「おめぇ・・・婚約解消したんだって?」
吾郎が退院、渡米してから半年が経っていた。
その間、吾郎からの音信は完全に絶えている。
「した、んじゃなくて、された、んだよ」
口に含んだバーボンが苦く熱く喉を焼きながら、腹の底へ落ちて行く。
間接照明が仄暗く木村の横顔を照らし、ライターの炎が唇に挟んだタバコの先を焦がす。
確かにそこに居るはずの木村の、覇気を感じられない存在感のなさに、中居は我知らず
寄る眉間の皺をどうする事も出来ずに。
まるで、幽霊とでも飲んでいるようだ、と苦笑が漏れる。
「そりゃ、いつまでもそんな様子じゃあ、愛想尽かされてもしゃーねぇな」
わざとらしい皮肉を込めた中居のそんなセリフにすら、何の反応を返す事さえなく、
ただ、悪戯に紫煙を燻らせ、その煙に僅かに目を細めて。
「おめぇ、痩せたんじゃねぇ?ちゃんと食ってる?」
尋ねる中居の言葉など、と言うよりも、中居の存在すら既に木村の中から忘れ去られて
いるのではないか、と感じられるほどに、木村はぼんやりと、ただ、そこに居るだけで。
良く、この状態で大きな医療ミスを犯す事もなく仕事をこなせているものだ、と、その事に
ただ、ただ、驚きと敬意を表したい心境で、中居は隣の木村をずっと、見詰めている。
こんな風に・・・・自分がずっと木村を見詰めている事にすら気付かない、なんて、普段の
木村ならあり得ない。
もっとあり得ないのは、こんな風にずっと木村を見詰め続ける自分、なのだが。
それでもそうして、見張っていないと、今にもどこかにすー・・・っと消えてしまいそうな
錯覚を中居に抱かせて、木村は、たった半年ですっかり薄くなった身体をカウンターに
突っ伏した。
それほどの酒量を摂取した訳でもないのに。
自分に比べれば木村は酒に強い方で、こんな風に、自分の前に弱さを曝け出すような、
みっともない姿を晒すような、そんな飲み方などしない男だったはずなのに。
このたった半年の間に木村は、すっかり自分の知っていた木村から、自分の知らない木村に
変わり果てていた。
「吾郎から連絡、とか・・・・」
その名を出す事は躊躇われて、けれど、その名を出さない限り、木村から反応らしい反応を
期待する事も出来ない事はもはや、確信に近くて。
恐る恐ると言う感情を胸のうちに仕舞って、その名を口に上らせる。
「ねぇ」
言いかける中居の言葉を遮るように、恐ろしいほどの速さで木村から返答が返って来て、
中居は言葉に詰まった。
カウンターに突っ伏したまま、顔だけを勢い良くこちらに向けて、木村は酷く不機嫌そうな
顔つきの哀しい目を中居に見せた。
「結局・・・・俺が吾郎を救ってやったんじゃなくて・・・・俺があいつに救われてた、
って事だろ?」
やや下がり気味の眦を切なげに揺らして、木村は弱い声を吐く。
「あいつのために、って思ってた事、全てが俺を支えてたって事じゃん?医者になれたのも
あいつのお陰、心療内科の分野では優秀って言われたのもあいつのお陰。あいつを救う
事が、あいつを元気にしてやる事が俺の生き甲斐で、俺の存在してる理由だった」
それは確かに間違っていない、と中居も思う。
木村の死に物狂いでがむしゃらに勉強する姿をずっと見て来た。
医者になんか、そんなに簡単になれるはずがない、と、悪友全員でからかいながら、それでも、
いつか木村が医大の門をくぐる日が来る事は確信していた。
「あいつが元気になればいいって思ってたくせに、あいつが元気になった後の事なんか、
何にも考えてなかった。その時に自分がどういう状態になるのか、とか。何か・・・
あいつを元気にしてやりてぇ、って願いながら、心のどこかであいつはいつまでも病気の
まんまな気がしてた・・・・・」
一途過ぎるぐらい一途だから、ただ、自分の目的だけを真っ直ぐに見据える事は出来ても、
それに付随する様々な周囲の状況だとか、肝心の自分の心理でさえ、時として見落とし
がちで。
後でその状態に陥って初めて気付く、なんて滑稽な真似を繰り返す事も決して少なくは
