自分がどんな風にして吾郎宅を辞去したのかさえ、全く記憶になく、気がつけば自分は
タクシーの後部座席におさまっていて。
無意識のうちに携帯を耳に当てていた。
「木村、くん・・・?」
耳慣れた不安げな声が自分の名前を呼ぶのを聞いて、さっき突きつけられた事実は現実
なんだ、とこんな事でさえ、それを確認している自分が居る。
「お前は知ってた・・・?」
自分の唇から漏れた声は酷く掠れて、自分で思っていたよりも遥かに弱くて、そんな声を
出している自分が益々、情けなく思えて。
喉元に突き上げて来る痛みを懸命に堪える。
「知らなかったよ。知る訳ないじゃん?木村くんが帰って来たら誕生パーティーしよう、
って話になってたし、俺、クラッカーとかさ、ビンゴゲームとか買い込んで、メニューとか
まで考えたりとかしてたんだもん。吾郎ちゃん、楽しみにしてるって言ってた。去年は発作
起こしちゃったから、今年はちゃんと、って。吾郎ちゃんがそう言ったんじゃん!」
ただ、お前は知ってたか、と問うた問いに当たり前のように吾郎の退院の話を口にする
慎吾に、木村はそれでも何の疑問も驚きも感じない。
いつの間にか自分と慎吾の間の共通な話題は専ら吾郎の事に終始していた事を改めて
思い知らされた気分で。
怒ったように早口で紡がれる言葉達を、木村はただ、黙って聞いている。
「なのにさ、ほんとに突然。木村くんがアメリカに出発した次の日、突然、朝、電話
掛かって来て。『退院、決まったんだ』って。で、俺が『おめでとう!良かったじゃん!
いつ?』って聞いたら『今日』って。はぁっ?!って。最初、吾郎ちゃんの言ってる
事の意味が分からなくて。『今日、って、何、言ってんの?』って。最初はふざけてんの
かなぁ、って。けど『今日の午後、退院するんだ、俺』って、吾郎ちゃん、俺に念押す
みたいにそう言って。『その足で羽田行って、そのまま渡米するつもり』って、まるで
俺達がその事知ってるみたいな当たり前な口調で。顔、見えなかったから、吾郎ちゃんが
どんな顔してたのか、なんて想像もつかないけど、多分、ふっつーの顔してたんじゃないか、
って思えるし」
その時の様子を詳しく話す慎吾の言葉が、ずっと木村の鼓膜に突き刺さり続ける。
「俺、すっごいビックリして。渡米って何?!って。アメリカ行くって事っ?!って」
恐らく、その時、吾郎に返したままの口調で慎吾がそう叫ぶのを聞いて、僅かに木村の
口元が歪む。
あるいはそれは笑みだったのかも知れないけれど。
余りに簡単にその時の慎吾の様子が想像がついて、その事だけが、ほんの僅か、木村の
気持ちを緩めたけれど。
「本当に冗談じゃなかったみたいでさ、病院で看護師さん達とかみんなから、花束とかさ、
プレゼントとかさ、山のようにもらってさ、『長い間、お世話になりました』って、まるで
お嫁に行く花嫁さんみたいなセリフ言ってさ『みなさんもどうか、お元気で』とか、
あり得ないぐらい当たり前のふっつーの挨拶とかしちゃって。そのまま、秘書の人と一緒に
タクシー乗って、羽田行っちゃったんだよ、吾郎ちゃん」
一生懸命に説明し続ける慎吾の言葉を、どこか他の世界の出来事のように感じながら、
それでも、そんな光景を簡単に脳裏に浮かべる事が出来て。
最近ではすっかり明るくなって、いつも大勢の友人達に囲まれて楽しそうにしていた。
こんな急な退院の知らせであっても、駆けつけてくれた人間はきっと、大勢居たはずだ、
とそんな確信は持てて。
自分がその中の一員に加えられなかった事の痛みからは、敢えて、目を背け続ける。
「俺とつよぽんもタクシー拾ってさ、その後、追い掛けて。羽田に着いたらさ中居くん、
来ててビックリしたよ」
中居の名前にふと反応仕掛ける自分が居る。
吾郎と自分の過去を唯一、知る人間。
吾郎本人ですら記憶していない過去の関わりを記憶していた唯一の。
