「初めまして。稲垣です」
こちらの医局に着任した時、似たようなセリフを口にした、その語調とは明らかにまるで
違う、温かな柔らかみを帯びた声音に、目の前の少年は感情のない視線を、ただ吾郎に
当てただけだった。
まるで鏡にでも映されたような。
昔、初めて主治医の木村と対峙した時に自分が相手に向けた眼差しを模したような、生きる事
そのものを遠に諦めてしまったような冷めた瞳は、ただ、その機能だけを忠実に果たすかの
ように、こちらを映していて。
「前の先生はどうしたの?」
「受け持ち患者さんが増えられたのでね、僕が君を担当する事になったから」
「・・・・・・はっきり言えば?どうせ、また、見捨てられたんでしょ、俺は」
そんな目の前の少年の言葉に、吾郎は微かな懐かしさを感じないでもなかった。
少年がそう口にするその胸の内は想像するに難くない。
「ここで僕がどんなに言葉を尽くして、そうじゃない、と君に伝えた所で、君は恐らく、
そんな僕の言葉なんかは受け入れられないだろうから、今は君が思いたいように思って
いてくれていい」
「・・・・・・ふぅん?慌てて弁明や回りくどい説明なんかも、敢えてしない訳ね?
それって諦め?どうせ、俺に何説明したって無駄だって言う」
「あぁ、まぁ、そうだね、うん。今は君に何を言っても分かってもらえないだろう、って
事は分かるから」
「何で?」
「さあ、どうしてだろうね?」
「どうせ、お前なんかに俺の気持ちなんか分かるはずもないし」
少年の言葉に吾郎は薄く唇を綻ばせた。
手に取るように分かる、と言うのはこういう事なんだ、と。
この少年の入院を知る事がなければ、自分はわざわざこの病院に再び、足を踏み入れる事は
なかっただろうと言う確信はあって。
いかにアメリカ留学時代の恩師からの強い要望であったのだとしても、今更、どんな顔を
して、ここへ戻って来ればいいのか、自分でもそれをまるで、見極める事さえ出来ずにいた。
あんな最低の形で一方的にその前から姿をくらますようにして渡米して来てしまった自分に、
当然、その相手から何らかの形でコンタクトを取って来てくれると言う事もなく。
一切のコンタクトを拒否してこちらに来たのだから、それは当然の事であったとしても。
それでも・・・・・・
心のどこかで・・・・・
万が一の可能性を、欠片ほども夢想しなかった、と言えば嘘になるのだとしても。
慎吾から結婚の知らせを受け列記されていた新婦の名前に。
もしかしたら、まさか、と言う思いよりも上回っていたのは、やっぱり、と言う思いでも
あって。
そして、あろう事か式への参列を求められた事にはさすがに驚きと戸惑いも感じたけれど。
それでも、そうして知らせたくれた事は純粋に嬉しく、確かめたいと言う思いもどこかに
あって。
まるで初対面にも関わらず、どうしてこんなに敵意をむき出しにされないといけないのか、
と訝るほどに、その女性の対応はひんやりとした辛辣さを極めて。
だから、自分は・・・・・・・
告げてもしようのない、明かしても仕方のない言い訳を胸の内に仕舞って。
湧き上がって来るのは、やはり、軽率にこんな場所へ顔出しするんじゃなかった、と言う悔い。
慎吾からはどうして何の音沙汰もして来なかったのか、とも問われ。
こちらからもそうする術はあったのだ、と。
けれど、自分の中に起こった誤った認識と感情が改まる頃には、もう随分と月日は流れても
いて。
もう今更。
何をどうコンタクトしていいのか、それ以前に、今更、そんなコンタクトを取ってどうなる
のか、と。
既に切れてしまっている絆に手を伸ばし、もう一度、断ち切られる痛みを想像するだけで
怖かった。
だから、まさか、こんな形での再会を果たす事になろうとは、本当は想像もしたくなかった
事でもあって。
そうして、未だに。
どんな態度で、どんな表情で、その人と対峙していいのか、まるで分からない。
その人が、あんな風にして姿をくらましてしまった自分に対して、何を思い、何を考えて、
どんな感情を抱いて、今、こうして、自分の目の前に居るのか、まるで想像も出来ない事も
