エントランスをくぐり、エレベーターホールの前で。
「何階ですか?」
「・・・・最上階・・1106号室」
本当に仕方なさそうに告げられるそんな声音にも「はい」と事務的に返事を返し。
目的の階に着き、エレベーターを降りた時点で吾郎が示した方へ歩を進め、目的の部屋に
到達する。
吾郎が内ポケットから取り出したカードキーを手渡され、それを認証ボックスに滑らせ
微かな電子音と同時にロックが解除される音を聞いて。
ゆっくりと内開きのドアを開き、吾郎を伴い中へ足を踏み入れる。
「真っ直ぐ進んで・・・・・リビングの右手奥のドアから1番奥の部屋・・・・」
相変わらず木村の肩に腕を預けたまま、俯いた状態で低く紡がれる説明が、寝室に続く
それだと気付くまでに幾らかの時間を要して。
リビングに到着し、その右手奥のドアを開け、続く廊下を進み、吾郎が示したドアを開けて
漸く、そこが寝室だった事を知る。
壁際にあるであろうスイッチを探り、明るい昼光色の光が瞬き、眩しそうに眉を顰めた吾郎を
それでも、取り敢えずベッドに腰を下ろさせ。
すかさずベッドサイドに並んだリモコンのうちの一つを取り、照明に向けて何段階か明度を
落とし。
ぼんやりとした薄明かりの中で、吾郎は漸く、少し弱く息を吐いた。
腰掛けた状態のままの吾郎の上着を抜き取り、緩めた状態のまま首元に掛かっていたネクタイも
解いて。
「このまま横になられますか?着替えとか・・・・」
言い掛けた木村に「・・・水」一言低く言い渡して来た単語に「はい」と木村は素直に
その場を離れた。
先ほど通り過ぎて来たリビングにもう一度戻り、一瞬の躊躇いの後、冷蔵庫を開けて中から
ミネラルウォーターを取り出し。
グラスや食器が整然と仕舞われたボードから適当なものを一つ取り出し、氷と水を注いで。
木村が外した間に着替えをするつもりなんだろう、と考えて、少しの間、その場所に留まり、
何気なくその中を見回してみる。
まるでモデルルームのような生活感の感じられない整然とした空間は、ほんの僅か木村に
肌寒いものを感じさせて。
毎日、こんな・・・
他人の顔をしたような家に1人戻り激務の間の、ほんの束の間の僅かな休息を取るのだろうか、と。
他人の顔をしたような、と感じるのは、自分がこの場所を初めて訪れたせいだろうか、とも
考えを巡らせても見ながら。
窓際に活けられた花はそれでも、瑞々しい輝きを放って、吾郎が手間を惜しまずそれに
丹精している様子も見て取れて。
吾郎がこの場所、この空間に安らぎを求めている事もまた、知る事が出来た気がした。
もういい頃だろうか、と、寝室に戻った木村はそこに自分が出て行った時の姿勢のまま、
ただじっと待っていたらしい吾郎に、寸時、驚き。
「・・・・あ・・・遅くなってすいません」
ただ待っていただけなのだとしたら、水一杯汲みに行くのに何時間掛かっているんだ、と
叱責されて当然の時間を費やした事は自覚もあって。
そう声を掛けた木村に吾郎はゆっくりと視線だけを動かして、ぼんやりとその視界の中に
木村を捉えた。
「・・・・・・うん」
弱く頷いて、けれど、肝心の水を受け取ろうと伸ばされる手の動きは見られない。
「吾郎?!大丈夫か、お前?!」
手にしていたグラスをサイドボードに叩き置くようにして、木村はすかさずその眼前に
しゃがみ込み手早く脈を読んだ後、吾郎をベッドに横たわらせる。
「・・・・・心配し過ぎ・・・・何でもない、ただちょっとぼーっとしてただけだから」
薄い苦笑を上らせて吾郎はけれど、大人しくベッドに横になっていた。
「・・・・・もう昔とは違うから。俺自身でも自分の体調に対して、相応の対処ぐらいは
出来る」
苦笑が冷笑に変わり。
突き放すように言い渡されたセリフに木村は寸時、言葉を詰まらせた。
「・・・・・ですね。申し訳ありません」
「でも・・・・仕方ないよね、木村くんが知ってる俺は、幾らか健康になり掛けてたとは
言っても、まだ、その大半が元気になる前の発作ばかり起こしてた俺なんだろうから」
そう続けられて自分の中でいつまでも、その印象を修正出来ないで居る自分を責められて
