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その日、拓哉はたまたま、現場が早い時間に終わり直帰する事が許されて。
帰宅した時には、まだ、家は無人の状態だった。
ふと。自分が帰るまでの家の様子はどんななんだろう、とそんな疑問が湧いて。
ちょっとした悪戯心も手伝って、自分が今、脱いだ靴を下駄箱に仕舞って自分が帰宅
している形跡を隠し、それとなく、誰かが帰って来るのを階段の踊り場付近に身を潜め、
携帯などを弄りながら窺う。
時間的にもう少ししたら、恐らくは帰って来るであろう時間なのは分かっていた事もあって。
「たらいまっ!」
誰もいないはずの家に、それでも、そんな元気な声を響かせて玄関を飛び込んで来たのは、
まだ「ただいま」もはっきり発音出来ない程度の末弟の正広で。
その後ろに無言のまま続く姿は、自分のすぐ下の弟の吾郎。
そのまま、鍵とチェーンを掛け直し、末弟が脱ぎ散らかした靴を揃えて、自分も玄関を
上がり。
吾郎が真っ直ぐ向った先は仏間らしかった。
そっと足音を忍ばせ、自分もそこまで降りて来て、中の様子をドアの陰から少しだけ顔を
覗かせて窺ってみる。
仏壇の前でちょっと不思議な形に見えなくもない、あれは正座なんだろうな、と思わされる
座り方で、吾郎はただ、じっと前を見詰めている。
目を伏せて手を合わせて、と言うのでもなく、ただ、じっと。
けれど、その眼差しは酷く真剣なようでもあって、けれど、何も映していないようでもあって。
何の感情も汲み取れない平坦な表情。
あいつ、一体、何やってんの?っつーか・・・そんなにのんびり座り込んでる時間とかあんのかよ?
晩飯の支度だとか、後、何だっけ?結構、そこそこに家事もこなしてくれてんのは、現時点で
吾郎だったりすんだろ?
と、正直な疑問を拓哉に感じさせる程度に、吾郎は、ただその前に座り込んだまま、微動だに
しない時間がそこそこに続く。
自分が高校を卒業し、就職を決めて。
それからの家事分担のほとんどは、そろそろ受験体制に突入して部活を引退してしまって
いる学年でもある高3の吾郎が、必然的に引き受ける形に引き継がれていて。
元々、吾郎は帰宅部でもあったけれど。
「ごろぉ!」
リビングから仏間に続く入り口の方から、正広が入って来、そんな吾郎の身体を軽く揺さぶる
ようにして、膝の上に上がり込み。
「ちょ、まーくん、それ、やめてっていっつも言ってるじゃん!足、痛いんだって!」
正座を解いて、一応は、もしかしたら、あれはあぐらなのか?と思わされる座り方に座り
直した吾郎は、それでも、正広を膝に乗せる事は許さないようで、抱き上げて自分の隣に
下ろした正広をそのまま、押さえるようにして、少しの間、その頭を押さえていて。
「ごろぉ、腹減ったぁ・・・おやつ!」
「って、保育園で食べたんじゃないの?3時のおやつ。そんなにおやつばっかり食べてちゃ
ダメだよ。手、洗ってうがいして来た?先、着替えて洗濯しなきゃね。俺、着替えて来る
からさ、まーくん、自分でお着替えとか出来る?」
そうして、あっさり正広をその場に置き去りにして階段を上る吾郎を、暫く眺めていた
正広は、のろのろと自分で自分がいつも寝起きしている部屋に向ったようで。
自分で小さな両腕を目一杯広げて、タンスの引き出しを引っ張り、中を探って適当に服を
取り出し、自分で着替えをしている幼い弟の姿は、逞しさよりもある種の切なさを拓哉に
感じさせて。
思わず、自分が出て行き着替えをさせてやりたい心情に激しく駆られながら、それでも、
どうにか、それを思い留まったのは、自分の事を自分でこなそうとする末弟の成長を
妨げる訳には行かない、と言う思いで。
自分の脱いだ服一式を抱えて、それを洗面所まで運んで行く後ろ姿を追跡調査しつつ。
「あ、まーくん、ちゃんと自分1人で着替え出来たんだ?えらい、えらい」
棒読み丸出しの口調で。