「中居くん、吾郎ちゃん見るなりいきなり掴みかかってさ、すんごい剣幕で怒ってて。
『何でこんな真似すんだっ?!』って。『何でちゃんと木村に知らせないんだ』って。
『木村がっ!木村がどんだけおめぇの事、本っ気で心配してたか知んねぇのかっ!』って。
『木村は!木村はなぁ!ずっと、ずっと、おめぇん事だけ考えて、おめぇのためにって』
って。涙目でさ」
そんな中居の姿が余りにも簡単に脳裏に浮かんで。
視界がぼんやりと滲む。
「『おめぇ、木村に何か恨みでもあんのか』って」
そこで一旦途切れた慎吾のセリフに木村は、一瞬、自分の心臓さえ止まった気がした。
その問いに対する吾郎の答えを聞くのが怖くて。けれど、聞かずにはおれない気持ちで。
木村は懸命にその手の中の小さな機械が伝える声を待ち続ける。
「吾郎ちゃんさ、恨みなんかないけど、って・・・・」
電話の向こう側、慎吾の脳裏にその時の光景が蘇る。
「今、中居くんが言った通り、木村くん、俺のために一生懸命になってくれてた。ほんとに
俺の事だけ考えて、俺のためだけに生きてるんじゃないか、って思えるくらい」
吾郎が弱い苦笑を浮かべる。
中居は相変わらず、吾郎の襟元に手を掛けたまま、至近距離からその目を見詰める。
吾郎の真意を、吾郎の本音を探り当てようとするかのように。
決して、表面上に装った吾郎の表情に、態度にごまかされまいとするかのように。
ただ、真実だけを、吾郎の本当に気持ちだけを求めるように。
「最初はずっと、変なヤツって思ってた。けど・・・・何かそのうち、段々、そういうの、
怖くなった、正直に言うと。俺の仮退院の話が決まりそうになった時、木村くん、自分ちに
来ないかって、って言って。もう子供じゃないんだから、実家に戻るより自立した方がいい
って。始めからいきなり一人暮らしって言うのも心配だから、自分ちに来て、生活とか
仕事とかそういうのに慣れるまで居て、それから自立すればいいんじゃないか、って」
「・・・・・・」
「木村くんの言う事は分かったけど、あり得ないでしょ?もうすぐ結婚するであろう
家庭にさ、なんで赤の他人の俺が転がり込める事があるんだよね?常識的に考えて
分かるじゃん、それぐらい。だからさ、そう言ったら、木村くん・・・・・当分、結婚
なんかしない、って・・・・・」
「・・・・・・」
「俺、そん時、正直、ほんとに・・・ほんとに、本気で木村くんがそう言ってるんだ、って
分かって・・・・けどさ、何で?何で、たかが一受け持ち患者に過ぎない俺のために
『当分、結婚なんかしない』って言っちゃう訳?って」
そうして、一旦、目を伏せ、弱く溜息を吐いた吾郎は、もう一度、視線を上げて、真っ直ぐに
中居を見詰め返し。
「なのにさ、俺ね、一瞬、そうしてもいいのかな、って思いそうになっちゃったよ。木村
くんが俺の事思って、俺のために一生懸命になってくれる事、段々、嬉しいって思える
ようになって、木村くんが俺に元気になって欲しいって思ってくれてるんだったら、俺も
元気になりたいって。元気になって木村くんに喜んでもらいたい、ってそう思ったりする
ようにもなってて。木村くんに頼って、木村くんに甘えて・・・・そういうの、居心地
いいって感じ始めてて」
「・・・・・・」
「けど、そういうの、違うでしょ?ずっと、このまま、木村くんに甘えて頼って、って。
一生、そんな風にして行ける訳もなくて。俺には俺の、木村くんには木村くんの人生って
ある訳じゃん?いつまでも医者と患者って関係でもない訳だし」
「・・・・・・」
「俺のせいで、大切な結納の席まで途中で退席させちゃった事、あれは結構、決定的
だった。木村くんもさ、すんごい怒ってて。俺がみんなに迷惑掛けたからさ・・・・
俺が何かすると木村くんに迷惑が掛かるって言うのも・・・・嫌だったし・・・・」
「・・・・・・」
「俺と関係がなくなれば、何かあっても木村くんに迷惑掛かる事とかない訳でしょ?