いるようで。
「もう受け持ち患者でもない俺に対して、どうして今もまだそんな風に・・・・心配するの
かな?俺がこんな・・・・・・こんな態度なのにも関わらず」
じっと天井を映した姿勢のまま、零れた言葉は、昔、ベッドで洩らされた不満や苦悩や
泣き言を髣髴とさせて、ほんの僅かな懐かしさが、それでも、痛みとなって木村の胸を
締め付けた。
「・・・・・・すみません」
「じゃなくて・・・・・・」
木村に向けられた眼差しの中に困ったような色合いが浮かぶ。
「ずっと・・・・・・ずっと知りたいと思ってた」
吐き出される吐息にも似た静かな声音に、木村は「え?」と小さく首を傾げた。
「医者になれば理解出来るかと思って、医者になって・・・・必死に勉強してるうちに
気がついたらこういう立場になっちゃったりなんかもしたけど・・・・・」
「・・・・・・・」
「けど、今でもまだ、良く分からない」
「・・・・・あの・・・稲垣・・先生・・・?何を・・・・」
低く紡がれる吾郎の言葉の真意がまるで見つけられずに。
木村が遠慮がちに口を挟む。
「そんな風に必死な思いで患者と対峙する木村くんの気持ち」
「・・・・・・もしかして、それを知るために、わざわざ医者に?」
木村は木村で、医局でいつも話題に上る吾郎に関する疑問の中で、1番、最初に気に掛かり、
そうして、今もずっと心の片隅にくすぶっていた問題の答えの片鱗を掠めるような会話の
流れに、思わず、その部分を切り取ってしまっていた。
「うん」
意外なほどあっさりと、けれど、その眼差しに真剣な色を湛え首を縦に落とした吾郎に。
「そんな事のために?そんな事のために・・・あんなに一生懸命に願ってた夢を捨てて?」
「・・・・・そんな事」
木村が思わず口にしてしまった語彙をわざと拾い上げ、吾郎は低く呟いた。
「あ、いや・・・・すみません」
「別に。謝る事でもないでしょ?木村くんはきっとそう言うと思ってたしね、そんな事って」
「・・・・・・・・・」
「俺が生まれて初めて、人に対する感謝の気持ちを形にして伝えたいと思ったそれを、
こんな物って切り捨てた木村くんなら、必ずそう言うだろうって」
「・・・・・・・・・」
ぎり、と。
音がしそうなほどに唇を噛み締める。
心の奥底から滲み出した冷たい凍えた膿が全身をじわじわと蝕み、酷く寒いのに、恐ろしい
ほどに熱い、妙な感覚をまざまざと味わいながら。
「木村くん?」
俯いて。
視界の中に映り込んでいた濃いグレイの、毛足の長い絨毯の表面が色を失い、やがて、
濃く黒い赤みを帯びた色に変化して行くような錯覚を覚え始めた頃。
自分の過去の過失を責めるように口にしたその声音とは、まるで似ても似つかない、明るい
幾分、柔らかにも感じられなくもない語調で呼び掛けられて。
「木村くん?」
更にもう一度、声を掛けられた時には、その手が肩に置かれ、小さく動かされ。
「ちょ・・・そんな露骨に落ち込まないでよ。ごめん・・・・ちょっと、あの時、俺が
感じた悔しさって言うの?絶望って言うのかな?そういうの、ちょっとぐらいは仕返し
したいかなー、とは思ったけどさ」
そんな声音も珍しいと思わされる程度に明るめの、清々しさにも似た声に、木村も少しだけ
伏せていた頭を持ち上げた。
いつの間にか、吾郎はベッドで半身を起こしていて、うつ伏せた自分の顔を覗き込むように
して、極、近い位置からこちらを窺っていて。
まともにその視線とぶつかって、その距離の余りの近さに反射的に身体を後ろに逸らせ、
ず・・・と絨毯の上に置いた椅子の位置をいざらせていた。
「やっぱり」
そんな木村に、吾郎はにっこりと確信的な笑みを浮かべ。
「は?」
「向こうで勉強するうち、同性愛者の人だとかそういう性癖の人とも実際に知り合う機会も
あったけど、木村くんはやっぱり、そういう性癖の人じゃないよね?」
「・・・・・・・たりめぇだろ」
余りにも思い掛けない方向からの問い掛けに、がっくしと身体から力が抜けて、つい、
それまでの丁寧口調が砕けた。
