「3人の再会を祝して乾杯!」
静かなジャズの音色に彩られた落ち着いた雰囲気のバーは、同じくその落ち着いた空気を
愉しむ客の集う店のようで、何組かそこここに座している他の客達も、静かで穏やかな
宴を催しているようで。
東山の取った音頭が少し店内に響いたほどだった。
「とは言っても、僕と木村くんとは初対面のようなものだけど」
そう付け加えて浮かべられた笑みに軽い同調を示して。
2年前に教授として赴任以来、挨拶と教授回診のお供をさせて頂く程度にしか、実は交流も
なかった。
大学病院内でその絶大な権力を誇る教授に何とか取り入ろうと、その権力争いの渦中に
自ら飛び込んで行こうとする出世指向の医師達は、何かと東山の覚えがめでたい事もない
訳でもないだろうが、自分はそういった出世争いとはまるで、無縁の人間でもあって。
だから、尚の事、教授である東山とは縁が薄いと言って良かった。
「でしたら、何もそんな初対面の人間をわざわざ同席させる必要もなかったんじゃないですか?」
先ほどは医局内であったせいだろう、一旦は押し留めた言葉を、今度は遠慮なく口に上らせて
来る吾郎に、やはり、いかに教授命令とは言え、のこのことこんな席にまで着いて来るんじゃ
なかったと、早速、後悔が上る。
今更、教授に睨まれようがどうしようが、自分にとっては、自分が同席していると言うだけで、
吾郎にそんな面白くない思いをさせている、と言う事の方が、遥かなダメージであって。
「こら!」
まるで幼い子にするような、軽く指先で額を小突く東山の仕草と、それを当たり前に受け
入れて、僅かに首を後ろに反らせ、それでも薄く苦笑を纏って教授のされるままになって
いる、そんな東山と吾郎の互いに対する親しげな態度を目の当たりにさせられるのも、正直、
内心で酷く面白くない事もあって。
「あ・・・俺、やっぱ・・・色々と予定、立て込んでるんで・・・失礼させて頂きます」
中途半端に腰を浮かせ、低く頭を垂れた木村の腕を、東山はちょっと意外なほどの力で
掴んだ。
「今日は僕がセッティングした席だから。君を帰らせる訳には行かないな」
細い黒のフレームが遠慮がちな店内の照明に、キラ、と一瞬、光を反射させて。
そうして、今度は吾郎に向き直り。
「吾郎くんも。何もそんなに攻撃的な煙幕ばかり張るのは、いい加減にしなさい」
それまで向けていた柔和な眼差しを険しくして、そう言い渡し。
「まずは吾郎くんから、木村先生に言うべき事があるだろう?」
「・・・・・い、きなり・・何を」
明らかにうろたえて、その言葉の揺れと同じ、瞳の揺れを隠すように、一瞬、木村に向けられた
眼差しはすぐに逸らされ。
「5年前。あんな形で一方的に勝手に退院しちゃった事、ちゃんと木村先生にお詫びする
べきだよ、吾郎くんは」
「一方的に勝手に・・って・・ちゃんと・・・当時の担当医師から退院の許可を得て、正規の
手続きを踏んだ上での退院でしたけど?」
「木村くんと約束をしていたんじゃないの?木村くんが学会から帰国したら、君の誕生会を
するとか言う話になってたね?」
「・・・・・・あの・・・・」
教授と吾郎の話に割って入る事は憚られたが、それでも、先ほどから聞かされている範囲内で
余りにも当時の様子に詳しい教授に対して、遺憾を完全に拭えず。
「どうして、そういう・・・・あの・・・ご存知なんですか?」
本当は聞きたくない、と心のどこかで叫んでいる声もあった。
それを知ったからどうなると言うんだ、と言う疑問も。
「吾郎くんが退院後、向こうで相応の対応をしたのが僕だったから。君の事はそれまでも、
吾郎くんがまだ入院当時から、色々、散々、聞かされていた事でもあったしね」
微かな苦笑に隠した、自分に向けられる憧憬に似た眼差しを仄かに感じないでもなかった。
「・・・・・え?」
「東山さん!」
ぼんやりとした自分の声と、泡食ったように迸る吾郎の声が重なるのを聞く。
「だからっ!!俺、言いましたよね!下らない無駄話は・・・っ!」
