目を覚ますと部屋の中には一人きりで、それは当然の事だったが、静まりかえった
病室の中で自分の呼吸ばかりが聞こえるのは、どうしようもなく嫌だった。
この瞬間が吾郎に想像を越える苦痛を与え、諦めを与えてるとは、まだ木村も気付
いていない。
達観したような顔をしてテーブルの上を見ると、体温計がぽつんと置いてあった。
いつもなら木村が持って帰る筈のもの。
「忘れてる。馬鹿だな。」
独り言を言いながら手に取り、無意識に脇に挟む。
時間がたった事を知らす音と共に表示されたのは37.5と言う数字。
じっとそれを見つめていた吾郎はもう一度同じ動作を繰り返した。二度目に出た
のも同じ数字。
少し口元を緩めると、皺が寄ったパジャマを着替え、廊下に出た。そこは決して
親しみ深い場所ではなく、けれど心なしか緊張してる自分を嘲笑するくらいの 余
裕はあった。
ナースステーションに行くと、看護士達の驚いた声が吾郎を迎えた。
「吾郎君?!どうしたの?!」
「木村君は?これ、忘れ物」
「木村先生?ねぇ、木村先生どこかしら?」
あわてふためく姿に吾郎の視線が冷えていく。ここは、自分のいる場所ではない
と教えられてる気がした。
「木村先生なら503のお部屋です」
「じゃあ連絡取るからここで待ってたらどう?」
看護士達の声を聞きながら、吾郎は木村の話を思い出していた。
(おしゃべりな患者さんの所かな?)
「吾郎君?ね。ここで待ってて」
「行こう…かな。そこまで」
「えっ!?」
小さな呟きに周りの空気が凍った。
「冗談だよ。」
これまでだったらそう言って自分の言葉を否定したかも知れない。しかし、今日は
意見を変える気はなかった。
「503だね?行ってくる」
「待って!吾郎君!」
呼び止める声にも耳を傾けなかった。
「もしもし?!木村先生ですか?!今、吾郎君がそちらに向かっています!よろしく
お願いします!」
そんなヒステリックな声も気にならなかった。
それでも、さすがに病室が近付いてくると足取りが重くなり、部屋番号を示す プ
レートが見えた頃には心臓が大きく鼓動していた。
(どうしよう?)
そう思った時、目の前のドアが開いた。
「よっ!目、覚めた?」
「…うん。…あ、これ。忘れてったでしょ?馬鹿だな。」
驚いて一瞬息を呑んだ吾郎だが、木村のいつもと変わらない態度に肩の力が抜ける。
「や。忘れてったわけじゃないんだけど。」
「え?」
「起きたら計りたいだろうな、と思って」
「ふ〜ん」
気のない様子で下を向くのは感情を押し隠している時の仕種。期待に目を輝かせ
た 木村の表情には気付かない。
「…下がったよ。」
「ん?」
下を向いて言われた言葉をわざと聞き返す。
「熱、下がったよ」
下を向いたまま、しかし今度ははっきりとした口調で告げる。
「よし!じゃあ数学やるか!」
「え?」
「数学。熱が下がったらやる約束じゃん」
気負っていたものを全部一気に剥ぎ取られて、吾郎はただキョトンと見つめる 事
しかできなかった。
「そうだけど。確かめないの?」
「ん?」
「下がったかどうか確かめないの?」
真っ直ぐ見つめてくる瞳を真っ直ぐ見返す。
「確かめて欲しいの?」
「そうじゃないけど」
「じゃあ…何度?」
言外に込められたものを汲み取り、聞いてみる。
「7度5分」
「よかったじゃん」
「うん」
「何?」
まだ、すきっと晴れない表情を不思議に思う。
「目の前で計れとかいうかと思った」
吾郎らしい言葉に苦笑すると、木村は医者の顔を見せた。
「分かるし。」
「え?」
「確かに毎日計らせるけど、吾郎の体調位、顔見れば分かるし。」
「ふ〜ん」
「じゃあ戻ろうか」
あっさりとそう言い、来た方向に足を向ける木村を引き止める。
「うん。ねぇ、この部屋の患者さん、さっき言ってた人?」
「さっき?あ、うん。会ってく?」
普段と違う自分の行動を何も言わずに受け入れる木村の態度が吾郎の心をほぐす。
「そう…しようかな」
戸惑いながら小さく呟かれたその言葉にも木村は「ん」と答えるだけで、看護士達とは
まるで違う反応を見せた。
病室のドアをノックすると顔だけ中に入れて話しかける。
「ここに美少年がいるんだけど、入れていいですか?」
「え?美少年?!入って、入って!」
中からは吾郎が久しく聞いた事のない明るい女性達の声が返って来た。
「誰?先生の患者さん?」
「ん。患者っつうか、手の焼ける弟って所かな。」