「うん。でも、だから、余計に分からなくて」
その事を別段、咎める風もなく、吾郎は普通に会話を続け。
だから、木村も少し深く息を吸い込み、以前と同じ口調に言葉を乗せた。
「俺にはお前が分かんねぇよ。どうして、そんな事・・・って・・・あ・・・・」
「木村くんにとってはそんな事、でも、俺にとっては唯一、最大の関心事だった。そんな
風にして人に心配される事とか・・・大事に思われる事だとか・・・・人からちゃんとした
まともな関心を示された事、俺にとっては初めてだったから」
「・・・・・・・・・・・」
「怖くてさ」
「怖い?」
「理由が分からないから、どうしてそれを向けられてるのか分からないから、向けられなく
なってしまう時の事を想像して、けど、どんなに想像しても向けられなくなる理由も分からない
から不安で」
「俺、あの頃、何回もお前に直接、伝えたと思うけど」
「自分が木村くんの言うような人間なんだって、自分で信じられずに居たしね」
「今は?」
「今はもっと信じられない思いで一杯だよ、逆に。あんな風にして・・・東山さんも言った
けど、君に謝らなくちゃならないような仕打ちで俺は君の前から姿を消したのに、こうして
再会して、君はこんな俺に、やっぱり、昔と変わらない心配をしてくれる・・・・・」
その事が本当に分からない、と言いだけな、それはそうした吾郎の素直な心情を如実に
灯した眼差しでもあって。
それは5年ぶりに再会を果たし、恐らく、初めて自分に向けられる表情にも思えて。
「木村くんと同じ立場になれば、木村くんが患者に向けた気持ちが、せめて、少しぐらいは
理解出来るかと思って・・・・・」
もう一度、改めて、そう言葉を継がれ、やっぱり、どうしても、そんな事のために・・・・と
そうした思考に繋がった吾郎の回路が、そのために歪められてしまった吾郎の人生そのものが
木村にとっては悔しく、勿体無くも感じられて。
あのまま、素直に両親の元に戻っていれば、もしかしたら、今頃は、吾郎があの頃願った、
両親と共に笑顔になれていた日々が訪れていたかも知れない、と・・・・
それがどれほど希望的観測に過ぎないのだとしても、木村はそんな風に悔いを感じてしまう。
「・・・・・で?どうだった?」
そんな遠回りをして・・・・・・
そして、吾郎がその遠回りの末に、その答えに辿り着く事は決して、不可能な事を木村は
自分の事だから、余計に知っている。
「まだ、ほんのちょっと期間でしかないし、まるで理解出来ないって言うのが本音。医者
として、患者を大切に思う気持ちや、ちゃんと健康を取り戻して回復して欲しい、と願う
気持ち、そのために自分に何が出来るか、その最大限の可能性を模索する事に対する興味
って言うと言葉に語弊はあるけど、でも、それを探る事は楽しいと感じられる。患者から
向けられる素直な尊敬の眼差しと感謝の気持ちは心地いい」
「・・・・・ん」
「木村くんはけど、割と最初から俺の治療に対して熱心だった記憶があって・・・・それは
結局、木村くん自身が持ち合わせる資質の為せる技なのか、とも思ったけど、奇しくも君の
上司としてここに赴任して見て、あの頃、俺に向けてくれたような情熱的?にも感じられ
なくもない熱心さって言うのは、残念ながら感じられなくなっていて・・・・あれは、若気の
至り・・・じゃないか、え、と・・・・若さゆえの情熱だったのかなー、とか」
「・・・・・・・お前にはぜってぇ、一生分かんねぇよ・・・・」
色々と考察を深める吾郎に、木村は低く一言だけ呟く。
「え?」
「お前にはぜってぇ、一生分かんねぇ」
「何、それ?」
「医者としてお前を助けたかった訳じゃねぇから」
「意味が良く分からないよ」
「順番が逆なんだよ。お前を助けてぇから医者になった」
疑問を解決しようと、真っ直ぐに打ち込まれて来る吾郎の眼差しに、真正面から視線を
合わせる。
もう、きちんと解決をつけなければならない時期だと感じ、木村は腹を括った。
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