その日の朝。
医局内はいつもと違った空気に包まれていた。
「確か、今日からだったよな、新しい医局長が着任するのは」
「今度、提携する事が決定した向こうの大学病院の医局員、だよな?」
「ただの医局員じゃないけどな。何だっけ?確か・・・スキップでたった2年で大学院まで
卒業して、博士号まで持ってて、しかも、25の若さで向こうの学会じゃ講演だとかで
ひっぱりだことか言う、ちょっと、普通の常識じゃ計り知れないようなヤツ、だよ」
勤務時間が始まる少し前の時間、出勤して来た医局員同士が、そこここで顔を突き合わせて
噂話に花を咲かせている。
そのうちの一人が
「ほら、これ。ここ。載ってる、そいつの事」
著名な医療誌の見開きページを開き、モノクロの写真を指で弾いて。
「『新星の如く現れた医療界の救世主』だとさ。ご大層に。20歳でW大学入学。22歳
博士号取得、大学卒業後、同大学病院勤務。で、その大学に入るまでの経歴は一切、不明
って言ういわく付きの」
皮肉に口端を歪めて。
「そんな超がつくぐらい優秀な人間・・・・って言や、聞こえもいいけど、要は頭でっかちの
学者さんがさ、なんでまた、わざわざ、臨床の現場なんかに首、突っ込んで来る訳?そういう
ヤツはさ、ずっと、研究室に篭って研究でもしてりゃいいものを」
「博士号だって金で買った、って噂もあるぞ」
その噂話のどれもが、決して、好意的とは言い難いものばかりで。
「目障りなんだよ。どんな優秀なヤツか知らんが、どういう理由でわざわざ、こっちの
医局に配属されて来るんだ?こっちで、助教授、ひいては教授の椅子も狙おうってか?」
同じ助教授のポストにある、一応は先輩医師のそんなセリフも耳を掠める。
「大体、25と言えば、まだ、インターンと同い年じゃないのか?それで我々の上司とは。
どれほど優秀か知らんがどうにも承服しかねる話だ。良く、院長もそんな事をお認めに
なったものだ」
「バカにされているとしか思えんよ」
ただ、黙って手元の受け持ち患者のカルテに目を走らせながら、その噂話を聞くとはなしに
小耳に挟んでいた木村は、奥歯を噛み締め、眉間に寄る皺を隠そうともしなかった。
顔写真入りで掲載されていたその記事を初めて目にした時の衝撃が、今も鮮やか過ぎる
ほど鮮やかに脳裏に蘇る。
向こうの言葉で書かれたその専門誌を、勉強の意味もかねて読み始めたのは、割合、最近の
事だった。
吾郎の突然の退院、渡米に伴って自分が受けた精神的ダメージは、自分の想像していたよりも
遥かに大きく、深く、今でも、その当時の事は余り良くは思い出せない。
何か、全てにフィルターでも掛かっているかのように、ぼんやりとして、自分のもので
あって、自分のものではない五感を、それでも、曖昧に操りながら、どうにか、命だけは
繋ぎ止めていた日々。
その当時の事を中居が冗談めかして、面白可笑しく自分に話して聞かせるようになるまでに
2年の月日を要した。
そうして、どうにか、周囲の人間から、いつもの自分に戻ったようだ、と判断された頃に
大学の恩師から勉強してみてはどうか、と勧められたのがその心療内科の専門誌だった。
巡り合わせ、と言うのはこういう事なのか、と思う。
その専門誌を勧められた時には、よもや、その専門誌でセンセーショナルに吾郎について
取上げられる事になろうとは、木村自身も、また、当然、その恩師の教授も想像もしなかった
事で。
その日、夜勤明けの朦朧とした頭で、それでも、既に習慣になっていた、その専門誌を
読み解く作業を始めようと何気なくページを繰るうち、ふ、と視線が吸い寄せられるように
釘付けになったページで指が止まった。
それは・・・・・
いつも、どんな瞬間も決して、自分の頭の片隅から離れなかった面差しに余りに似て。
思わず、食い入るようにその記事を読み解いて。
ローマ字で綴られた『Goro Inagaki』の文字を何度も確かめるように指でなぞった。
朦朧としていた意識が一瞬で覚醒した瞬間。
記事の内容は僅か2年と言う異例の短期間で博士号までを取得してしまった天才を褒め称える