あって。
どんな距離感で接すればいいのか分からない事に対する逃げを打つように、以前のような
振る舞いはしないで欲しい、と告げれば、それ以降、向こうから何らかをコンタクトして
きそうな気配はまるで皆無で、それどころか視線すらまともに合わせようとさえしない所を
見ると、いきなり、こんな形で上司として赴任して来た自分を、他の医局員達同様、面白く
なく感じているのかも知れない。
その人が不用意に放ったたった一言が、それまでの自分とその人との間に培った全てを
一瞬にして壊してしまった、と。
その時の自分はそう感じてしまった。
「バカか、お前はっ?!マジでこんなモンのために、自分の命、縮めるような真似、
しやがったのか?!」
朦朧とし掛ける意識の奥に打ち込まれた言葉は、漸く、恐る恐る伸ばし掛けた自分の手を
払い除けるのに十分な。
「お前、発見された時、死に掛けてた。本当に危険な状態だった。これは、お前の本能の
中に刻み込まれた生に対する執着がつけた痕、だよ。口では死にてぇとか言ってやがるけど、
やっぱ、身体は、本能は生きてぇ、って思ってんだよ、お前」
こんなモンと。
自分の気持ちを形にして伝えたいと、生まれて初めて自分の意志で起こした行動を、そして、
その形をそんな風に切り捨てられた瞬間の・・・・
自分が感じてしまった慟哭が木村の腕に刻み付けてしまった痕の事まで、そんな風に。
そんな木村の、他の医師達と同じ誤解で自分を括られた事への絶望は、自分の想像を超えて
遥かに深い溝を感じさせられた。
悔しい。
その瞬間、胸に湧いた思いは、ただ、それだけだった。
こんなヤツに。
こんな人間に、俺の気持ちなんか一生、分かるはずもない。
ほんの一瞬でも、もしかしたら、と期待してしまい掛けていた自分に湧いた、余りに深い
嘲笑。
だから。
もういい。
ただ、もういい、と。
けれど、そのまま、また、元の不健康なままの自分に戻ってしまう事は、余りにも不甲斐なさ
過ぎて。
そんな風にしていつまでも、その加護の中で生き永らえさせられるような、そんなのは
真っ平だ、と。
沸々と湧き上がる怒りに似た感情が、こんな風に自分を突き動かす原動力になってくれる、
とは正直、少し驚きでもあった。
いつか、見返してやる。
胸の中に抱いた、誤った目標は、けれど、その事でさえ、ちゃんと自分に生きる気力と能力を
与えてくれて。
「お前の病気はもう8割方、治ってんだよ。後はお前の心次第ってヤツ。お前が
いつまでも治りたくねぇって思ってるから治んねぇの。いいか?病は気から、
っつーだろ。治りたい、元気になりたいって気持ちが大事なんだよ」
初めて会った日、木村から言い渡された、余りにもその言葉通りだった事が、また、悔しかった。
19年間、自分の中にはびこって来た真実は、木村と出会ったたった1年の間でそのほとんどを
根底から覆されるほどの認識の変化を余儀なくされて。
それでも、心の・・・・自分の記憶からさえ抹消してしまったはずの記憶にはびこる恐怖が、
自分に差し伸べられたその手を伸ばさせる事を随分と躊躇わせて。
今、目の前に居て、自分をこの闇から懸命に引き上げてくれようと、その手を差し伸べて
くれているその人は、ずっと記憶の彼方に佇む、自分が初めて家族以外の誰かに対して
伸ばし掛けた手を、あっさり裏切って空を掴ませたその人、かも知れない、と言う微かな
懸念はあって。
そう感じさせられる場面、そして、それを問い質してみる事はまるで不可能ではなかった
けれど。
怖くて。
そうする事で自分にどんな結論が訪れるのか、それは全く自分の想像し得ない部分であって。
もし、その事で・・・・・・
また、もう一度、同じ痛みを・・・絶望を味合わされたのだとしたら、自分はもう2度と
命を永らえて行く事さえ、本気で投げ出してしまいそうで。
結局、何も聞く事も出来ないまま。
けれど、退院の許可を得て大勢の人に見送られ、タクシーに乗り込んだ後、羽田で待ち構えて
いた中居の血相を変えた様子に、自分の中で懸念していた疑念が確信に変わる。
