「いいか、まー坊。時間になったら、ちゃんと吾郎起こして、幼稚園行くんだぞ。兄ちゃんな、
もう、仕事行かなきゃなんねぇから。大丈夫だよな?ちゃんと行けよ。フケたりすんじゃ
ねぇぞ」
俺の兄貴の兄貴の兄貴・・・つまり、兄弟の中で一番上の拓哉兄貴が俺の前にしゃがみ
込んで、ぐっときつい眼差しでひと睨みくれながら、肩に置いた手に少し力を込める。
・・・・んな、ムキになんなくても、ちゃんと、行ってやるよぉ、よーちえんぐれぇ・・・
内心でそんな言葉を呟きながら、けど、面と向かってそういう言い方をすっと、うだうだと
お説教が続きそうでうぜぇので
「うん」
とだけ頷いておく。
「剛も慎吾も学校、行っちまうからな。吾郎とまー坊だけになっちまうけど」
「でぇじょーぶだよ、んな、心配しなくてもよ。起こしゃいいんだろ、吾郎をよ」
「・・・・正広」
いつもはまー坊とかちょっとふざけてた呼び方してる拓哉兄貴の呼び方が真面目なものに
変わって、ついでに声のトーンが低く落ちて、眼光が更に鋭さを増した。
・・・・やべ・・・
ほんの少しだけ身を竦めて、恐る恐る上目遣いで拓哉兄貴を覗き込んで。
「そういう乱暴な言葉遣い、しちゃダメだって教えてんだろ?吾郎はお前の兄貴なんだし、
そういう言い方良くねぇだろ?」
・・・・自分の言葉遣いも大概なもん、あっと思ぉけど・・・・
そうは思いはすっけど・・・・
じっと俺を覗き込むちょっと下がり気味の眦が、ほんの少しだけ柔らかく細められて。
「吾郎兄ちゃん、だろ?言って見ろ」
「・・・・・・・」
すー・・・っとこめかみの辺りが冷たくなって。
ぞわぞわと腕が鳥肌立つのを感じて。
「ほら、ちゃんと言って見ろ。吾郎兄ちゃん」
眼差しは優しげなのに、有無を言わせぬ押しの強さは伊達に兄弟の一番、長をやってる訳
じゃねぇ、って雰囲気バリバリで。
「・・・・・吾郎・・兄・・ちゃん・・・」
・・・うわっ・・・
一気!!
一気に全身、鳥肌立った!!
背中がぞぉぞぉと寒ぃのに、顔がかーっと火照って来る。
やべ・・・・涙まで出て来た。
そりゃ、確かに吾郎の方が兄貴だよ。けどよ、吾郎兄ちゃん、とかよ。
そーゆーガラじゃねぇじゃん。
俺が兄貴ってつけんのは拓哉兄貴だけだ。
吾郎がそんな風に呼んでっから・・・・
ちょっと余所行きん時は拓哉兄さんだったりもすっけど・・・
後は全員、吾郎、剛、慎吾。
大体、拓哉兄貴がそう呼んでんのを自然に覚えちまって、まだ、もっとちっせぇ頃は
それでも誰も何も文句、言わねかったじゃねぇかよ?
んだよ、何で?
何でよーちえんとか行くようになったら、急に、兄ちゃん、とかつけて呼ばなきゃなんねぇの?
今更、呼べっかよ、んなの、ハズイじゃん!!
それによっ!!
剛は吾郎の事『吾郎さん』とか呼んでんし、慎吾に至っちゃ『吾郎ちゃん』だぞ?!
実の兄貴に向かって、『ちゃん』づけとかよ、おかしいべ?!
いや、『さん』づけもじゅーぶん、おかしいだろぉよっ?!
なのに、なのによっ!!
なんで俺だけが『兄ちゃん』ってつけて呼ぶ事、強制されなきゃなんねぇんだっ?!
理不尽だっ!!
不公平だっ!!
おかしいだろっ?!
吾郎、でいいじゃん、吾郎、で!!
なのに。
「よっし!!そうだ。ちゃんとそう呼ばなきゃダメだぞ」
そんな俺の苦悩なんかには、てんでお構いなしで、満足げに拓哉兄貴は何度か大きく頷いて。
「そんじゃ、兄ちゃん、行って来るからな」
「・・・・・ん。行ってらっしゃい・・・・」
そんな拓哉兄貴に俺散々内心で愚痴った愚痴を、とても声に出せる気力さえ残ってねくて。
「じゃ、な」
頭にポンポンと手を弾ませて、兄貴はにこり、と女がでれでれと溶けてく、と噂に高い
スペシャルな笑顔を見せてリビングを出て行った。
8時15分。
吾郎の部屋のドアをノックする。
吾郎は二番目の兄貴で。
拓哉兄貴と違って毎日家に居るからプーなのかと思ってたら、小説家って仕事を一応、
持ってて、比較的、時間に融通がつく事を理由に家の家事とかも、片手間にこなしてる。
大抵は朝、こんな風にして寝坊するヤツじゃねぇけど、締め切り直後の朝は、こういう
事がちょくちょくあって。
だから、俺も慣れたもんで、あんなに一生懸命に念を押してくれなくても、それなりに
分かっちゃいんだけどな。
朝、吾郎の顔が見えねぇ時点でそうなんだろう、って想像はつくし。
「おら、吾郎!!起きろっ!!朝だぞ!!よーちえん、行くぞっ!!」
晩、ベッドの中に入った時のまんま、綺麗に仰向けの状態ですーすーと健康的な寝息を
立ててる吾郎は、まんま、この前、幼稚園でせんせぇが女どもにせがまれて、読み聞かせ
してくれた絵本の中の、スリーピングビューティーって感じだけど。
スリーピングビューティーって何だよ?とか思ってたら、眠り姫っつーんだって。だったら、
始めっからそう言え、っつーの。
そんな吾郎の肩を軽く揺さぶって見たけど
「・・・うーん・・・朝ぁ・・・?もうちょっと寝かせてよぉ・・・締め切りギリギリでさぁ
・・・・ほんとのさっき原稿Faxしてさぁ・・・・ベッドに入ったばっかなんだって
・・・・」
シーツを体に捲きつけて、吾郎は寝返りを打って、こっちに背中を向けた。
ふん!!