もので。
自分の前から忽然と姿を消す前、慎吾や剛に頼んで、分厚い医学書を国立図書館から
わざわざ借りて来させていた姿をふと、思い出し、そして、それが同姓同名の別人でない
確信を確固なものとした。
ノンフレームの細身の眼鏡の奥の怜悧な眼差しは、病院で受け持ち患者と主治医と言う
関係で再会した頃の吾郎をそのまま模したようで。
表情に乏しいそんな様を『クールビューティー』と、記事のどこかで称していた。
「・・・・・吾郎・・・」
弱い頼りない声が独りでに自分の口から零れるのを、どこか別の世界の事のように感じながら。
それでも、次の瞬間、胸に湧いた思いは、元気そうで良かった、と言う、そんなありきたりで
当たり前の思い。
ふと、目の前が滲んで見えて、それは、夜勤明けの疲れ目のせいだと自分に言い聞かせた。
それから、ずっと、何かの折に触れ、掲載される吾郎の記事を目にしていたから、今度、
その吾郎が籍を置いている大学病院と、自分が勤務している大学病院とが互いの医療技術の
向上、更なる発展の促進を目的とした提携を果たし、新しく向こうの病院からこちらの
病院へ、その吾郎が着任して来る事も記事から与えられた情報として、知ってはいたけれど。
「噂話と言うものは、もう少し控え目な音量でされる事をお勧めしますよ。廊下にまで
届くほどのボリュームはいかがなものかと」
不意に。
悪意を含んだ声高な声音を遮るように、柔らかな声がして、医局員が一斉に声の方を
振り返った。
いつの間にその位置に立ったのか、誰にも気付かれる事なく、医局のドアのこちら側に
立っている痩身の男に耳目が集まる。
「そもそも、人の噂話をすると言う時点で、品性を疑われる行動であるにも関わらず、
それが廊下にまで響くほどの、と言うのはね?余り感心しませんね」
にこり、と嫌味なほどに美しく弧を描いた唇とは対照的に、記事の写真と同じ、眼鏡の
奥の瞳はまるで、感情を表していない笑みに、医局員達の顔が強張る。
「自己紹介が遅れましたが」
そんな医局員達の様子を愉しむように、吾郎一人一人の視線を捕らえながら。
「W大大学病院から赴任して参りました稲垣と申します」
極、軽く頭を下げたのち、ノンフレームの眼鏡のふちを押さえ
「宜しくお願いします」
と言葉を添えた。
「・・・・吾郎」
思わず、その名が唇から零れ落ちる。
まるで現実味の感じられない現を手繰り寄せるように。
何かの呪文を口走るように。
ふ、と。
吾郎の視線が自分に留まるのを感じて。
その視線を真っ直ぐに受け止めてもいいのか、木村は判断に苦しみ、僅かに視線を逸らした。
「確かに、僕のファーストネームは吾郎、ですが。一応、自分の部下になる人間から
名前を呼び捨てられる事を良しとするほど、僕は懐は広くはありませんし、節度をもった
態度で接して頂ける事を望みます。例え、それが以前、僕の主治医をして下さっていた
先生であったとしても」
吾郎のセリフに医局員の視線が一斉に木村に集中する。
「僕の大学入学以前の経歴について、色々と詮索する声もあるようですが、僕は別に隠し立て
しているつもりはありませんし、あちらの専門誌が、その方が売り上げ部数が伸びるから
わざとミステリアスな表現を用いているだけの事です。僕はあちらの大学に入学するまでは
こちらの病院でずっと患者としてお世話になっていました。一時期、ここにおいでの木村先生が
主治医でいらした時期もありましたし」
木村に対して好奇の目が集まる。
「その節は大変、お世話になりました。お陰で健康を取り戻す事が出来て感謝しています」
吾郎が木村に向かって深く頭を垂れる。
そうして、再び、頭を上げ、木村を捉えた瞳は、感謝していると口にしたそれとは余りに
かけ離れた冷たいもので。
「ですが、それはそれ、これはこれ。今後は以前のような振る舞いはなさらないで頂けますよう
お願いします。僕はもう、貴方の患者の僕ではありませんし、貴方は僕の先生ではありませんから」
全てを拒絶するかのような、断固した物言いだった。
声を出そうとし掛けて、開き掛けた木村の唇からは微かな息が漏れただけで、それが言葉の
