ポン!と言うよりはズガン!とかなりの衝撃を背筋の中枢部分に食らわせられた痛みに
思わず反射的に、医者としてはあるまじき壮絶な睨みを伴って、その方向に首を回した
先にあった、見慣れているはずの友人の顔に、眉間に深く刻まれた皺は幾らか柔らかみを
帯びて解れたものの。
「んだよ、突っ立ったまま寝こけてるっつー訳じゃなかったんだな」
アーモンド型の瞳の中に、僅かに訝る色を忍ばせて、唇を幾分、歪めてみせた旧友から
木村は逃げるようにして顔を背けた。
「んだよ、んな露骨に嫌そうな顔する事ねぇべ?」
そんな木村の様子を面白そうに愉しんでいる風を漂わせながら、それでも、木村の周囲を
離れようとはしない態度に、木村は軽く息を吐き出す。
「まだ、勤務時間か?いつになったら空く?ちょい、付き合わねぇ?」
乞われるまま木村は軽く顎をしゃくって見せて。
「今、休憩中だから」
人気の比較的少なそうな、休憩スペースの観葉植物の陰に設えられたベンチに中居を伴う。
「しけた面しやがって」
2人して示し合わせたようなタイミングで、それぞれがそれぞれの唇にタバコを挟み。
紫煙が2人の空間を埋めるようになった頃、愉しむような口調で中居がそんなセリフを
口にした。
「んだよ、吾郎様が日本にお帰りになって、おんなじ職場でルンルン気分で職務に勤しんでん
じゃねぇのかよ?」
そんなセリフを継いだ中居に、はっきりと分かり易く木村の視線が尖る。
「お前、まさか、んな、くっだらねぇ事、確かめるためにわざわざ、んなとこまで足、
運んだ、とか言うんじゃねぇよな?」
疲れた様子を隠そうともせず、浅く紫煙を吐き出しチラと嫌みったらしい眼差しをこちらに
向けた木村に、中居は幾分、安堵したように表情を和らげた。
「んな、くっだらねぇ事言える元気があんなら、俺が心配する事でもなさそうだな」
「・・・んだよ、心配って」
「いやな、さっき、廊下の向こうを歩ってるおめぇを見掛けた時にな、まるで、重症患者が
1人ふらふらと廊下を彷徨ってる風に見えたんでな、さすがにちょい気になって?つい
声掛けちまった、っつーの?」
「つか・・・お前は何で、んなとこ、居んだよ」
「ま、ちと知り合い?が入院してたりだとかすんでな、見舞い?」
「っつーか、お前の方が病人みてぇな面だけどな」
木村の唇が見慣れたシニカルな笑みを刻む。
「るせぇよ。にしても、マジで何でそんなしけた面してやがんの、おめぇ?」
「人の面にケチばっかつけてんじゃねぇっつーの」
それでも、木村はつい、と吸い込んだ紫煙をまた、ふぅ、と遊ぶように吐き出し。
「お前さー・・・確か吾郎と・・・吾郎があっち行く直前に会ってんだよなー・・・・」
それはまるで独り言のように頼りなげな、低く、周囲を憚るような声音で。
うっかりしていると周囲にゆったりと、患者をリラックスさせるために流されているで
あろうクラシック曲にかき消されてしまいそうなほどの微かな呟きで。
「あ?!」
そして。
別段、木村の言葉に特別な注意を払っていた訳でもない、と言うより、人一人分を隔てて
腰を下ろした距離でさえ届かないほどの囁きは、中居の聴覚に明確に捕らえられる事は
なかった。
「お前、吾郎が退院してアメリカに発つ前、空港で吾郎に会ってんだよな?」
「・・・・な?!」
何でその事を知って?!と咄嗟に迸りそうになる言葉を辛うじて飲み込む。
そんな中居の態度に木村の唇は一層、歪んだ。
「慎吾から聞いてんだ、その事は。ま、お前がどうしてわざわざ、んな事までしでかして
くれちゃったのか、については大体の想像はついたんだけどな。・・・・・お前、一応、
