はもう医者じゃねぇけどな」
まだ、瞼は持ち上げられないまま、聴覚だけで届けられる言葉を受け止めて。
「俺の読みが当たった、っつーの?っつーか・・・当たって欲しくなんかなかったけどよ」
「・・・・・」
「東山教授にお前の向こうでの生活スタイルだとか・・・その後の経過、とか言うとお前、
また、気ぃ悪くすんだろうけどよ、とにかく、そう言うの?教えてもらったりだとかして。
その頃よりもハードワーク?お前にとって、だけどよ、な風の生活態度が気にはなってた。
だから、お節介承知で・・・お前に煙たがられんのも承知で・・・しょっちゅうここに
出入りしては、それとなく様子を窺ってた、っつーと、また、お前、怒んだろうけど。
けど、何かオンナ見つけてでも俺の事、遠ざけてぇ風の事まで言われて?つい、ムッと
なっちまった、っつーの?ま、そう言う大人げねぇとこ?俺も変わってねぇっつーか。
けどよぉ、俺のモン、ゴミに捨てといてっつった時のお前の顔が、珍しく正直にずっげぇ
寂しそうっつーか辛そうに見えて。ま、さすがに言い過ぎた、とかお前も思ってんのかな、
とかな思って」
「・・・・・・」
「戻って見て正解だったな。我ながら、ほんとマジで間一髪?ほんとはマジでちょい、距離
置いた方がいいのか、って一瞬は迷いもしたんだけどな」
「・・・・・・ありがと」
口に出したはずの言葉は酸素マスクの中に篭もって、全く音として伝わった感じはなくて。
マスクを外して、もう一度、言い直そうと、マスクに伸ばした手を木村に抑えられ。
反対の手で更に髪をくしゃりと一度だけ混ぜられ。
昔、良くそうされた仕草を払い除けた記憶がふと蘇る。
酷く子供扱いされたようで、本来の自分であれば悔しい憤りを感じそうなシーンに、けれど
不思議とそう言う感情は突き上げても来ずに。
そんな風にして自分に伸ばされる手が、頼れるものとして認識出来て、内心で安堵して
嬉しい、と感じている、なんて事は絶対に、その相手には知られたくない、とも思いながら。
けれど、どうやら、自分の表情がその事を如実に相手に伝えてしまってもいるようで。
こちらに向けられたその眼差しが酷く柔らかく、温かく緩められるのを目にして。
すうっと柔らかな温かみに全身を包まれて、あんなに息苦しかったのが嘘のように、穏やかな
気分を噛み締める。
「っつー事で。まだまだ、自己管理が自分で上手くコントロール出来ねぇお前には、専任の
主治医が必要だよな」
柔らかで穏やかだった眼差しに、ふと、悪戯めいた光が宿り。
「幸い、このバカ広いマンションには空いてる部屋が幾つかあんし?」
「・・・・・・・?」
「家政婦、兼、主治医って事で・・・・24時間フル体制でお前をサポートすっから」
堂々とそんな宣言をして来る木村に。
酸素マスクをずらし。
「仕事辞めて、ヒモにでもなるつもり?」
疲れた、呆れた眼差しを遠慮なく突き刺さす。
「え?あ、いや・・・・ヒモって」
「だって、そう言う意味でしょう?仕事辞めて主夫業しながら、24時間、ここに居座る
って言う・・・・・・」
吾郎の確認の言葉に木村は首を捻り。
「説明に過ちがあった事は謝るけど。いや、幾ら何でも仕事辞めてお前に養ってもらうっつー
そこまでのつもりなんかサラサラねぇけど」
「そうなの?今の木村くんの口振りだと完全にそう言う風にしか理解出来なかったけどね。
第一、仕事を続けるんであれば、24時間フル体制でのサポートって言うのは不可能だよ。
もし、何かあったら、いつかみたいに、今度は仕事放ったらかして駆けつけて来るつもり?
そうして、また僕が怒鳴られるんだ?自分の体調管理もまともに出来ないのか、とか?」
「・・・・だから、そん時ん事は申し訳なく思ってるし、謝っただろうが。お前、もしかして、
まだ、思いっきり根に持ってる、とか言う?」
「根に持ってるとか言うんじゃないけど・・・・・ちゃんと、ほんのちょっぴりだけど、
さっきその件に関しては一矢報いる事も出来たしね。木村くんが僕のあんな一言に、あんなに
動揺するなんてね」
そうして、それを思い出すように、幾分楽しげに表情を和らげた吾郎に。
「仕事は続ける、もち。お前に養ってもらうつもりなんかサラサラねぇし。ただ、うん、
心意気として?そんぐれぇの覚悟で、今後はそうして行きてぇっつー意思表示?」
「・・・・・こっちの意志はお構いなし?」
「異論あんの?」
真っ直ぐに眼差しを向けられ。
どうだろう・・・・と、自分の心に問い掛けてみる。
ほんの僅か瞼を伏せ。
問い掛ける声に返って来る自分の答えは、本当は分かりきってもいたけれど。
でも、すぐにそれを示す事は、何故だかほんの少し悔しい気もして。
黙ったまま、薄くやんわりと唇を綻ばせ。
木村と巡り会い、その存在がここに居てくれる事。
そうして、あんなにもずっと、長い間。
自分が存在している事すら信じられずにもがいていた自分が。
それでも、今もここに居る事。
ただ、その事だけを噛み締めていた。
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