その日、いつものように訪れた吾郎の病室は、珍しい事に誰一人として遊びに来ている
人間も居なくて。
以前のようにひっそりと静まり返っていた。
病室の窓を開け、窓辺に佇んだまま外を見詰める吾郎の後ろ姿を見止めて、その背後に
そっと近づく。
「んだよ、珍しいな。今日は誰も来てねぇの?」
その背中に声を掛けて。
「うん。何かね、みんな忙しいみたい」
ぼんやりと窓の外に視線を流したまま、吾郎は木村を振り返る事もなく声だけを返して。
白い息が窓の外に踊り出て行く。
「寒くねぇの?そんな格好で窓、開けたりとかして」
「始めの頃、良く、言われたよね?何で、外、見ねぇの?って」
木村の問いには答えず、吾郎は何か物思いに耽るようにそんな言葉を続けて。
「あ?おぅ・・・まぁな」
「外なんか大っ嫌いだった。窓を開ける事さえ嫌だった。外の世界が嫌いだったよ、ずっと」
「・・・・ん・・・」
「自分を拒絶して受け入れない存在だと思ってた。この病室の中だけが、俺に許された
唯一の空間だと思ってた」
「・・・・・・」
「なのにさ、初めて会った時さ、木村くん、いきなり俺の事、外に連れ出したりとかしてさ」
「・・・・・・」
「すっごい寒くてさ。息とか白く凍ってさ。土とかも冷たくて」
「・・・・・・」
「俺、ほんと死ぬんじゃないかと思ったけど、発作とかも全然起きなくてさ。凄い不思議で。
その時、木村くん、言ったよね、知識じゃなくて、ここで感じる事が大切なんだって、
心臓の辺り、押さえてさ」
「・・・・だったっけかな?」
「変なヤツが来たなぁ、って思ってた。木村くんはいつも俺の都合なんかお構いなしで、
俺の事、勝手に引っ張り回して。今までずっと、みんな、俺のご機嫌伺うヤツしか居なかった
のに、木村くんだけは全然、違ってさ、勝手が違って、俺、随分、振り回されたんだよね」
「でも、間違ってなかっただろ?」
「多少、って言うか、大いに問題あったとは思うけどね。俺の親がもし、もう少しでも
俺に関心持ってる人間だったら、即刻、担当、交代させられてたよ、きっと」
「けど、お前の親よりは俺の方がまだ、ましだろ?」
「さあ?」
「んだよ、それ」
「あの頃・・・・木村くんと初めて会った頃、一年後に自分がこんな風になってるなんて、
もちろん、想像もつかなかったし、そんな想像、する事さえ諦めてた。死にたくても、死ぬ
事さえ許されなくてさ、何で、こんな思いしてまで生きてなきゃいけないんだろう、
生かされてなきゃいけないんだろう、ってずっと思ってて」
「・・・・だったな」
「そんな俺を変えてくれたのは木村くんだし、こんな風になれたのも木村くんのお陰だと
思ってるし」
「・・・・改めて何だよ?」
「木村くんと出会えた事、俺にとっては多分、無駄な事じゃなかったんだよね、って」
「随分な言われようだな、無駄じゃなかった、とか」
「お陰で俺、気付いた事、色々あったよ。そういう意味でも感謝してる」
「・・・・ま、そういう態度、逆にお前らしいけどな。この前みてぇに面と向かって
「ありがとう」なんて言ってるよりはお前らしいわ」
「でしょう?」
漸く木村を振り返った吾郎が、にこり、と笑みを浮かべて、いつもと同じく、小さく、
首を傾げて。
「何かこうしてお前と2人で居ると、あん時に時間、戻ったような錯覚、しそうになんな?」
「・・・・・どんなに足掻いても時間が元に戻る事はないけどね?」
浮かべられた笑みは綺麗で、冷たくて、木村は本気であの頃に時間が戻ってしまったような
錯覚を起こしそうになる。
「明日、だっけ?アメリカに発つの」
不意に思い出したように吾郎がそんな問いを口にして。
「あ?おぅ・・・」
突然、話題が変わって面食らいながらも木村は頷いた。
「頑張って。もう準備は万端、整ってる?」
「まぁ、な?」
「俺が原稿のチェックとかしてあげようか?」
「お前に分かんのかよ?」
「どうだろ?」
「バカ言ってねぇで」
「気をつけて行っておいでよね?」
「おぅ。あ、そだ。土産、何がいい?」
「いらない」
「何で?」
「木村くんの趣味で買って来てくれるものってあんまり、俺の趣味に合いそうにないから」
「生意気言うなよ。相変わらず可愛げねぇな」
「俺らしい、でしょ?」
「かも知んねぇけど。可愛げのあるお前も嫌いじゃなかったりするけどな」
「じゃ、ご要望にお応えして、木村くんがアメリカから帰って来たら、可愛げのある俺
なんかもご披露して見せようか?」
「ばぁか」
軽く、その癖のある髪に手を弾ませて。
少しくすぐったげに首を傾げた吾郎が目を細め、軽く、木村の手を払う。
「帰って来たら、お前の誕生日だよな、ちょうど」
「あぁ、そうなんだ?」
「派手にやろうぜ」
