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「ごろぉ・・今日はもうラーメンとかにしよ?」
正広が救急箱を持って吾郎の傍に駆け戻った時にも、まだ、吾郎はぼんやりとゆっくり
滴り落ちるその流れを眺めているだけで。
「ごろぉ!絆創膏!絆創膏!」
救急箱の中からそれを取り出し。
「あ、シュッシュ・・・・」
正広が怪我をした時にいつも吾郎がそうしてくれる消毒の事を思い出し。
吾郎の手を引っ張るようにしてダイニングまで連れ出し、懸命に椅子を引いてそこに腰掛け
させて。
ティッシュでそぉっと吾郎の傷口から血を拭う正広の手の方が小さく震えていて。
「いいよ・・・・自分で出来るから」
その手から吾郎がティッシュを抜き取る。
「ごろぉ・・・・・痛くねぇの?」
淡々と。まるで人の傷口でも扱うように消毒を済ませる吾郎を、正広が覗き込む。
「・・・・・少し、ね。少し・・・痛い、かな」
「拓哉兄貴が・・・・・・」
「え?」
「拓哉兄貴が・・・・ごろぉはこんなちっぽけなキズよりもっと痛いとこがあんじゃねぇか
って・・・・・」
「・・・・・それ、って・・・・・」
一言、呟き掛けて、吾郎は溜息をついた。
「・・・・・貸してみろ」
ダイニングの入り口に姿を現した拓哉に、吾郎は別段、これと言った反応も見せず。
ただ、少し落胆の意を示し、静かに深い溜息をついた。
「・・・・・拓哉兄貴、帰ってたんだ・・・・・」
何の感情も灯さない平坦な顔つきのまま、吾郎はされるままキズの手当てを拓哉に委ね。
傷口を絆創膏で塞ごうとして、他の指と言わず、掌と言わず、にある古かったり新しかったり
する種々の傷跡に、拓哉は一瞬、その手を止めた。
弟の手をこんな風にまじまじと見る事など、当然、なくて。
いつの間に、こんなに・・・・・
キズだらけになってしまっていた事にさえ、自分は気付かずに居て。
手の止まってしまった拓哉を、吾郎が特に訝るでもなく。
うつろな眼差しがほんの僅か揺れて。
「・・・・・俺とまーくん以外の・・・・何か気配を感じてて・・・・俺・・・・もしかしたら、
・・・・・って・・・・」
口にし掛けた言葉は途中で掻き消え。
「・・・・・あるはず・・ない、のに・・・・そ、んな・・事・・・・・」
弱く、低く微かな息にも似た、それは確かな嘲笑。
泣いているようでもあって、笑ってもいるような。
「・・・・・ばかばかし、い・・・・・・」
「・・・・・吾郎、お前・・・・泣けよ」
「・・・・・は?」
「1回、思いっきり泣いてみろ」
「・・・・・何、それ」
「あんま、溜め込んでばっかだと、いつか壊れるぞ、お前。吐き出す事もしてやれよ、自分の
ために」
「・・・・・何も・・・溜め込んでなんかない」
それは一種、挑戦的に見えなくもない、けれど、その実、そこに込められた気持ちや感情を
汲み取る事もまた、不可能な不可思議な瞳が、自分を映し出すのを、僅かに不思議な感覚で
見詰めてしまう。
「・・・・・俺は俺で適当な所で折り合いをつけて、ちゃんとやってるよ。余計な心配は
してくれなくていい」
切りつけるような、突き放すような吾郎の物言いに、拓哉もさすがに言葉を失う。
「・・・・・今日の夕飯は俺が作っから。お前、今日は後の時間、自分の好きなように使え」
「いつだって好きなようにさせてもらってる。現時点での家庭環境の中で、ある程度の義務を
果たさなきゃならない事ぐらいは割り切ってもいるし。拓哉兄貴こそ。たまに早かったん
だったら、のんびりすれば」
向けられた言葉はそれでも、労わりや労いではない事は余りに明確に伝わって来た。
「お前、指、怪我してるしな」
「こんなのは日常茶飯事だよ。今まで授業でやる調理実習の時ぐらいしか、調理器具に
触った事だってなかった俺が、昨日、今日、初めて手にするような調理器具を上手く使い
こなせるはずもないよね。・・・・・俺、拓哉兄貴みたいに何でも器用にこなせるタイプ
でもないし」
「手とかこんななりながら・・・・それでも、お前、なんでインスタントとか、もっと楽
しようとか思わない訳?」
「・・・・・・別に。俺自身がインスタントは嫌いなだけ」
低くむっつりとそう答え、吾郎は椅子から僅かに腰を浮かせた。
「じゃあ、俺・・・・お言葉に甘えて」
「出掛けんのか?」
「・・・・・・ん」
「毎晩、明け方近くまでどこほっつき歩いてんだよ、お前」
「・・・・・・色々」
「やべぇ事とか・・・やってねぇよな?」
「・・・・・・何を基準にするかによっては・・・・多少はヤバイ事もあるんじゃない?