形になって紡がれる事はなく。
「それから・・・・」
言うべき事だけを告げて、興味を失ってしまったかのように、吾郎の視線は余りに簡単に
木村から外され。
「僕のような若造がこのようなポストに就く事を歓迎して頂けるとは思っていませんし、
歓迎して頂かなくて結構ですが、そういう個人レベルの感情はまた、別にして、今後は
ここでは僕のやり方に従って頂きます。これまでのやり方とは、もしかしたら、まるで
違うものになる可能性も皆無ではありませんけれども、その辺りは皆さんの力量でクリア
して行って頂ければ、と」
丁寧な口調ではあるけれど。
表面をただ、撫でるように上滑りな、誠意も好意も感じられない声音は、最初から、まるで、
輪の中に打ち解けようと言う気配すら見せず、穏やかであるのに、勝負でも挑むような
迎合しようとしない吾郎の物言いに、医局全体が気色ばむ。
「吾・・・あ、いや・・・稲垣、先生。仰られる事は分かりますが、そういう言い方は
医局員の神経を悪戯に逆撫でするだけだと思いますが」
「・・・・・木村先生は僕に意見なさろうとしておいでですか?」
つい、と吾郎の視線が動いて、その深い闇色の瞳の中に木村の姿を写し取る。
「え?あ、いや・・・いえ・・・」
そんなつもりはなかった。ただ、このままでは、第一印象からして最悪で、ただでさえ、
吾郎を歓迎しかねている医局の中で、余りにも吾郎の立場が孤立無援になりそうで、それは
どうしても避けたい、と思って。
何かを考える前に言葉が先に出てしまった。
その事で吾郎に真っ向から意見する事になろうとは、そんな結果までは考えも及ばず。
自分の迂闊さに苦い悔いが上る。
「申し訳ありませんでした」
唇を噛み締め、頭を垂れる。
「もし、何か・・・仰られたい事がおありでしたら、後ほど、個人的にお伺いしないでも
ないですが・・・・」
否定しているようでもなく、かと言って肯定しているようにも聞こえない曖昧な言い方で
吾郎は僅かに瞼を伏せ。
「念頭に置くべき事は患者さんに対する最善のケアだけです。その事に全力を注いで頂ければ、
他の事に関して、とやかく立ち入るつもりも毛頭ありません。その事をご理解頂けさえ
すれば、他は何も望みませんし、求めませんし」
再び、視線を上げた吾郎がスタッフ全員に均等に視線を投げ掛けながら。
「そういう事で、宜しくお願いします」
もう一度、軽く頭を下げた吾郎は、そのまま、身を翻し、医局のドアに手を掛け、ふと
足を止めると
「あ、それから・・・・もう一言だけ。あなた方の出世の邪魔なんかしませんから、どうぞ、
ご安心を。ご存知かも知れませんが、僕は稲垣グループの後継者なので。両親に30歳に
なるまでは好きにさせて欲しいと許可を得て医者になりました。ですから、教授の椅子を
狙っている、とかね、そういう事は皆無ですから」
振り返り様、この医局に現れてから初めて、笑顔を呼べる程度の表情を浮かべて。
だったら、一体、何のために医者になったんだ?!と全員の突き刺すような視線を笑顔で
受け流す。
「今日はご挨拶に伺っただけなので、これで失礼します。具体的な治療方針等については、
資料を整えて、また、明日から指示させて頂きます。それでは」
「待っ・・・吾・・・っ!」
そのまま、ドアの向こうにあっさり姿を消した吾郎の後を追おうと、足を踏み出しかけた
途端
「木村先生」
すぐ、傍に居た先輩医師に腕を掴まれ。
反射的にその手を振り払おうと振り返り、その余りの険悪な表情に木村は吾郎の後を追う
事は、一旦、諦めた。
「何なんだ、一体、アレは?!」
「結婚までの腰掛OLじゃないんだぞ!!」
「医療に従事する事を、一体何だと思ってるんだ?!」
「しかも、あの天から人を見下したような態度っ!!一体、自分は何様のつもりなんだ?!」
「頭でっかちの経験不足の医者のくせして。大体、成績の良し悪しで人が救えるとでも
思ってるのか?」
「どんなに優秀でも医者になって、まだ3年の若造が何を偉そうに!!」
木村の想像を超えて遥かに、吾郎の印象は最悪を極めて。