なかった学生時代。
何でも先の展開までを見通そうとする自分と、まず、目の前にある事をクリアして行こうと
する木村の考え方とは良く衝突もして。
「あいつにとって・・・・俺はただの主治医で・・・・元気になっちまった後は何の関係も
なくなるんだなんて、そんな想像さえした事なかった・・・・・あいつ、言ったのにな、
元気になったら医者と患者の関係は終わるんでしょ?って。すっげー不安そうな顔で。
元気になったからって、自分を見捨てないでくれって言わんばかりの縋りつくような眼差しで。
けど、そんなあいつはもうどこにも居ねぇんだ・・・・・」
確かにこんな風に執着されたら、怖いかも知れない。
殊に吾郎はずっと自分を否定されて来続けた人間だから。
そんな風に自分を思ってくれる人間の存在からして、まず、受け入れ難かっただろうし、
それでも木村の根気と熱意に負けて、押されて、木村にそうして心配される自分を
受け入れられるようにさえなっていた、と吾郎は自分に告げた。
あれから半年。
吾郎はまだ、見つけられずに居るんだろうか、自分の気持ちを伝える術を。
それとももう、木村の事は本当に吾郎の中で単なる主治医として、その存在すら気にも
留められてはいないのだろうか。
あの時の吾郎の気持ちを木村に伝えるべきなのか、判断に苦しむ。
知った所で・・・木村が今の状態から脱する事が出来るんだろうか。
その事を知って、木村は少しでも救われた思いがするんだろうか・・・・
もし、自分だったら・・・・?
可能な限り想像を巡らせて見る。
結局、答えは見つけられなかった。
所詮、自分は第三者でしかない。当事者でなければ到底、知る事の出来ない思いがあり、
知る事の出来ない痛みや苦しみもあって。
こんな風に弱っている木村をどうにかして、元のせめて自分が知っている頃の木村に
戻したい、と言う強い思いは感じても、自分が木村にどんな働きかけをして、どう接すれば、
木村がここから這い上がれるのか、正直な所、中居は皆目、見当もつけられずに居た。
時間の経過が人の傷をある程度は癒して行くものなのだ、と。
中居は木村を見ていて、改めてその事を認識する。
吾郎が突然、木村に何も告げず、一方的にその関係を断ち切るようにして渡米し、一時期、
本当にその命の灯火でさえ、危ういんじゃないか、とさえ心配した木村の様子は、今では
もうほとんど昔と変わりなく見えた。
本当は傷が癒えた訳ではなく、ただ、自分の意識すらしない深い部分に押し込んでしまった
だけなのかも知れなくても、そうして、普通に見える木村を見ていられる事で、自分も
木村に対して感じている良心の呵責から逃れられる気がして。
もっと、何か。
もう一歩も二歩も踏み込んでやるべきだったのかも知れない、と。
吾郎のその時の気持ちを知っている人間として、吾郎と木村の過去をも含めて知っている
唯一の木村に近しい人間として、自分の取るべき行動はもっと、色んな選択肢があったん
じゃないだろうか、と。
いつもそんな思いに苛まれて来たから。
吾郎を元気にするために医者になって、吾郎を元気にしてやれて、その目的を果たして、
それで良かったんだ、と。
無理矢理にでもそう自分を納得させたんだろう木村は、それでも、まだ医者を続けている。
あれから5年の月日が過ぎていた。
「慎吾が結婚するらしいぞ」
いつものように、いつものバーで。
中居にそう水を向けられて、木村は唇に挟んだままのタバコをゆっくり深く吸い込んだ。
肺一杯に満ちる、苦味を帯びた紫煙を、極、僅かの時間、胸の中に留めて、そっと目を
伏せる。
「聞いてる、玲子から」
「まさか、慎吾となぁ」
中居もまた、胸に吸い込んだ紫煙をゆっくりと吐き出しながら、ついでに溜息に似た息を
漏らす。
「あいつは昔っから、何かっちゃあ、レーコさん、レーコさん、だった。後輩が美人の
先輩を慕う事なんか、当たり前過ぎて気にも留めてなかったし、疑った事もなかったな」