正広の差し出す制服類を受け取りながら、吾郎がほんの僅か、極薄くではあるけれど、笑顔を
見せた事は拓哉にとっては、意外と言えば意外で。
おざなりに、仕方なしに伸ばされた風に見えなくもない手が、正広の頭にそっと置かれる、
そんなたどたどしい動きが、それでも、吾郎の精一杯の努力を示しているようで。
あんなにも声高に、激昂して正広を自分達で育てる事に関して、遺憾の意を示した吾郎は
その時、確かに正直に「兄弟としての愛着はない」と断言したぐらいでもあって。
それでも、こんな風に、その末弟との2人きりの時間を曲がりなりにも過ごしている事だけ
でも、実は、大した事なんじゃないか、と。
それはこれまで、まるで、拓哉の認識の中にはなかった感覚でもあって。
洗濯機をセットし終えた後、キッチンに移動し。
「ごろぉ?今日、何、作ゆの?」
腰ぐらいの位置から懸命に上を見上げる正広の仕草が可愛くて、思わず抱き締めたくなったり
などもしながら。
「・・・・・・何にしよっか・・・・」
はぁ、と溜息をつき、調理台の上に広げた料理本を押し遣り。
冷蔵庫を開けたり、ストッカーを覗いたりもしながら、一向にメニューを決めて取り掛かる
どころが、メニューが決まりそうな気配すらなくて。
キッチンからダイニングに移動し、椅子に腰を下ろしたまま、ぼんやりと頬杖をつく吾郎の
元に正広を絵本を持って来る。
「ごろぉ、読んで」
「んー?」
僅かに面倒そうに眉間に皺を刻み。
「字、教えてやるからさ、まーくん、自分で読めるようになりな」
そんな無謀な一言を投げつけつつ、吾郎は正広が示した本を手にリビングへまた移動して。
ソファに並んで腰を下ろし、一冊の絵本を両側から覗き込み。
柔らかな吾郎の声がリビングに満ちる。
途中までいい調子で続いていた朗読は、一瞬、震えて詰まった吾郎の声の後「今日はここまで」
唐突に断ち切られるようにして終わりを告げて。
「えー!もっと!」
しっかと吾郎の腕を掴んでしがみつく正広の手を、思いの外、簡単に外させて。
「続きはまた明日。時間ないの!夕飯の支度しなきゃ。また、拓哉兄貴に怒られるよ。
お前はうち帰ってから、今まで何やってたんだって」
その口調は幾らかは自分の言い方に似ているような気がしないでもなくて。
垣間見せた表情が、忌々しげに尖るのを目の当たりにして、一瞬、苛立ちが上りもしたが。
それ以上に、自分はそんなに吾郎に対して、小言や文句を言っていた記憶は、自分の方には
なくて、吾郎が自分に対して抱いている印象がそうなのか、と思うと、それはそれで
ショックでもあって。
「ロールキャベツと・・・・ポテトミントサラダ・・・にしようかな」
吾郎の小さな呟きが辛うじて拾え、お前、幾ら何でも、今からそのメニューは無謀過ぎる
から、ぜってぇやめとけっ!と進言したくなるのを必死で堪える。
・・・・・これは今日の夕飯も、何時に食えるか分かんなくなりそうだぞ
と、既に腹を括り。
やおら、準備に取り掛かるのかと思いきや。
「あ、お風呂掃除・・・忘れてた」
冷蔵庫からキャベツとミンチを取り出した吾郎が、今度はそんな呟きを洩らして。
「ふろそーじ!ふろそーじ!まーくんもしゅゆっ!」
どうやら「まーくんもするっ!」と宣言したらしい正広を伴って、吾郎はまた、今度は
浴室に移動して。
その背後、数メートルの距離を置いて、また、自分もその付近に移動する。
「ちょっ!まーくん!ダメだって。そんなに泡立てたら、ほら!ちょ!服につくよっ!」
スポンジに盛大な泡を盛って、あちこちを規則性なく磨き倒す正広の後を追って、適当に
そのアラをフォローしつつ、吾郎が悲鳴に近い声を浴室に響かせる。
「イェー!!泡泡怪獣ヒロゴン参上ーー!」
顔にも髪にも白い泡を躍らせ、ハイテンションで狭い浴室を飛び回る末弟に、既に早々と
戦意喪失したらしい吾郎が、ちまちまと屈み込んで、細かい所の掃除をしていたそこへ。
シャーーーーっ!!!