確かに締め切りギリギリで原稿、入稿したのはついさっきかも知んねぇけど、原稿書く前、
くっだらねぇ事して、時間潰してっからだろぉよ?!
同情の余地なんかねぇからなっ!!
俺ぁ、ちゃぁんとネタ、掴んでんだよ。
「起・き・ろっ!!起きろって!!よーちえんに遅れんだろぉがっ!!」
「・・・・よーちえん・・・?あぁ・・・まーくんか・・・もうちょっとだけ・・・・
あと、5分・・・・」
「起きろよっ!!起きろってば、起きろぉ!!」
ベッドによじ登り、吾郎の上に馬乗りになって、脇腹をくすぐる。
「ひゃっぁ?!」
妙な声を上げて、吾郎がまた、くるん、と体を反転させて。
「ちょ?!ヤメ!!やめてよっ!俺、脇、弱いんだってば!!」
きゃらきゃらと笑い声を上げて体を捩る吾郎が面白くて、俺は益々、調子に乗ってしまい、
逃げ惑う吾郎の脇を散々、くすぐり倒した。
「まーくんっ?!いい加減にしなっ!!本気で怒るよっ!!」
いきなり、ひょい、と制服の襟首を掴み上げられて、ドスン!とベッドの下に落とされる。
「いってぇなっ!!何、しやがんだっ?!」
モロにケツ、打って、ちょっとだけ涙の滲んだ目で吾郎のヤツを睨みつけてやったら、
吾郎は俺よりもっと涙目で、ごしごしと手の甲で目尻を擦りながら
「まーくんがいつまでも止めないから、悪いんでしょ?!」
とか、ちょっとヒステリックに喚いて来やがって。
これで、今年19だとか言うんだから、ほんと大人げねぇよ、こいつ。
「おら!さっさと仕度しろよ!!それでなくてもおめぇ、やたらと用意に時間かかるヤツ
なんだからよっ!!」
ベッドの下から、思いっきり、両手で吾郎の手を掴んで引っ張ってやる。
「ぅわぁっ?!ちょ?!落ちるっ!!」
案外、簡単に吾郎の体が引っ張られて、ベッドからずり落ちそうになり、慌てて、床に
手をつきながら、吾郎は今一つも二つも迫力に欠ける表情で、俺を睨みつけ。
「まーくんっ?!危ないじゃんよっ!!落っこちたらどーしてくれんだよっ?!」
とか。
・・・・いや、その高さから落っこちたって、全然、どうって事ねぇだろうよ?
第一、さっき、俺を落っことしたのはどこの誰だよ?!って内心で突っ込みながら。
「10分で仕度しろよなっ!8時半には家、出ねぇと間に合わねぇ・・・・」
言い掛ける俺の声なんか完全に無視して、パパパーッと着替えだけは手早く済ませた吾郎が
スタスタと部屋を出て行く。
んっとによ・・・・マイペースなヤツ・・・・
そうして、下に下りて、例の如く鏡の前にへばりついてんだろう、って思いきや、吾郎の
姿はそこにはなくて。
まさか、あの時間から更に朝シャンとかしてんじゃねぇだろうな、って、ちょっと蒼褪めながら
風呂場、覗いたら、そこももぬけの殻で。
「吾郎っ?!吾郎ぉっ!!どこ、居やがんだっ?!」
まさか、肝心の俺を忘れて、自分だけよーちえん、行っちまったんじゃねぇだろぉなっ?!
って、あながち、笑えねぇ想像を巡らせた所へ
「何?まーくん、もう、仕度出来たぁ?」
とか、間延びした吾郎の声が庭から聞こえて来て。
ひょい、とリビングのガラス戸から顔を覗かせると、庭一杯に拵えられた花壇の前に
しゃがみ込んで、朝の陽射しを一杯に浴びてきらきらと輝く花達を、丁寧に選定してる
最中で。
「・・・・おめぇ、何やってんだよ。朝っぱらからよぉ・・・時間ねぇっつーのに」
体から力が抜けて、ずるずるとリビングのフローリングに座り込みながら、俺は目一杯、
溜息をつく。
「え?あぁ。あんまり綺麗に咲いてたからさ、幼稚園に持って行ったらどうかなって
思ってさ」
片手に一纏めにした、小振りなブーケ大の花を携えて、にこにこと邪気のない笑顔で、
振り返られて、もうそれ以上は何も言えなくなる。
「・・・・・行こうぜ。時間だから」
「うん。ちょっと待ってよ。戸締り、確認するから」
庭に止めてある自転車のかごに花束を存外、適当に放り込んで、吾郎はそのまま、外回りから
簡単に戸締りの確認を済ませて。
「戸締り良し!まーくん、後ろ、乗りな。しゅっぱーつ!!」
俺が後ろの子供用かごに飛び乗るのと同時に吾郎はペダルをぐいっと踏み込んだ。
「うわっ?!」
「しっかり掴まってな!少し、飛ばすよ」
まだ、どう考えたって寝起きだろって思える吾郎の異常なテンションの高さに驚きつつ、
俺は吾郎の細い腰にぎゅっと腕を回した。
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