「吾郎君、お昼ご飯よ」
許可なしに部屋に入ってくる看護士の声。
自分が寝ている時には珍しくない事だったが、今日はやけに耳についた。
言葉を投げ付けるのも欝陶しくて、寝たふりをしてごまかす事に決めた。
「寝てるのかな?お昼だけ食べちゃわない?」
うるさいな。知らずに眉間に皺が寄る。
出ていくのを待とうと体を固くするが、すぐに引き下がってはくれないらしい。
「吾郎君、起きて〜。お昼よ」
「いらない。持って出ていって」
横たわったまま、くぐもった声を返す。
「起きてるんじゃない。食べましょう。」
「いらないってば!出ていって!」
尖った言葉のかけらに看護士が怖じけづいたのを感じた。
これで、すんなり出ていくだろうと小さく息を吐いた瞬間、からかうような声が頭上から
聞こえた。
「今、なんて?」
チッと舌打ちでもしたい気分だったが逆効果だろう。顔を背けたまま固く口を閉じる。
「ん?なんて?」
返事を待つ様子もなく額に当たる手の感触。
ほてった額に心地よくもあったが、顔を左右に振り、払いのける。
「熱下がらないな」
自分の態度を少しも気にかけないのが酷くいらつく。
「どこかの新米医師が出した薬が良くないんじゃない?」
「3時間、そろそろ4時間か。下がって来てもいいんだけどな」
吾郎の皮肉は気にも留めないつもりらしい。
「もう、いいから出ていって!寝てればいいんだろ?寝てれば!」
「吾郎君。学習がないねぇ。」
「え?」
あからさまに侮った言葉に声を高くする。
「だから、胃の中に何か入れてないと薬が飲めないわけ。そうだな」
そういうと木村はメモに何か書き始めた。
「今の吾郎君に必要なものはこんな所かな。」
わざとらしい君付けに不機嫌そうな顔を見下ろしながら、面白そうに言葉を弾ませる。
「……」
「悪いけど、買い物頼んでいい?」
何を渡したのかと訝しげな目を向ける吾郎の様子は気にせずに、
外に出ていく看護士の為にドアを開ける。
パッと振り返った瞳の輝きが、今の吾郎には堪らなく嫌だった。
「もう、下がっていいよ」
この上なく高慢な言葉を言い慣れた風に言う吾郎。
さすがに木村が一瞬顔をしかめた。吾郎はきつい言葉が返ってくる事を予想して身構えた。
しかし、耳に入った言葉は
「や〜だね〜」
という、なんともあっけらかんとした言葉だった。
「はい。熱計って。ま、その様子だとまだだいぶ高そうだけど。」
意識せずともムスッと恨めしげな目になる。
「数学教室はまた今度かな」
「このままさ、このまま俺がよくならなくて、死んだらさ、君は後悔するんだろうね。
あの時、意地悪言わずに教えればよかったって。」
不機嫌そうに口を尖らせたまま上を見遣る。
「ま、でも安心してよ。人間、そう簡単には死ねないもんだから。」
最後に自分の言葉を鼻で笑う。それは吾郎の癖だった。
言葉を発しない木村の様子に二度三度と鼻を鳴らす。
「じゃあ、後味悪いのも嫌だし、今から教えとくか」
「え?」
「良くならなかったら、俺、後悔するかもしれないんだろ。嫌じゃん、それ。」
木村の言葉に吾郎の顔が固まった。
「冗談だっつーの。本気にすんなよな」
「してないよ!別に。・・・別に、本気になんて。死ねるなら本望だもん。」
少し高めの吾郎の声は興奮すると、甲高くなる。
そして、それは良くない兆候。
「分かった、わかった。熱計ってるんだから安静にね」
子供扱いする木村の態度が余計に吾郎を苛立たせる。
「君が!君が余計な事、言うか…」
ピクンと波打った体。血の気が引いていく顔。
苦しそうに丸めた背中に手をかける。
「ごめん。悪かった。」
「…どうせ…やっぱり学習がない…とか思ってるんでしょ」
苦しそうに息をしながら言葉を繋ぐ。
「あれ?分かっちゃった?」
「…もう、いい!」
ぎゅっと体を丸め、背にかかった木村の手を払いのける。
「だから、検温中だからさ。余計、熱上がるじゃん」
それに対する言葉は返って来なかった。
いたたまれない空気を押しやるようにドアが開けられる。
「先生。これでよろしいですか?」
「あ、サンキュー。ありがとう。」
「吾郎君、発作ですか?」
素早く吾郎の丸まった背中を確認したらしい。
「あ、うん。軽いから大丈夫。後は俺がやるから、もういいよ。ありがとう。」
ちょうど看護士が出て行った時にピピッと体温計がなった。
言葉もなくテーブルの上に投げ出される。
「38.5 もう少しだな」
カルテに書き込み終わると、木村は何やら作業を始めた。
袋をガサゴソ言わせたり、冷蔵庫を開け閉めする音が気にならなくもなかったが、
知らんぷりを続ける。
そうしてるうちに、ふと眠りに落ちたらしい。
目を開けると、
「おはよう」
と声をかけられた。
「お昼にするか。」
「……」
「はい、あーん」
冷たい物が口に当てられる。いらない、と首を振ることもできない強引さに仕方なく口を開ける。
冷たく、甘酸っぱい物が口に入って来た。爽やかな口当たりが美味しかった。
続けて口に運ばれるのを素直に受け入れる。三度四度と繰り返されるのを大人しく口に入れた。
「お!全部食べられたじゃん!偉い、えらい。」
「……」
決して子供扱いしてるわけではなく、純粋な褒め言葉に少し心のドアが開いた。
「もうちょっと食べれるか?」
「…うん。」
「今のがいい?昼飯っぽい方がいい?」
「さっきのでいい。朝の。俺、あれ全部食べなかったでしょ?」
「あれ」が自分が作ったおじやを意味するとわかり、木村の頬が緩む。
「美味しかった?」
「そうじゃないけど」
もごもごと布団の中で呟く声が聞こえる。
「そっか、そっか。よかった。冷蔵庫に入れといたんだ。今チンするから、それまで
これ飲んでな」
渡されたのはコップに注がれたスポーツドリンク。
「水分が足りなかったんだよな。気が付かなくて悪かった。」
見極めるように眺めた後、コクコクと両手でコップを持って飲む姿を木村は穏やかな瞳で
見守っていた。
「これで食後に薬飲んで一眠りしたら、今度こそ熱下がるわ」
本当に?と木村を見る吾郎の視線から、いつもの刺が消えていた。
他愛もない話を聞きながらした食事。
よく喋る患者さんの話。
面白いお掃除のおばさんの話。
不思議な看護士の話。
「ほら、手が止まってる」
と、注意されながらも用意された物を食べ切った。
「はい、ご褒美」
「ただの薬でしょ?」
「飲んで、寝て、目が覚めたら、気分爽快!」
「だといいね」
「お前ね」
可愛くない事を言うな、と頭を小突く。
「じゃあ、寝るから。なんか話してよ。」
「話?」
「さっきの続き。俺が寝たらやめていいから」
「はいはい。」
木村が話始めると程なく吾郎は眠りの世界へと落ちて行った。
「おやすみ」
まだ幼い寝顔にそっと呟き、部屋を後にした。
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