俺の代わり?っつーの?のつもりで・・・・・」
「・・・・・・や、んな事ぁねぇけども・・・・」
曖昧に口の中で言葉を濁して。
唇に挟んだまま、ただ、朽ちて行く灰を徒に眺めていたそれを、思いっきり肺の中に吸い込み。
切り通しのガラスを全面に嵌め込んだ壁の向こうは病院の中庭になっているようで。
膨らみ始めた春を憩うように、入院患者やその付き添いの見舞い客がそこここを散策して
いる光景も。
柔らか味を帯び始めた初春の日差しがガラスを通して差し込むのも。
そちらに背を向けている2人には、窺い知る事さえない事で。
背中に降り注ぐぬくもりも、もしかしたら2人にはまるで感じられていないのかも知れない。
「・・・・・・吾郎はそん時・・・何か言ってた、か?」
低く躊躇うように、けれど、何かを諦めたようにその言葉を口にした木村の声が、中居の
鼓膜を掠めた。
5年前のその時の光景が、今もまだ、まざまざと自分の脳裏で再生される感覚に中居は
眉間に深く皺を刻んだ。
吾郎の意思を違える事は無理だろう、と。
そんな事は端から知っていた。
人の・・・しかも、自分のような、ロクな係わり合いのない人間の言葉などに左右される
ほど、吾郎が甘く可愛い性格でない事ぐらいは、あれだけ長期に渡り木村の担当する科に
入院していた事だけでも、十分過ぎるほど十分、証明されている。
もし、吾郎がもう少しでも人の意見に耳を傾け、それを自分の意とする柔軟さや素直さが
あったならば、もっと早い段階で退院出来ただろう、と。
大した知識はないにしても、一応は、木村がそこまで必死に勉強して取り組んでいる病気に
ついて、ほんの一端なりとも知りたい興味はあって。
ずっと、自分の奥底に横たわる自分の本当の心の声にさえ、耳を傾けようとしなかった吾郎が
人の話になど耳を傾けるはずもない、と。
けれど、それでも自分は赴かずにはいられなかった。
自分の親友とまで信じていた相手の生き方そのものを変えてしまった相手の、そんな唐突な
暴挙としか思えない行動に、どんなに無駄であろうが、自分はその場に対峙せずには
いられなかった。
関わらずにはいられなかった。
こっちの、形振り構わない態度は相手の心を少しぐらいは掠める事が出来たらしい、吾郎が
こんな暴挙に出る意味のほんの一端を仄かに匂う程度には知らされる事を許されて。
そして、自分はある種、そこで納得もしてしまった。
自分が懸念した通りだった事が、本当は心の奥底で嬉しかったのかも知れない。
自分の知る木村と言う男が、自分の懸念した通りの男だった事が、自分はやはり、それほど
木村の事を理解出来ていたんだ、と証明してもらえたようで、嬉しかったのかも知れない。
その事で木村がどれほどうちのめされるだろう、と。
それを思う心の痛みさえ、ほんの一瞬は薄らぎそうになるほど。
自分はそして、あの瞬間の痛みや悔しさを、こんな形で埋めようとしているのか、と。
その事に気付いて、そんな自分に僅かに落胆と失望も抱いて。
無二の親友の、命さえ危ぶまれるほどの大事故に、その場に居合わせるどころか、駆けつける
事さえ出来なかった自分が、その事を知らされて出来た事と言えば、せめて、その友人が
入院中に退屈しないように、必要以上に落胆し過ぎて妙な方向へ考えをいざなわれない
ように、可能な限り励ます事ぐらいで。
周囲に呆れられるほどに日参していた、その病室へ。
それなのに。
肝心の傷ついた友人を一旦は死の淵まで追い詰めながら、救ってしまった唐突な存在に。
どれほどの失意と憤りを感じてしまったか、思い出す事さえ苦しいほど。
なんで、こんな顔も名前も分かんねぇようなヤツがいきなり・・・・・