いつもどことなく自分と一歩、距離を置くような感覚でしか付き合って来なかった中居の
我を忘れたような必死さが、中居をそう言う行動に駆り立てる何かがある事を伝えて。
中居は恐らく・・・これは自分の想像でしかないのだとしても、知っている、何かを。
自分の事であって、自分の記憶の中にも定かではない木村と自分との何か、を。
だから、こんなにも必死に、今、自分が取ろうとしている行動を責めて。
そう、木村がどれほど懸命に真剣に自分と向き合って来てくれていたか、自分は多分、
中居以上に身を以って知っている。
そして、その手が翻される事を何よりも恐れてもいた。
そう、恐れていた。
木村がその時、自分の結納を投げ出さずにはおれないような状況を自分が作ってしまった事。
そうして、その事で木村を激怒させ失望させ、挙句に自分に向けられた言葉に、やっぱり、
自分は絶望してしまった。
こんな自分の存在が木村の人生までも巻き込んでしまっている事が悔しくもあった。
いつまでも自分がここに居るから・・・・・・
木村にとって、ここに居る限りずっと、自分は木村にとっての患者であり続けるから。
その事も自分の中で許し難い事に思えてならなくて。
本当に色んな・・・・・
木村を憎いと思う絶望も。
こんな自分の存在が木村の人生までも狂わせてしまっている、と言う絶望も。
全て、その時、自分が感じた・・・・・
自分でも良く分からない、相反するような混沌とした思考の中で、とにかく自分が求めた
結論、それは元気になって退院する事。
木村とはなるべく関わりのない人間になる事。
・・・・・・・けれど、それでも、ずっと・・・・・・
「何、笑ってんの?」
少年の声が怒気を孕んで冷たく凍る。
「笑ってなんかないけど?」
「笑ってるように見えるけど?」
「そう?ねぇ?別に無理に元気になりたいだとか、早く良くなりたいだとか、そんな事
思う必要は全然、ないよ?」
「・・・・・・・ふぅん?珍しいね、そういう事、言うヤツ。みんな口を揃えて言うのに。
早く元気になれるように頑張りましょうね、とか」
少年の目が明らかに訝り、冷たい色を湛えた。
「別に君の人生だからさ、何年ここに居てもらっても全然、構わないし。のんびり体調維持に
務めよう」
「何だよ、それっ!俺はこんな檻の中にいつまでも居たくないんだよっ!誰だってそうだろ!
さっさと出たいに決まってんじゃん、こんなとこっ!」
「そうなの?だって、これまでの君の治療に対する態度を見てる限り、よほどここが気に
入って、ずっとここに居たいんだとばかり思ってたけど」
「ふざけんなっ?!」
吾郎の捉え所のない飄々とした受け答えが相手の少年には甚く気に障るらしく、ムキになって
声を荒げる少年に、相変わらず吾郎はクールに現状だけを相手に伝える。
「ふざけてるのは君の方なんじゃないの?全然、僕達医師の言う事は聞かないし、自分で
勝手に悲壮感抱いて発作は起こすし」
「か、勝手に悲壮感抱いて、って何だよ、それっ!」
「違うの?けど、まぁ、無理ないだろうけど。うん。君が色んなものに絶望して悲観的に
なって諦めを抱いている事に関して、それも止むを得ない事なんだって」
「・・・・・何?さっきと言ってる事、違うじゃん・・・・いきなり、分かった風とか
装うの止めてくれる?」
吾郎が示した少年に対して肯定的な態度に、少年は意外なほど簡単にうろたえて、言葉を
揺らした。
入院患者の中にどうしても今のスタッフでは手に負えない問題児がいる、と。
そして、かつての恩師から送られて来た資料にあった、その少年を取り巻く環境や症状が
余りにも当時の自分と酷似していたせいで。
他人事だとは思えなかった事と、そして・・・・・
自分が医者になりたい、と願ったその目的が全う出来るかも知れない可能性に、縋るような
思いで、赴任を決意してしまったけれど。
「生きてたってしようがないのかも知れないけど・・・・・生きてるのも悪くない、って
こうして命を紡いでれば、いつか、そう思える日が来るかも知れないからさ、ま、その時まで
気長に付き合うよ」