「下らなくもないし、無駄話なんかじゃないよ。今日はその話をするためにわざわざこの席を
設けたんだから」
「そういうお話でしたら、俺、帰ります!」
今度は、乱暴に席を立った吾郎の腕をやんわりと押さえ。
「まぁまぁ、そう熱くなるなよ。まぁ、まずはぐっと一杯」
シャンパンを満たされたグラスを差し向けられて、吾郎はむっと露骨に唇を尖らせる。
むっつりと黙り込んだまま、宝石のような煌きを宿す液体を、惜しげもなく2度、3度と
おかわりを申し出ては、結構な勢いで流し込んで行く喉元の動きを、何となく正面に捉え
ながら。
「あ・・・ごろ・・・いや・・稲垣先生。大丈夫ですか、そんなに召し上がられて」
こんな風に目の前でアルコールを飲み干して行く吾郎を、目の当たりにするのは初めての
事で。
まだ、自分の受け持ち患者だった頃の印象しか持ち得ない木村にとっては、それは受け入れ難い
恐ろしい光景でもあって。
丁寧な言葉遣いで遠慮がちに口を開いた木村に、東山が僅かに同情めいた瞳を向けて来る。
木村の言葉に吾郎ははっとしたようにグラスを煽っていた手を止め、ほんの僅か、アルコールの
もたらす効用を滲ませた始めたような、普段よりも幾分、水分を多めに湛えた瞳を、じっと
木村に向け。
「・・・・・・初めて、かも知れないね、木村くんの前でこんな風にお酒、とか・・・・」
僅かな躊躇いを乗せて、そのグラスをそっとテーブルに戻し。
「あの頃の俺からは想像も出来ない、んだろうな、きっと・・・・。自分でも、こんな風に
普通にアルコール類を口に出来る日が来るなんて想像、した事もなかったし・・・・・・」
ほんのりと全体的に淡い薄桃色に彩られるように、仄かな酔いを匂わせて、吾郎は静かに
瞳を伏せる。
「・・・・けど、さすがに今日はちょっと・・・・」
やんわりと口元を押さえ・・・・仄かに上った朱が静かに引いて行くように、吾郎が僅かに
喘ぐ様子を示し。
「・・・・・・全く。折角、僕が忙しい時間を割いてわざわざこうして席を設けたって言うのに、
ものの見事に無にしてくれるような真似をしてくれて」
東山がそんな言葉と同時に、呆れたように青褪めた吾郎の顔を眺める。
「もうこれ以上、面倒見きれないな。ここまで全部、お膳立てしたんだから、もういい加減、
自分の力で何とか出来るだろう?」
俯き加減に睫を伏せた吾郎の髪に軽く触れるように、指を伸ばし。
何も答えない吾郎に、コン!と軽く握った拳の中指をぶつけ。
「自発的に発作とか起こして、都合が悪い事から逃げ出そうとするんじゃないよ」
笑いを含んで届けた言葉に吾郎がキッときつい視線を、その相手にぶつける。
「・・・・・しませんよ、今更、そんな子供じみた事!」
「そう?だったらいいけどさ。何だか、ちょっとそんな空気、感じたから」
唇の中で小さく笑い声を洩らして、晴れやかな瞳を今度は木村に向け。
「それじゃあ僕はこれで。悪いけど彼を自宅まで送ってやってもらえる?」
「は?!」
思わず声が迸る。
何となく2人が交わす会話を聞き流していた。
親しげな2人の様子を、けれど、間近で見ている事しか出来ない自分がもどかしくて。
今の自分の存在は吾郎にとって、その程度でしかない事は、吾郎が自分の上司として
赴任して以来、ずっと痛いほど思い知らされていた事でもあったけれど。
逆に言えば、今、こんな風にして吾郎が自分の目の前に居て、何か言葉を発していて、それが
たまにでも自分に向けられる事がある事が、そして、自分が発した声に対して、吾郎からの
反応が返って来る、その事、そのものでさえが、何かとても特別な不思議な事にさえ感じられる
ようでもあって。
だから。
「・・・・あ、いえ、あの・・・教授がお送りになられた方が・・・稲垣先生は俺なんかに
送られるのは・・・」
躊躇いをしっかりと含んだ、はっきりしない物言いを自分がしている事が、自分でも信じられない。
いつから自分は。
いつの間に自分は。