「そうだね。楽しみにしてる」
「プレゼント、期待してろ!」
「エロ本、一年分?」
「ばっ?!お前、まだ、根に持ってんのっ?!」
「人聞き悪い言い方しないでよ。記憶してるだけだよ」
「くっだらねぇ」
「あぁんなバカバカしいプレゼントされたの、さすがに生まれて初めてだったから。
そういう意味で衝撃的だったよ」
「そりゃ良かったな」
「うん」
延々と続きそうな下らないやり取りを終わらせたのは吾郎の携帯の着メロだった。
「あ、ごめん、電話」
「あ?おぅ。剛?慎吾か?」
素早く携帯のディスプレイに目を落とす吾郎に、木村が当たり前のように問う。
「彼女」
「は?」
「慎吾がねぇ、紹介してくれて」
「って、おまっ?!いつの間にっ!!」
「一週間ぐらい前」
「付き合ってんのっ?!」
「一応」
「一応って・・・一応、って・・・・」
すぐには二の句が告げずに居る木村に
「あのさ・・・出たいんだけど、電話。速く出ないと切れちゃうよ」
吾郎が少し非難めいた視線を投げて来る。
「あ?おぅ・・・あぁ・・・・」
訳の分からない反応を返して、それでも、まだ、そこに呆然と突っ立っている木村に
「席、外して、って言ってんだけど?」
吾郎の声が温度を下げて、木村の耳に届けられる。
「あ、そっか。悪ぃ・・・・」
慌てて部屋のドアを開けた木村の後ろ姿を見送って吾郎は電話の回線を繋いだ。
「HELLO.I’m INAGAKI・・・・Yes.・・・・Yes.・・・・・」
小声で英語で会話を交わす吾郎の声は、当然、ドアの向こうの木村に届くはずもなかった。
どうにか無事に学会を終えて、その足で病院に立ち寄る。
散々、迷いに迷って買った吾郎へのお土産を手に。
お土産はいらない、なんて可愛げのないセリフを吐いていた吾郎だったけれど、それでも
わざわざ人が買って来たモノをまさか、捨てたりもしないだろうと。
いや、あいつだったら、気に入らなきゃ、やりかねねぇか。
一瞬、そんな思いが脳裏を走らない訳でもなかったけれど。
喜ばないかも知れないが・・・・
出来れば、喜んでくれて、あの笑顔を見せてくれればいい、そんな他愛ない希望に、それでも、
それを想像してこんなにも嬉しい気持ちが溢れて来る事が、自分でも不思議ではあったけれど。
「木村先生?!お帰りになられたんですか?!」
廊下ですれ違った看護師に酷く驚かれて。
帰って来ちゃいけなかったのかよ?内心でそんな下らない突っ込みをしながら、目指す
病室へ廊下を急ぐ。
ドアをノックし掛けて、一瞬、何か違和感が木村の中を掠めたが、敢えて、木村はその
違和感から目を背けて。
意気揚々とノックの音を響かせ、返事も待たずにドアを開け・・・・
もう一度、ドアプレートの部屋番号を確認して、そこが目的の部屋に間違いない事を確かめて。
恐る恐る室内に足を踏み入れる。
綺麗に片付けられたベッドは人が使っている形跡がまるでなく、そこここに見て取れた、
吾郎が在室していた頃の形跡さえ、何一つとして残されていないがらんどうな室内を、
ゆっくりと確かめるように隅から隅まで歩いて。
ふと我に返り、ナースセンターへ走る。
「吾郎はっ?!吾郎、どうしたっ?!もしかして、病室、変わったのか?!」
血相を変えて飛び込んで来た木村に、中に居た看護師達は互いに目を見交わして、けれど、
木村の問いに対して何の返答も返そうとする者もなく。
「吾郎は?!吾郎、どうしたんだよっ?!」
再び、同じ問いを声高に叫んだ瞬間、自分の背後から低く、落ち着き払った声が聞こえた。
「吾郎くんは退院しました」
「は?」
すぐにはその言葉の意味を理解しかねるように、木村は暫し、立ち竦み。
何かを口にしようと口を開きかけては、また、噤んで、その動きを何度か繰り返して。
やがて、そんな自分を落ち着けようとするかのように何度か大きく息をつき
「・・・・どういう事だよ?」
その事を告げた婦長を険しくねめつける。
「先生がアメリカにお発ちになられた次の日、主治医の先生と医局長の許可を得て、退院
しました」
次の瞬間、木村はもう、ナースセンターを飛び出し、今、入って来たばかりの廊下を
全力疾走で駆け抜けて行く。
「先生っ?!木村先生っ!!」
婦長の自分を呼ぶ声が微かに聞こえた気はしたけれど、今の木村には、その声に足を止める
精神的な余裕は皆無で。
病院の前でタクシーを拾い、目的地を告げて、何度も荒い呼吸を繰り返し。
吾郎の退院に際して、一度だけ訪れた事のある、やたらに威圧的な大きな門の前で居ずまいを
正し、呼吸を整えてインターフォンを押す。
「どちら様でしょう」
「木村と申します。吾郎くんはご在宅でしようか?」
押さえた低めの声でインターフォンに向かってそう告げ。