「彼がここに入院していた、と言うのは本当の話ですか?」
「木村先生の患者と言う事は心療内科を受診していた、と言う事か」
「で?健康になって、今度は自分のそういった経験を役立てたいから、と言う雰囲気では、
どう見てもありませんでしたな」
「木村先生に感謝している、と口ではそんなセリフも吐いてはいたが、だから、今度は自分が
その恩返しをしたい、と言う感じでもなかった!」
「木村先生、一体、彼はどういう人間なんですか?」
皆の視線が一気に木村に集中する。
吾郎の事を、一体どう説明すれば皆の感情が少しでも穏やかになるのか、想像もつかなかった。
子供時代のありのままの吾郎を伝える事は、余りに危険過ぎて到底、出来そうにもない。
「彼は・・・・病気の苦しさや辛さを身をもって知っている数少ない医者です。心療内科と
言うセクションはとても、繊細でデリケートなメンタルケアを最重要視しなければならない
言わば、技術だけではない医療の提供を求められるセクションでもありますから、そういう
意味からも、彼は恐らく、優秀な医師であり得る事が可能である、と確信出来ます」
「そう!そうだよ。何より、メンタルなケアを最重要視しているような部署で、彼のような
傲慢な態度で、人間の心の機微を理解さえしていないような、そんな人間に勤まるような
所ではないよ、ここは。仮にいかに優秀な学者であったとしても、そんな事は何の意味も
持たない」
「彼は・・・・理解しているはずですよ、ここがどういう所であるか。ここでは何を
求められるか。実際に患者であった彼がその事を知らないはずがありません。彼はここに
入院している当時から、不自由な健康状態でありながら、それでも、とても、勉強熱心な
少年でもありましたから、きっと、皆さんがご心配なさるような事は何も・・・・・」
「それにしても分からんね。なぜ、大企業の跡継ぎである彼が期間を切って、わざわざ
医者になる必要があったのか。そこまでして、医者になりたかった理由と言うのがね」
それは自分も知りたい、と。木村自身も強く、強く感じていた事で。
「木村先生は彼を担当していた頃、そういう話はお聞きになられた事はなかったんですか?」
そう振られて、木村は曖昧な笑みを浮かべた。
自分が知っていた吾郎は跡継ぎになりたい、と言っていた。
そうする事でこれまで得られなかった両親の愛情を、・・・愛情とまでは行かなくとも、
せめて、自分に対する関心なりと、それを得たい、と健気なほどに純粋に、そんな願いを
描いていた。
その時の、怖いほど真っ直ぐな眼差しを、今も確かに自分の瞼の裏に思い描く事さえ出来は
するけれど。
それが、なぜ、医者、なのか。
どういう経緯で、何が原因で、吾郎の心がそんな風に変化してしまったのか、木村は
全く関与する事を許されていなかったから。
「まぁ、本人も言った通り、長くても5年程度ですか。その間、とりあえずは、彼の
様子を見つつ、ご機嫌を損ねない程度に上手く、お付き合いして行けば済む訳だ」
結局、そこに落ち着き掛ける。
「そうは言っても5年は長くないですか?」
「あっと言う間だよ、5年なんて」
「そうでしょうか?」
「君はまだ、若いからね、5年を長く感じるかも知れないが、我々ぐらいになれば、その
程度はあっと言う間だよ」
・・・・・5年。
丁度、吾郎と離別していた、その同じ時間を、今度は吾郎と同じ職場で共に過ごして行く
事になるんだろうか、と。
まだ、到底、現実とは捉え難い、そんな日々を何気なく薄ボンヤリと想像し掛けながら。
・・・・・以前のような振る舞いはなさらないで頂けますよう
持って回ったような言い回しが、改めて脳裏に浮かんで、胸の中に出来ていた空洞を
暗く薄い影で覆って行くようで。
同時にそんな言い方が癇に障って。
これから、自分はどういう態度、どういう距離感で吾郎と対峙して行けばいいのか、正直、
見当さえつけられずにいる木村だった。
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