こんなに不甲斐ない臆病な人間になってしまったんだろう。
「君がさっき、吾郎くんに飲み過ぎなんじゃないか、と声を掛けたよね?」
「え?」
幾らか唐突に思えなくもない教授の問い掛けに、木村は咄嗟に反応出来ず、ただ聞き返す
声だけを上げて。
「君は吾郎くんがこうして飲酒する場面に初めて一緒に居合わせたにも関わらず、吾郎くん
本人ですら意識し得なかった酒量の限界を、たった一目で見極めてしまった、と言う事なんだと
僕は認識したんだけど?」
「・・・・あの・・・・」
「一緒に飲んでいて、実は僕もまるで気づかなかった吾郎くんの酒席での、ほんの僅かな
変化、のようなものを君だけがきちんと見極めていた、と言う事なんじゃないか、と」
「・・・・いえ・・・・」
そんな風に言われても、あれは本当の偶然に過ぎなかった、と自分では思う。
第一、都合の悪い話題から逃げるように慌しく盃を重ねていた吾郎は、驚くほどあっと
言う間に悪酔いしてしまったと言っても過言ではなくて。
それこそ、その微妙な変化を図る時間さえ与えられなかった気がする。
「吾郎くんの性格を君は知り過ぎるほど知っているんだろう?吾郎くんが口で言葉に表わす
ほどに辛辣な性質でない事も含めて。きっかけが必要なんだろうとは思ったから、今夜、
こうして君達が向き合える場を拵えただけだから、僕は。まぁ、せいぜい、吾郎くんの
攻撃的煙幕に惑わされないで、本当に吾郎くんが胸の内に持っているもの、聞いてあげてよ」
「木村先生に今更、聞いて頂かないといけない事なんか何もありません」
つい、と。
それまで東山に向けていた、若干の甘えさえ感じさせたその眼差しを、また、冷たく硬い
物に瞬間的に変貌させて。
自分に向けられたそれを真正面に捉えながら。
気丈に口に上らせるセリフとは裏腹に、その顔色は白皙を通り越し、幾らかの青みを帯びて。
きつく拵えられている視線も、その実、危ういほどに頼りなく見えて。
「取り敢えず、ご自宅までお送りします」
有無を言わせない口調で吾郎の右腕を捉え、肩に抱え上げ。
極、一瞬、僅かな抵抗を示し掛けて木村の身体を押した左手は、けれど、すぐまた、力なく
重力に任せるまま下に下げられ。
「ちょ?!吾郎!大丈夫か、お前」
それはまだ、完全な健康状態を取り戻す前の、そんな吾郎の様子を彷彿とさせて、木村は
思わずその頃と同じ語調、セリフを迸らせてしまっていた。
吾郎の、自分の足元辺りを映していた視線が持ち上げられ、極、近い距離からこちらに
向けられるのを感じて。
「あ・・・すみません・・つい」
うっかり口を滑らせてしまった過失を詫びて。
「・・・・・・昔・・・こんな風に怒鳴られた事、あったね・・・・俺が勝手に病院を抜け出して
具合が悪くなっちゃって・・・・・木村くんが結納を放り出して来た日・・・・・・」
「怒鳴ってなんか・・・・・・」
「・・・・・・俺はね、怒鳴られた、としか思えなかったんだよ、その時にね・・・・・
怒鳴られて叱られて責められて・・・・・自分のしようとした事はどうしようもなく悪い
事で、その事でただ、人に迷惑を掛けただけだったんだ、って・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
「今なら、少しぐらいは分かる・・・・あれはただ、心配してくれてただけだった、って事。
あの時にその事に気付いてれば・・・・」
自分を映したままの瞳が大きく揺らいで。
また、足元を映す。
「けど、その事があったから、今の吾郎くんがあるんだ、と言う事も忘れないでね。人は
一生、そうして経験を重ねて成長して行くんだよ。間違いに気付いた時点から、また、何度でも
始めればいいんだ。怖がる事なんかないし、余り長くその事に囚われて立ち竦む事も・・・・
僕的に言わせてもらえば、そんな時間も短いに越した事はないと思うけどね」
木村の肩を借り、体重のほとんどがそちらに預けられたままの吾郎の背中をあやすように、
何度か東山の手が行き来し。