木村くんにはちゃんと木村くんの人生、見詰めて欲しかったし。けどさ、俺居ると
いつまでも・・・・何か・・・俺の思い過ごしかもしれないけど、元気になってからでも
やっぱり、今とあんまり変わらない気がしてさ・・・・」
「・・・・・・」
「だから、俺・・・・ま、凄く短絡的で自分でもこういうやり方はどうか、って思わなくも
ないけど、強硬手段に出る事にした」
「・・・・って、おめぇ・・・・」
漸く。
吾郎の襟元から手を下ろして。
ずっと、黙って吾郎の言葉を聞き続けて来た中居が漸く口を開いた。
「だったら何で。何で、木村にちゃんとその事、説明してやんねぇんだよ?こんなやり方、
マジで許される事じゃねぇぞ」
「だってさ・・・・どう説明していいのか、分かんないんだもん、今でも。何回も言った
んだよ。もっと、自分の事考えて、って。もっと、彼女の事も考えてあげてって。けど、
ちゃんと考えてるからって、俺にそういう事、言われたくないって。何かあんまりちゃんと
聞いてくれてない風だったし・・・・・」
中居は頭痛を堪えるように軽くこめかみを押さえ、眉間に深い皺を刻んだ。
「俺、どう言えば分かってもらえるのか・・・・自信ないんだよね。アメリカ行く事だって、
言えば絶対に反対されるだろう、って気がするし、引き止められると、決心揺らぎそうで
怖かったし・・・・・ねぇ、中居くん?中居くんからさぁ、上手く伝えといてくれない?
そういうの、色々」
「バカかっ!おめぇはっ!!」
唐突な申し出にそれまで難しい顔をして考え込んでいた中居の顔に驚きと僅かな怒り、
そして、同時に苦笑が現れる。
複雑そうな顔で吾郎の後頭部に軽く張り手を一発食らわせて、中居は溜息をつき。
吾郎が木村の自殺と関わっていた例の少年だと気付いた時に自分が抱いた懸念を思い出す。
いつか、その木村の前向き過ぎるほど前向きな熱意が吾郎の負担になるのではないか、と
不安を抱いた。
それが余りに的中していて、自分でも怖いほどで。
こんな事ならもっと熱心に、真剣に吾郎に対して、どう接しているのか、とか、そういった
事を具体的に聞いて、それなりのアドバイスをしてやっておくべきだったか、と。
今更ながら、過ぎた事を悔やむ自分が居る。
こんな決断をせざるを得ない所まで追い詰められてしまった吾郎も気の毒だし、この現実を
そう遠くない将来、必ず突きつけられるであろう、木村の動揺も思って。
「いいか、吾郎、俺はぜってぇ、そんな頼み、引き受けねぇからな!どんなに時間、
掛かっても、ちゃあんとおめぇの口からおめぇの気持ち、木村に伝えろ!口頭でもいいし、
言い難けりゃ手紙とかって手もあんだからよ」
中居のセリフに吾郎は無言の眼差しを返しただけで。
中居に言葉を尽くして説明していた吾郎の思いを慎吾にしてもどう伝えていいのか、まるで
想像もつかない。
言葉を詰まらせて黙り込む慎吾の耳に酷く弱い木村の声が辛うじて届く。
「・・・・・いいわ、もう」
そうして、あっさり電話は切れて。
「あ?!木村くんっ?!木村くんっ!!」
慌てて呼び掛けて見るものの、当然、返答はなく掛け直して見ても、電源そのものを
切られてしまったらしく、繋がらず。
せめて、中居と連絡を取るように言うつもりだったのに。
明らかに途方もなく落ち込んでいる風の木村の様子は簡単過ぎるほど簡単に想像もついて、
慎吾は木村の留守電にメッセージを残した。
翌日。
半分、亡霊のような状態で出勤して来た木村に、婦長が1通の封書を差し出す。
「吾郎くんから木村先生に渡して欲しい、と言付かっておりました。昨日、お渡ししようと
思いましたのに、先生、凄い勢いで飛び出して行かれたから」
聞いているのかいないのかすら分かりかねる反応の木村の手にそれを押し付ける。
のろのろと、覚束ない手つきでその封を切った木村が、その場でそれに目を通し始め。
『木村くん、お帰り。学会はどうだった?成功した?