「ふざけんなよっ!そんな事に付き合ってくれなんて頼んでない!それより、医者なんだったら、
さっさと治療して元気にして退院させてくれりゃいいだろっ!」
「だったら、自分も。ちゃんとこちらの指示に従うべきなんじゃないの?退院したいんなら」
そんなやり取りの中で、この少年はまだ自分より随分とましなんだ、と感じる。
退院したい、と言う意思があれば、それだけで十分に思える。
それが仮に売り言葉に買い言葉の、言葉遊びに過ぎないのだとしても。
そして、自分の中に蘇って来るのは、自分が木村と交わしたやり取りで。
自分は売り言葉に買い言葉で返す時にも「死にたい」としか口にした事しかなくて。
だからだろうか。自分がほんの少し、元気になりたい、と。退院したい、と。それを極僅かに、
空気に匂わせる程度に仄めかすだけでも、木村がそれを酷く喜んでくれた事。
そうして・・・・・今、自分は当時の木村ととても似通った立場と環境を得て。
それでも、自分はやっぱり、この患者に対して、退院したい、と口にしてくれた事を特に
嬉しいと感じる訳でもないな、と。
医師としての職務を全うする事は可能でも、そこにそれ以上の感情的な部分が動く事はない、
とも感じていて。
「とか言いつつね、今の君、こんなに喚き散らしているにも関わらず、全然、平静なんだよ、
気付いてた?」
意図的に微笑んで見せた吾郎に、少年ははっとしたように目を見開いた後で、悔しげに
こちらを睨みつけて来て。
「・・・・・だから、どうしたって言うんだよ?」
「別に。苦しい思いをするのは少ない方が君も楽なんじゃないかと思って」
「・・・・・変なヤツ」
苦々しげに顔を歪め、完全に視線を逸らして呟かれたそのセリフは、まんま、あの頃の
自分が木村に対して描いた思いと酷似しているようで。
懐かしい、と言うのはこういう感情の事を言うのかな?
と、ふと、そんな思いに囚われる。
「基本的に人間には命を繋ごうとする無意識の本能が働くようになっていて、だから、人間と
言うのは窮地に追い込まれると驚くほどの生命力を発揮する事が出来たりもするんだけどね」
「・・・・・・・・・・・」
「そういう本能の部分を意識的に無理矢理、捻じ曲げさせられているのが、君達のような
病気の人なんだと僕達は理解してる」
「・・・・・・・・・・・」
「そこに至る経緯はそれこそ、人それぞれで、その人に応じたそれぞれの対応を僕達は
心掛けているつもりでもあるんだけど・・・・・本当に治療に大切なのは、ちゃんと
そうした本能を捻じ曲げてしまうほどの、心の声に耳を傾けてあげる事なんだよ」
「・・・・・・・・・・・」
「自分でどうしても認められない心の声だから、自分でも見つけられなくて、だから、
心が上げている誰も耳を傾けてくれない悲鳴を、身体が示してくれてるに過ぎないから」
「・・・・・・・・・・・」
「まずはそう言う心の声を見つける事、認めてあげる事から始めないとね」
「・・・・・・・・・・・」
「って言う説明はこれまでも、手を変え品を変えして、それぞれの先生方がそれぞれの
方法で伝えてくれて来た事だろうとは思うけど」
「・・・・・・聞いた事なんかない、そんな話」
「聞く耳を持たなければ、どんなに熱心に説かれても、きっと、君の耳には届かなかった
んじゃないの?」
「・・・・・・・・・・・」
「大丈夫。君はきっと元気になるよ。僕が保証する」
「・・・・・・アンタの保証なんかアテになんの?」
「どうだろうね」
思いっきりバカにしたように見返して来る幼い眼差しに、軽く小首を傾げ、やんわりとした
笑みを返して。
自分は両親と交わした約束の5年間と言う月日の中で、求める答えに辿り着く事が出来るの
だろうか、と。
そう思う端から既に。
こう言う邪な目的から医者になったような自分が・・・・その答えに辿り着く事は恐らく
無理なのかも知れない、と。
実はそんな意識を胸の中に抱いていたりもしていた。
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