水音と共に高い方のコックに掛けられていたシャワーヘッドから勢い良く水が迸る。
「きゃあぁぁぁぁっ!」
今度ははっきり、吾郎の悲鳴が轟いて。
「まーくんっ!!ちょっ!何やってんだよっ!!」
明らかに怒りを露わにした吾郎が、暴れ回っていた正広の首根っこを捕まえ。
「わーーー。ごめんなさい、ごめんなさい!わざとじゃない!わざとじゃないの!ガン!
て、手、当たって、バーーーーって水!」
どうやら、故意ではなく事故だと訴える正広に、吾郎は降り注ぐ水飛沫の中に立ったまま、
ぐったりと疲れたように肩を落とし・・・・・・
「まーくん、もう1回、着替え、して来な・・・・」
その小さな身体を浴室から押し出し。
「ごろぉ・・・・?」
いつまでも降り注ぐ水を止めようとしない吾郎に不安を覚えたのか、振り返った正広が
小さくその名前を呼ぶ。
「・・・・あぁ・・・うん・・・大丈夫・・・・うん・・・何でもない、から・・・・」
正広に向って向けられるセリフが、酷く心許なげに水温にかき消され掛ける。
「ごろぉ・・・風邪・・・ひく」
「・・・あ、うん・・・」
ぼんやりと、瞬時、どこかを漂い掛けた思考を繋ぎ止めるように、吾郎はゆっくりと蛇口を
捻り。
間もなく水音は止んで。
「ごろぉ!」
正広がすかさず、吾郎にしがみつき、その手を強く握り締め、腰の辺りにぎゅっと顔を
押し付ける。
「な・・・んでもない・・って・・・大丈夫、だから・・・・まーくんまで濡れちゃうじゃん、
そんな事したら・・・・」
ほんの少しだけ腰を屈め、正広の頭に手を置き。
吾郎の声が震えているのが、寒さのせいなのか、それとも、他の理由なのか、拓哉はそれを
思い、唇を噛み締める。
両親の他界後、未だ、吾郎が自分達の前で涙を流すのを、実は、見た事がなかった。
その事が吾郎の精神の均衡に対して、何らかの影響を及ぼしている可能性は皆無ではない
かも知れない、と懸念しながらそれでも、自分達の前に居る吾郎はいつも、感情らしい
感情すら浮かべようともせず、低く冷たく凍えた態度ばかりを示すだけで。
まだ、正広に対して、こんな風に怒りの感情を露わにしている様子を垣間見て、幾らかは
ほっとしている自分さえいる。
ずぶ濡れのまま、それでも、先に正広の濡れた箇所を拭い脱衣場から追い出すようにして
着替えに向かわせた後、そのままの恰好のまま浴室の掃除をそこそこに終えて、勢い良く、
今度はちゃんと浴槽にお湯を溜めるための蛇口を捻って。
迸り出るお湯からもうもうと立ち上る湯気を、暫くの間、ぼんやりと立ち尽くしたまま
眺めている吾郎が居て。
・・・・・・おぉーい・・・お前もさっさと着替えねぇと風邪、引くぞ・・・・・
心の中でそんな呟きを拓哉が漏らした刹那、ふ、と。
吾郎の顔が上がり、視線がこちらに向けられるその僅か前、その空気を察知して咄嗟に
拓哉は首を引っ込め、すかさずトイレのドアの内側に身を潜める事にも成功し。
どうにか見つからずに済んだようで、吾郎の足音は間もなく自分の前から遠ざかって行った。
再び、キッチンに戻った吾郎の後を追うようにして、自分もその入り口辺りに身を潜めて
いたのを、けれど、今度は着替えを終えて、こちらに近づいて来る小さな足音を察知して。
おもむろに今度はその小さな姿に近づき、声を挙げようとするのを、身振りで制止する。
「しー!」
唇に人差し指を押し当てて、軽いウィンクと共に。
「拓哉兄貴・・・どしたの?」
「ん?ちょっとな、吾郎に見つかんねぇようにかくれんぼしてんだ。まー坊は俺の味方な。
吾郎に俺が帰ってる事、絶対に言っちゃダメなんだぞ」
「分かった。吾郎に見つかんなきゃいいんだな?」
「まー坊は普通にしてていいんだけどな」
「分かった」
何をどう分かってくれたのかは、多少、疑問ではあったし、けれど、ずっと2人の視界から