間もなく
「どうぞ」
声と同時に門扉が自動的に開いて行く。
美しく整えられたブリティッシュガーデン風の前庭を抜けて、邸宅の玄関に漸く辿り着く。
本当に漸くと言う表現が適切なほどに、歩くとその距離は結構なものに感じられて。
優雅な音色を響かせるドアチャイムを鳴らし、木村は身だしなみを整える。
「ようこそいらっしゃいませ。ご無沙汰しております」
木村を迎えたのは、何度か会った事のある面識もある秘書で。
そのまま、屋敷内の応接間に通され、一人待たされる事、数十分。
いい加減、苛立ち始め、タバコに指が伸び掛けた時、ノックの音が響いて、木村は慌てて
ドアを大きく開き
「吾郎?!」
確かめる間もなく、目の前の人影に呼び掛けて、唖然としてまじまじとその相手を見詰めた。
ドアの向こうに立っていたのは吾郎ではなく、初老の紳士で。
「初めまして。執事の河合と申します」
木村にソファに腰を下ろすよう勧め、自分もその向かいに腰を落ち着けて。
柔らかな物腰と優しげな眼差しが木村の失望と警戒心を、ほんの少しだけ和らげる。
「吾郎様の主治医でいらした木村先生でいらっしゃいますね?」
尋ねられて、取りあえず無言のまま頷き。
「その節は吾郎様が大変お世話になり、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げられ、木村は微かに居心地の悪さを感じながら、曖昧に軽く頭を下げて。
「あの・・・・吾郎くんは?退院後、何か変わった様子はありませんか?」
木村の問いに執事は僅かに目を細め
「吾郎様はこちらの方へはお戻りではございません」
そんな言葉を木村に伝えた。
「・・・・・は?」
その言葉の意味を探るように木村は、ただ、黙って相手の目を見詰める。
「ここじゃないとしたら、どこに・・・・吾郎はどこに居るんですか?」
「アメリカに」
「は?!」
「あちらの大学で医学を学ばれたい、と申されまして」
「はぁ?」
「退院後、こちらにはお戻りにはなられず、その足であちらにお発ちになられました」
「・・・・って・・・・」
予想もしなかった話の展開に、ついて行けない自分が居る。
「だって・・・・だってよ・・退院したら跡取りやるんだって・・・・親に自分の存在、
認めてもらって・・・・親の笑顔、見たいんだって・・・・そう言って・・・・なのに、
なんでアメリカ、なんだよ?なんで、医学、な訳?んな事、一っ言も・・・・・」
誰に問うでもない問いが独りでに唇から漏れる。
震える手で口元を覆い、深く項垂れて・・・・・
「退院の話だって・・・・何で、こんな突然・・・・誕生祝いのパーティーやるんじゃ
なかったのかよ・・・・俺んちで去年のクリスマスのリベンジって・・・・自分で言った
んじゃねぇか・・・・楽しみにしてるって・・・そういったのはお前だろ・・・・・」
そこが吾郎の家の応接間で、自分の向かい側のソファには執事が居る、と言う事でさえ、
もう、木村の中からは完全に消滅していて。
どういう経緯で、かは、全く、想像も出来なかったけれど、自分の出張中に吾郎が退院して
しまった事は事実で、その事を本人の口から自分に告げられなかった事はさすがにショック
ではあったけれど。
それでも、退院したのであれば、かねてからの吾郎の希望通り自宅に戻って来ているはずで。
だから、ここへ来れば会える、と。
それは確信に近い願いだった。
人気のない病室を見た時に感じた恐怖にも似た感情は、このまま、吾郎に2度と会えない
んじゃないか、と言う懼れ(おそれ)。
それを無意識のうちに感じてしまった自分を認めたくなくて、とにかく、ここへ来れば
必ず吾郎に会えるはずだと、自分に言い聞かせて。
けれど、その願いでさえ、今は完全に打ち砕かれて。
「あの・・・・連絡先、とかは・・・・?」
問う声が震えたのは、自分にとって認めがたい事実を突きつけられる確信があったから。
「それは・・・・お伝えする事は出来ません」
「吾郎が・・・?」
「木村先生が出張からお帰りになられたら必ず、こちらに来られるだろうから、と。そして、
退院の経緯や今、自分が居る場所の事などを必ず、お尋ねになるはずだから、と吾郎様は
申されまして」
「・・・・・・・」
「ただ、自分の連絡先等については、木村先生にお伝えしないよう、きつく申し付かって
おりまして」
深い深い溜息が漏れる。
吾郎の方から完全に自分との接触を絶った、という現実を突きつけられて、木村は何を
どう考えていいのか、まるで分からない。
想像すらつかない。
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