そっと背中に手をかけると中へと促す。
「こんにちは」
「やだ〜!本当に美少年じゃない!」
「私、綺麗なパジャマに着替えとけばよかった」
「私もノーメイクよ」
「木村先生、なんで今まで隠してたの?」
吾郎の小さな挨拶に一気に反応が返ってくる。
「ねぇ、何君?お名前なんて言うの?」
文字通り目を丸くしたまま立ち尽くす吾郎の肩に木村がそっと手を置く。
「ほら、ちゃんと自己紹介しな」
「……あ、えっと」
聞き慣れた木村の声に我に返る。
「稲垣吾郎です。19才です。」
続く言葉に困って木村を見る。
「525の個室にいます。趣味はネットと…」
木村が笑いを滲ませながら言葉を繋ぐ。
「あら!個室にいるお坊ちゃまって吾郎君の事だったのね」
「こんな美少年だなんて聞いて無かったわね」
「個室ってどんな?ここよりずっと豪華なんでしょ?」
「食事も違うのかしら?」
木村の言葉を遮り話はどんどん続いていく。
「お坊ちゃまの口には合わないかもしれないけど、おばちゃんの娘がね、クッキ
ー 焼いて持ってきてくれたのよ。どう?」
「立ちっぱなしじゃ可哀相よね。座って、座って」
戸惑う吾郎は木村ばかりを見上げ、木村は強すぎる刺激を少しでも緩和させよう
と 笑みを作る。
「じゃあ、一つ頂いて、戻ろうか。」
「え?もう?」
女性達は反対したが、吾郎はその言葉にそっと息を付いた。
「疲れた?」
打って変わって静か過ぎる程静かな病室に戻り、木村が吾郎を気遣う。
「別に」
と言いながらも吾郎の顔色はいいとは言えなかった。しかし、
「疲れたら言えよ。」
そう前置きをして木村は約束の公式の説明を始めた。
食い入るように自分の指先が書き出す式を見つめる吾郎。
自分の言葉に引き込まれていく姿を見るのはまんざらでもなかった。
「以上。よって成立する、ってね。これにこの間の問題当て嵌めていけばすぐ解けると
思うよ。」
「ふーん。…なかなか説明がうまいんだね」
熱く煌めいていた瞳を一気に冷めさせ、吾郎は斜めに木村を見上げた。
「お前ね…。先生、ありがとう、とか言えよ」
「やだ」
途端に子供っぽい声になり、そっぽを向く。
「あのねぇ。」
「よかったね。俺が死ぬ前に教えられて、後悔しないで済んだじゃない。これで
俺もいつでも死ねるよ」
面白そうに木村を見つめる。それに対し
「ったく。そういう事…」
いつものように続けようとした言葉を木村はふと途切らすと口調を変えた。
「そんな事言ってると、次、分からない問題が出て来ても教えてやらないからな。」
「…いいもん。もう聞かなくても分かるもん。」
一瞬息を飲んだ吾郎はそれでも強気に返した。
「あっそ。ま、いいや。あ、一個さ、約束。」
「約束」と言う聞き慣れない言葉に吾郎は不思議そうに木村を見返した。
「熱が38度を越えたら大人しくベッドに入って寝ること。数学もパソコンも本も
禁止。」
「なんでよ!別に平気だもん!」
「ダメ〜。いい?お前は今、病院にいるの。」
「分かってるよ。そんな事。木村君よりも長くいるんだから」
「だったら簡単じゃん。ここで我が儘放題過ごしてるだけじゃなくて治る努力を
して貰わなきゃ。」
「そんなの。」
(分かってる)と返そうとして、しかし自分が治って元気になるビジョンが見え
ない 吾郎にははっきりと言い返す事が出来なかった。
「その為にはちゃんと主治医の俺の言う事は聞いて貰わないとね。分かりましたか?」
「……。何、いきなり先生っぽくしちゃって」
結局、従うしかない事が分かっていても素直に聞くのは嫌で盾突く。
「ん?吾郎君、お返事は?」
木村が気にせず続けるのも悔しくて堪らなかった。
「分かったよ」
口を尖らせ、不満そうに言う様子が木村は楽しくてしょうがなかった。
調子に乗って
「返事ははいでしょ」
と言うと、さすがにそれは嫌なのか睨んだまま吾郎は口を聞かなくなった。
「じゃあ俺、行くから。あんまり根詰めてやるなよ。」
「……。」
「じゃあな。」
「うん。」
木村と共に暖まった空気まで出ていってしまったかのような部屋の中、吾郎は ド
アがパタンと閉まる様子をじっと見ていた。
そして、静かにその目線をノートに写していった。
寂しそうな横顔と歪んだ口元。病室にまで伸びた木の葉だけがそれを見ていた。
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