こういう形でいきなり退院しちゃってごめん。
俺の突然の退院に関して、きっと、酷く腹を立てている事だろうと思うけど・・・・
木村くん、今まで本当に色々とありがとう。
木村くんが俺をここまで元気にしてくれた事、本当に感謝しています。
一人で勝手に外出した日、ほんとはそういう気持ちを形にして木村くんに伝えたくて
って思って起こした行動だったけど、結局、迷惑を掛ける形になっちゃって、ごめん。
あの時のプレゼントと同程度の額の商品券を同封しました。
木村くんが自分で気に入るもの、何か買って下さい。
これからもお元気で。レイコさんとお幸せに』
こんな形で、こんなやり方で、自分との接触を絶ってしまった吾郎に、確かに無性に
腹立ちは募るものの。
それ以上に昨日、その事を知った瞬間から自分を捉えているものは、果てしない喪失感と
虚無感。
何を聞いても、何を見ても、何もかもが自分とは関わり合いのない、どこか別の世界で
起きている出来事のようで。
無味乾燥な日々。
食べる事や眠る事、そういう日々の必要最低限の営みでさえ忘れがちになり。
それでも、どうにか仕事だけはこなせるのは、その事が吾郎と自分を繋いでいた唯一の
手段だったから。
その姿だけはどうしても、見失いたくなくて。
そうする事で、今でも、吾郎と繋がっていた自分を見出す。
こんな風に、ある日突然、忽然と姿を見る事さえ出来なくなってしまった事で、木村の中には
ふと、子供の頃の自分と吾郎の関係が浮かんだ。
・・・・嘘だ。木村くん、知らないから、そんな風に言ってるだけじゃん。
・・・・その人、俺に感謝なんかしてないよ。・・・・急に来なくなって・・・
突然、退院するって言いに来て・・・・訳わかんないよ・・・・
俺と友達になりたいとか言ったくせに・・・・俺、そんな事言われたの生まれて
初めてで凄い嬉しかったのに・・・・・けど、結局・・・・
押し殺した低い声で呟かれた吾郎の言葉は、心の悲鳴にも似て。
自分が吾郎の病室に訪れた後、決まって発作を起こす事を知ってからは、吾郎を苦しめる
ために存在しているような自分が嫌で、そうして吾郎を苦しめたいがために、吾郎に近づいた
訳でもないから。
本当は毎日でも会いたい気持ちを懸命に抑えて、吾郎を苦しませたくない一心で。
けれど、そうした木村の行動は一層、吾郎の心を傷つけただけだった事を知った。
あの時、どうして、きちんと吾郎と向かって自分の考えや気持ちを伝える事を自分は
しなかったのだろう。
勝手な判断で勝手な思いで、それが吾郎のために最良の行動なんだと信じて。
退院後も吾郎がそこに居る事は分かっていて、それでも自分は一切のコンタクトを取ろうとも
しなかった。
元気に退院してしまった自分を吾郎がどう思うか、分かり得なかったし、元気な自分と
病気の吾郎。
自由気ままに生きられる自分と、不自由な拘束の中でしか生きられない吾郎。
相対的な関係の中で、自分はそんな吾郎とどう接して行けばいいのか、到底、想像も
つかなかった。
ただ、自分に出来る事は一刻も早く医者になって、吾郎の治療に役立つ人間になる事。
それだけを念じて、ここまで来たけれど。
こうして振り返れば、余りに稚拙だった自分に苛立ちと悔しさ、苦い後悔が募る。
あの時、吾郎はそうした自分の行動の意味を知る事さえなく、突然、姿を見せなくなった
自分の行動に酷く傷つき、心をそれまで以上に硬く閉ざして。
今、自分が逆の立場に置かれて、初めて、あの時の吾郎の痛みと恐らく、同等であろう
痛みを感じる。
吾郎には吾郎なりの考えも気持ちもあって、起こした行動である事は分かる。
ただ、その気持ちの在り処が明確に自分には伝わって来ない事を感じるだけで。
それとも、あの最後に託された手紙が吾郎の気持ちの全てなんだろうか。
自分が腹を立てているだろう、と、ただ、その事を詫びているだけにも受け取れるような
文面。
一応の感謝の言葉と。
ここ、最近、ガラにもなく立て続けにその言葉を口に上らせていたのは、こういう事だったのか、
と、漸く、気付く。
あの時点で恐らく、既に吾郎の頭の中ではこういうシナリオが描かれていたんだろう。
そのための準備を着実に進めていたに違いない、と。
そんな事は容易に想像がつくのに。
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