十数年来ずっと傍に居た自分を差し置いて、こんな年端も行かねぇガキが何で・・・・・
それはある種、憎悪にも似て。
理不尽だと知っていた。
喜ぶべきなんだ、とも必死に理性は呼び掛けても来た。
それでも、理性では押さえつけられない感情が激するのを、自分はただ、必死で呑み込むしか
なくて。
そいつのお陰で死の淵から蘇った親友は、あろう事かその後の人生の目的まで既に見い
出してしまっていた。
・・・・・俺もまだ、ガキだったもんなー・・・・・
蘇る苦い記憶を苦笑出来る程度に年は重ねた。
今はきっと、その事を有難かった、と本心からではないにしても、思える程度の理性も
働かせる事が出来る。
何か言っていたか、と問われ。
もう今なら時効だろう、と言う思いと、今更なー、と苦笑する思いを抱いて、中居はその
記憶を言葉少なに口に乗せた。
「まー・・・・あそこで結納まで放り出しちまった事がお前の最大唯一の失態?吾郎にとっては、
お前のそこまでの献身が負担、だった、・・・・みてぇな?」
「けどっ!けどなぁ!!あん時にもし、俺が結納、放り出してなきゃ、あいつはもしかしたら
今頃は・・・・!!」
迸らせ掛けたセリフは、今もその頃のまま色褪せる事なく突き上げて来た恐れに掠れ。
今もまだその恐怖に、ただでさえ冴えない様子だった顔色を更に青褪めさせた木村から、
見ていられないとばかりに視線を逸らした中居は、足元の綺麗な澄んだ空気を思わせる、
白に近い淡いブルーの色調のリノリウムの床の目地をなぞった。
「おめぇがな、さっさとレーコと結婚しちまわねかったのが、わりかったんじゃねぇの?
吾郎、身の危険とか感じてたんじゃねぇ?内心でほんとの事言うと」
「身の危険、て何だよ」
「おめぇがそっち系のヤツなんじゃねぇか、って疑惑?」
「・・・・・・バーカ」
本気で呆れた眼差しを遠慮なく突き刺して来る旧友の視線を感じて、自分もふざけた笑みを
返して。
「ぜってぇ、ぜってぇそうだって。でなきゃ、あんな、まるでおめぇの前から逃げるみてぇに
して、連絡先も何も完全シャットアウトしたまま、行方くらましたりなんかしねぇべ」
完全にふざけて、調子に乗って更に継いだ言葉に、木村の態度が強張った事を敏感に読んで。
「バーカ。真に受けてんじゃねぇっつーの」
バシッ!と。
軽く後頭部をはたいて。
「にしても、んだよ。せぇっかく、吾郎様がご帰国あそばしたっつーのに、何かおめぇ、
吾郎が居なくなった時よか、ひでぇ面だぞ?」
「・・・・・毎日、緊張の連続・・・っつーの?あいつ、初日に挨拶に来て言いやがった、
昔みてぇな振る舞いはしねぇでくれって。けど、じゃあ、俺ぁ、一体、あいつの前でどんな
態度を取ればいい訳?つか・・・つい、そう言う昔の態度が出そうになるたんびに緊張して
自分戒めて・・・・もう、この頃じゃ目も合わせらんねぇ感じ?」
木村のセリフを笑い飛ばす事さえ出来なかった。
廊下をふらふらと、くたびれた院内シューズを引き摺るように彷徨う風に見えた木村の様子が、
今の木村の言で納得が行った。
「あいつは・・・・そんじゃ何のためにこっち帰ってきやがった、っつーんだよ」
吐き出した声が明らかな怒気を含んだ事を隠し果せる事は不可能だった。
「・・・・・・・さぁな」
低く、一言だけ木村が吐き捨て。
共に唇から流れ出た紫煙が2人の間で儚く揺らいで煙る。
・・・・・・おめぇはそれでも、まだ、ここに居んのか?
胸の中に湧いた疑問を中居は苦い紫煙と同時に、胸の奥深くに呑み込んだ。
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