木村らしいコメントだと中居は唇の端だけを持ち上げた。
「俺が・・・・吾郎にばっかりかまけてた頃、俺なんかよりもよっぽど頻繁に連絡取り
合ってたみてぇだったな、2人。玲子はいつも律儀にその事、報告してくれて・・・・
あん時は気ぃつかなかったけど、あれは俺に対する誠意とかじゃなくて、単に俺の反応を
窺ってだけなんだ、って・・・・・
俺は俺で、けど、玲子が俺一人に執着して俺を拘束しようとしなかった事、ちょっと
有難かったから、そんな玲子の駆け引きに気づきもしなかったけどな。
理解のある恋人だって、勝手に玲子の事、そんな風に自分の中で仕立て上げてた。ほんとは
・・・・まぁ、そういう部分が全くなかった訳でもなくて、ほんとに理解のあるいい恋人には
違いなかったけど、それでもな、やっぱ、内心じゃ色々と葛藤してたんだろう、って今
だったら分かんだけどな」
本当に久し振りに木村の口から吾郎の名前が漏れて、中居は咄嗟にどう反応していいのか、
対応に困った。
「慎吾が・・・・・」
言い掛けたセリフを一瞬、言いよどんで、中居はもう一度、タバコの煙を胸の中に溜めた。
「・・・・ん?」
興味のありそうな、なさそうな、それでも、続きを促さないのは相手に対して、申し訳ない、
とでも感じているような、お義理な催促を木村がして見せて。
「吾郎に連絡、取ったらしい。結婚式に出席しろ、って」
ただ、前を向いただけの木村の眼差しが刹那、険しく尖り、次の瞬間、それは弱く力なく
伏せられた。
「・・・・・聞いた、慎吾から。吾郎が出席の返事、寄越したから俺にも絶対、出席しろ、
って、電話の向こうで喚いてた」
「・・・・・そっか」
「何で、今更・・・・向こうには俺と会う気もねぇだろうに、なんでわざわざ、そんな
下らねぇ事、してぇのかな、慎吾も。第一、元カノの結婚式にどのツラ下げて、のこのこと
出席するバカが居んだよな、マジで」
「・・・・・まぁな」
「おめでとう、俺が出来なかった分、玲子を幸せにしてやってくれ、って?はっ!バカバカしい!!」
「・・・・・クサんなよ。お前もさっさとレーコの代わり見つけて結婚しちまえばいいじゃん。
もういい歳なんだからよ」
「お前に言われたかねぇよ。お前こそ、いい歳だろうが。結婚とかしねぇのかよ?」
「相手がなぁ・・・・俺はいつもマジなんだよ。結婚してぇって思ってる訳。なのによぉ。
俺、女運ねぇんかな?結婚、っつった途端に逃げられんだよな」
中居の弁に木村が思わず吹き出す。
「なっさけねぇーーー!!」
「慎吾に先、越される、とかよ、あり得ねぇじゃん!」
「だな。全く」
「だろぉ?!だからよ、当日は思いっきり慎吾に恨み言言いに行ってやるべ?!」
「おっ?!いいな。いいかもな、それ?!」
「だろぉ?!」
「人の女、寝取ってんじゃねぇよっ!って?いっちょ、派手に暴れてやるか?!」
「んだよ、そんなに鬱憤、溜まってんのかよ?」
「たりめぇだろーよ!!何が哀しくて慎吾と玲子の結婚報告聞かされなきゃなんねぇんだよ」
「だわなぁ・・・・同情してやるよ」
「同情するなら金をくれ!」
「・・・・・ふっるー・・・・まぁだ、そんな事言ってから、いつまで経っても女に
相手にされねぇんだよ」
「俺ぁなぁ、お前と違って女に相手にされねぇんじゃねぇの。こっちがその気になんねぇ
だけなの。俺がその気になりゃ、結婚なんか半年後にはしてるぞ」
「そこまで言うんだったらして見せろ。半年以内に結婚」
「おぅ!してやらぁ!!後で吠え面かくな!今から祝い金、用意しとけよ!!」
「心配すんな。貯金はしこたまあっからよ!」
「そのセリフ、忘れんなっ?!」
テンポ良く、漫才紛いの下らないやり取りを適当に楽しんで。
互いに直視したくない現実から目を背ける。
慎吾が元婚約者の玲子と結婚する事。
その席に吾郎がわざわざ帰国して列席する事。
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