逃れ続けるのは、最初っから無理な事も分かりきっていた事もあって。
幼い正広がここで自分の存在を吾郎にうっかり暴露してしまうのであれば、それはそれで
構う事もないし、と。
普段なら恐らく、お目に掛かる事もないだろう吾郎の様子を幾らかは知って。
その実、これ以上にまだ、何かを見つけてしまう事を本能的に避けたい気持ちが働いた、
とも言えなくもなくて。
キッチンでの吾郎の様子はそれまでとは比にならないほどに、惨憺たる様相を呈してもいて。
火に掛けた鍋から蓋を取り、その湯気をまともに自分の顔にくらって「あっつ!!」と
叫んだその瞬間、手にしていた蓋は足の上に落ちて。
「あっちぃ!いってぇ!」
思わずしゃがみ込む吾郎の背中に、これ幸いと言わんばかりに正広がダイブして飛び乗って
来る。
「ちょー!まーくん、邪魔!あっちで遊んで来なっ!」
足を押さえたまま喚く吾郎に「1人で遊んでたってつまんねぇじゃんかよぉ!」正広は
ぷぅと頬を膨らませ、益々、きつく吾郎の首筋にしがみつく。
けれど、このご時勢ともなれば、危険過ぎて1人で外へ遊びに行かせる事さえ出来ず。
「庭っ!庭で遊んで来なよ!」
「庭なんかなーーーんも面白ぇ事なんかねぇもん」
「ゲームとかさ」
この際、多少の事には目を瞑り、とにかく、この慌しい時間だけでも正広から解放されたい。
「ごろぉも!なぁ、ごろぉも一緒に遊ぼうぜぇ!」
「ちょ!く、苦しいってばっ!首、締まる・・・って!」
どうにか正広の手を外させた吾郎が、ぜぇぜぇと肩で息をついた刹那。
「・・・・・あ、お風呂、お湯張ってるの、忘れてた」
おもむろに立ち上がり、吾郎が風呂場へ向う、その後ろを正広もダッシュする。
「・・・・・あれ?お湯、止めてある・・・・もしかして、まーくんが止めてくれたの?
ありがとね」
おざなりに言って吾郎はまた、キッチンに戻り。
「・・・・・って、あれ?俺、火、消してったかな?」
吾郎はコンロに置いた鍋の前で、また、首を傾げ。
「・・・・・ま、いっか」
低く小さく呟き、1つ、息を吐いて。
また、包丁を手に慣れない手つきで、今度はじゃがいもの芽をこそげ取っている様子が窺える。
「ごろぉ。俺もぉ!俺も手伝うー」
腰の辺りにしがみつき、必死にそんな訴えをする正広の動きに、吾郎の手元が狂い指に包丁が
当たり。
「・・・・・っつ・・・」
ほんの僅か眉を顰め、その指先から細く滴る赤い液体の流れを、吾郎はただ呆然と眺めている。
「ごろぉ!血!血!」
それに気付いた正広が慌てたように吾郎を揺さぶり。
それでも、これ、と言った反応を示さない吾郎に、正広は救いを求めるようにこちらに
突進して来る。
「・・・たくやあ・・・・!」
自分のすぐ傍でそんな声を挙げ掛ける正広の口を塞ぎ、チラと投げた視線の先で、吾郎は
まだぼんやりと指先を眺めたまま、こちらに注意を向ける気配はまるでなく、それはそれで
ほっとすると言うよりは、より危うい何かを拓哉に告げる。
正広を抱えて足音を忍ばせ、そっとリビングの奥に回り、救急箱を棚のボードの上から下ろして、
正広に言付ける。
「自分で絆創膏ぐらいは貼れるだろうからな・・・・・」
不安そうな正広にそう言葉を添えて。
「拓哉兄貴ぃ・・・・ごろぉ・・・痛くねぇんかな?血、出てんのに・・・痛くねぇんかな」
「・・・・・・もっと他に・・・あんなちっぽけな傷なんかよりも、もっともっと、痛い
とこがあんのかも知んねぇ、な、吾郎には・・・・・」
正広の頭に手を置いて。
これまで想像してみようとさえしなかった吾郎が抱え込んでしまっている痛みの、そのほんの
一端を拓哉は初めて知った気がした。
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