「もういい加減、前へ一歩、踏み出した方がいい。もう十分過ぎるほど、時間は過ぎたはずだよ」
念を押すようにそう言い足して、東山は最後にポンと吾郎の肩を叩いた。
「・・・・・・教授がそんなお節介な方だなんて存じませんでしたよ」
「君と関わる人間は多かれ少なかれ、みんなお節介にならざるを得ないのかも知れないけれどね」
東山が笑みを浮かべ。
「それじゃあ、木村くん、後、宜しく頼むね?」
木村にも、吾郎に見せるのに似た親しげな笑顔を向け。
徹底した自己管理が映し出す、年齢を感じさせない均整の取れた後ろ姿は同性の自分達から
しても惚れ惚れとするような見事さで。
その颯爽とした後ろ姿に、木村は吾郎を支えたまま静かに深く頭を垂れた。
東山が呼んでくれていたハイヤーを遠慮なく使わせてもらう事にして。
本来であれば、教授である東山を見送ってから自分達も、と言う順序が順当である事は
常識以前の事として、当然、弁えてもいた事でもあったけれど。
「吾郎くんの体調の方が心配だから」
教授にそう言ってハイヤーに押し込められてしまっては、もう何も言う事は出来なかった。
「申し訳ありません」
座席から頭を下げる木村に「この貸しは高くつくよ」東山は遠慮のない気さくな笑みを
灯した後、運転手を促し。
「後の事は宜しく頼むね?」
僅かに蒼い顔で木村の向こうから少しだけ顔を覗かせてみせる吾郎にも、軽く目線を合わせ。
「おやすみ。気をつけて」
走り出したタクシーの中から、もう一度、木村は後ろを振り返り深く頭を下げた。
「どちらまで?」
「あ・・・ご・・・じゃない・・稲垣先生?お住まいの方はどちらですか?」
問い掛ける木村に低く、やや早口で番地まで口にされた住所をどうにか聞き取り。
そのままを運転手に伝えた後、それとなく隣の様子を過度の干渉と受け取られない程度に
窺う。
ゆったりと、と言うよりはぐったりとシートに深く身体を預け、若干、抑え気味な呼吸は
それでも、普段のそれよりも忙しなく、やや荒く繰り返されるようで。
「・・・・ちょ・・・失礼します」
有無を言わせぬ口調で自分の上半身だけを捻り、その正面に向き合い。
きちんと襟元を彩るネクタイを緩め、シャツのボタンを上から2つほど外して。
同時に左腕の手首のボタンも外し、そこに指先を宛がい脈を読んで。
「大丈夫ですか?お客さん、具合悪いの?」
丁寧なハンドルさばきとは似つかわしくない砕けた口調を投げて来る運転手に、隣で露骨に
空気が尖るのを感じ。
「いや、大丈夫です」
「酔っ払ってんの?危なくなったら言ってよ、ちゃんと」
「大丈夫ですから、本当に」
益々、険しく刺々しさと冷たさを増す空気が痛いほどで。
もし、吾郎の具合が悪くなければ今頃は、丁寧でけれど遠慮のない毒舌の一つや二つは
お見舞いされているであろう程度の事は読み取れて。
内心でほんの僅か、ほっと胸を撫で下ろす。
吾郎の具合が良くない事を喜んでいる場合でない事は、当然、百も承知であったにしても。
スムーズな流れでタクシーは目的の場所に到着し。
料金を払いお釣を受け取る木村に「お大事に」運転手は気さくな様子で声をそえた。
「どうも」
木村も相応の愛想を返し、立っている事そのものでさえ辛そうに蒼い顔で俯く吾郎の傍に
すぐさま寄り添い。
「大丈夫ですか?」
もう一度、右腕を肩に抱える。
無言のまま、やはり、それにも僅かな抵抗を一瞬は示して、それでも、自力でマンションの
自室にまで辿り着く自信がない事は、運転手とのやり取りを済ませる木村をじっと待って
いた事からも如実に窺えて。
一々、小さな抵抗を示される事に木村が内心で傷つかない訳でもなかったけれど。
それでも、このまま、放っておく訳には当然、行かず。
はぁ・・・・と。
弱く、けれど、わざとらしく零された吾郎の溜息には、敢えて気付かない振りを決め込んだ。
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