そりゃあ」
「何で?何でそんな風にして毎晩、どっか出掛けてかなきゃなんねぇんだ?もしかして、
バイトとか?」
「そんな健全なのじゃない事だけは、はっきり言っとくけど」
「じゃあ、一体、何で?」
「居たくないからに決まってるでしょ。ここには本当は1分だって1秒だって居たくない
と思ってる。けど、俺もそれでも一応はまだ家族の一員だから・・・・課せられた義務は
果たさなきゃいけないって思ってる」
「そんじゃあ、もし、お前の好きにしていい、っつったら・・・お前、ここ出てくつもり?」
「んなの、ぜってぇダメだかんなっ!!ぜってぇ、ぜってぇ、ごろぉはどこにも行かせねぇ
んだからなっ!!」
不意に2人の会話の中に幼い声が割り込んで来て。
そのまま、吾郎にしがみつく小さな手を4つの瞳が同時に捉えた。
「・・・・・まーくん」
「まー坊」
声が重なり、頭に置こうとした手もまた、重なった。
刹那、す・・と吾郎の手は離れ。
「だとさ?」
拓哉が吾郎を覗き込むようにして、その瞳を捉えた。
「・・・・・・分かってる。だから、俺、まだ、ここに居るんだから・・・・・」
軽く浅い溜息の後で、自分にしがみついている正広の背中をポンポンと何度かあやすようにして
優しく叩き。
「大丈夫。俺はちゃんとここに居るからさ」
「ほんとか?ほんとにほんとか?どこにも行かねぇ?」
「うん・・・・・」
「ぜってぇだぞ!ぜってぇ、ぜってぇなんだかんなっ!」
「うん・・・・・」
ちょっと諦めにも見えなくない面差しで、軽く睫を伏せた吾郎は
「夕飯の支度、拓哉兄貴がしてくれるらしいから・・・・一緒にゲームでもする?」
正広に向ってそんな誘い掛けもして。
「ごろぉとゲームかぁ。ごろぉ、マジ、よっえぇんだよなー」
「テトリスとかさ、ああいうパズル系だったら、ちょっとは出来るけど?」
「んー・・・けどなー・・・あっ!本!さっきの、また明日っつってた本!あれがいい!」
いい事を思いついたと言わんばかりに、キラキラと瞳を輝かせた正広に、吾郎は一瞬、眉根を
寄せたけれど。
「・・・・・分かった。いいよ、本、読んでやるから。俺の部屋まで持って上がって来な」
ふいっと身を翻すようにして。
正広の腕から逃れた吾郎は間もなくあっさり、拓哉と正広に背中を向けて階段を上り始め。
「良かったな、まー坊。吾郎、本、また、読んでくれるってよ」
くしゃくしゃと。
まだ、正広の頭に置いたままだった掌で、そのサラサラの髪をかき混ぜて。
正広がリビングのソファーから嬉しそうに抱えて来た絵本を手に、階段を上って行く後ろ姿を
見送って。
・・・・・あの本、まだうちにあったんだな・・・・・
既に表紙の絵の色が幾分褪せて、ページの隅から少し捲れ掛かっている箇所もあるような、
古い絵本を脳裏に浮かべる。
・・・・・多分、あれ・・・俺の記憶違いでないんだとしたら・・・・・吾郎が今のまー坊
ぐれぇん時に買ってもらった絵本じゃねぇのか・・・・・
誕生日だったか、クリスマスだったか、に。
プレゼントに絵本を強請るその感性が既に、当時の自分の感覚と余りにかけ離れていて、
その辺からして自分と吾郎とはどこか互いに、全然、別の次元で生きている気が、まだ、
幼かった自分の中には余りに強くあって。
喜んで、何度も何度も。
見れば、いつも、それを母親に強請って読み聞かせてもらっていた姿を、今も脳のどこかで
記憶している。
それをただ少し離れた場所から見て、面白くない、つまらない思いを抱いていた自分と一緒に。
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