ピピピピ・・・・
電子音が響いて脇に挟んだ体温計を吾郎が抜き取る。
「何度?」
「・・・・8度2分」
体温計を拓哉兄貴に手渡しながら、吾郎が切なげに息を吐いた。
「ごめん・・・・俺の責任だよ。今日も幼稚園、送ってったけど気付かなかった、まーくんの
様子、おかしかった事」
デコに掛かった前髪を細い指先で軽く梳きながら、吾郎が項垂れる。
「お前の責任なんかじゃねぇって。俺も朝、マー坊の顔見た時、いつもとおんなじだと
思ったし、誰の責任でもねぇって」
「けど、俺の方が長い時間一緒に居る。異変に気付くとしたら、俺の可能性が一番高い
はずだし、そうでなくちゃなんないって思ってるし」
「そんなに気負うなって。お前の方が参っちまうだろうが」
「けど・・・・・」
「大丈夫だって。熱出す事ぐれぇあるよ。っつーか。こんな風に熱出したのはあん時以来
だろ?その後はずっと元気だったんだから。お前は良くやってるよ」
項垂れる吾郎の頭に手、乗せて、拓哉兄貴がちっせー子供にするみてぇに、何度か軽く、
しゃくしゃと髪を弄る。
普段の吾郎だったらぜってぇさせねぇ事。
髪をこんな風に弄らせる、とか。
けど、今日の吾郎は拓哉兄貴にされるまんま、ただ、じっと辛そうに痛みを堪えるように
俺を見てる。
「まーくん、ごめんね?大丈夫?苦しくない?」
熱出してる俺よりも、よっぽど、苦しくて辛そうな顔されて、なんか、すげー申し訳ねぇ
気分になって来る。
「今日は俺が面倒見っから。お前、ちょっと休め」
吾郎の頭をぐっと掴むようにして押さえつけて、拓哉兄貴が吾郎の顔を覗き込んだ。
「でも・・・・!」
「いいから。たまには俺にもマー坊の世話、焼かせろよ」
拓哉兄貴が眼差しの中に優しさを滲ませる。
「お前の方がよっぽど病人みてぇな顔してる」
やっぱし、拓哉兄貴も俺とおんなじ事、思ってたんか。
「今日のとこは俺に任せとけって。お前が卒業してからずっと、うちの事もマー坊の事も
任せっきりにしちまって悪ぃって思ってた。だから、今回、マー坊が熱出したのだって
お前一人に任せっきりにしちまった俺の責任でもある訳じゃん?」
「そんなの・・・・・」
「正直、始めん頃はお前がこんな、マジでちゃんとうちの事とかやってくれるって思って
なかったし、マー坊の事も、子供苦手なお前がどうすんだ?とか思ってたけど、意外に
すげーちゃんとこなして、俺、マジでちょっとお前の事、見直したっつーか。うん。
真剣な話、割とマジで感謝とかもしちゃってっから・・・・・」
口元をシニカルに歪めて、ぱっと見は意地悪っぽく見えるその表情の向こうに照れが
見え隠れする。
「だからっつー訳でもねぇけどよ。たまにはバトンタッチ。お前、休め」
「・・・・・ん」
納得が行ったのか行ってねぇのか、ちょっと分かり辛ぇ反応を残して、吾郎は部屋を出て
行く。
それと入れ替わるようにして、今度は慎吾が部屋に顔を覗かせた。
「まーくん、熱出したんだって?」
そのまま、ずかずかと部屋ん中に入り込んで来て、おもむろにデコにでっけー手、乗せ
やがって。
マジ、重量感あんぞ、その手だけでも。
「あ、ほんとだ。熱いね。何度?」
そうしてベッド脇に座り込んでる拓哉兄貴の隣に同じように腰降ろしながら。
「8度2分」
「あぁ、結構あるね?」
頷いて慎吾も
「あの時以来だよね、まーくんが熱出すの」
さっきもちらり、と拓哉兄貴が口にしたのと同じセリフを吐いた。
あん時、あん時、って・・・・
別にどうって事ねぇ事なのに、なんでみんなこんなによっく覚えてんだよ、んな、下んねぇ
事、って。
本気で真剣にそう思う。
あん時・・・・・
俺がまだ幼稚園に入る前。
4歳ぐれぇん頃。
父ちゃんと母ちゃんが一遍におっ死んじまって。
そん時俺はまだ、やっと3歳になったばっかで。
当時、高3だった拓哉兄貴は、いきなり、俄然、一家の長たる責任みてぇなの感じたみてぇで。
それまで、散々、自分の好き勝手、やりたい放題でチーマーとかやっててよ、ほんと、
俺が言っちゃあやべぇだろうけど、どーしよーもねぇヤツだったくせに。
それが、親が死んじまって、いきなり、それまでの生活、すっぱり捨てて、ちょっとでも
生活費の足しになるように、ってガッコ行きながらバイトまで始めて。
ほんとは速攻、ガッコを辞めて働きたかったらしいけど、そう啖呵切った拓哉兄貴に
「えー、そんなのずるい。拓哉兄貴がガッコ辞めるんだったら、俺も辞めたいなぁ」って。
吾郎が呟いて。
「俺も別に行きたくてガッコ行ってる訳じゃないもん。親が行けって言うからさぁ・・・
正直、ガッコ嫌いだし授業料とかの無駄遣いだと思うんだよねぇ。二人してガッコ辞めてさ、
俺、うちの事とかやろっか?まーくんの面倒とか、どうすんの?」
って。
真顔で提案すんの聞いて、さすがに拓哉兄貴も頭、抱えちまったらしくて。
さすがに二人して高校中退しちまったら、最終学歴とかは中卒になっちまうし、それって
どうか、って思い直したらしいんだよな。
けど、後になって剛が言ってた。
あれって結局、吾郎の作戦だったんじゃねぇか、って。
頭ごなしに反対しても拓哉兄貴が自分の意見なんか聞いてくれるはずはないし、だったら
別の方向から拓哉兄貴が考えざるを得ない方法を取ったんじゃねぇかって。
結局、拓哉兄貴はガッコ辞めんの止めて、卒業するまでは拓哉兄貴のバイト代と親の保険金
とかで食いつないで、俺は保育園に預けられて、専ら、その送り迎えをしてくれてたのが、
当時、クラブ活動とか何もしてなかった吾郎で。
拓哉兄貴は親、いなくなってから半年ぐれぇでガッコ卒業して、とにかく、通勤に時間、
掛かんねぇとこ、ってすげー近くの土建屋に就職して。
高卒で何の資格も免許もなくて、だったらその仕事が一番、実入りがいいっつってた。
けど。今から思えば、高校卒業するまでの1年間、吾郎が一番、割り食ったんじゃねぇか、
って。
ガッコ行きながら保育園の送り迎えやって、家事は剛と慎吾と吾郎と3人でそれなりに
適当に分担してたみてぇだったけど、それでも、それぞれにクラブに入ってた剛と慎吾は
あんましアテにはなんなかったみてぇだし。
みてぇな話は何かの際にちょくちょく、剛だとか慎吾だとか、吾郎だったりだとか、
拓哉兄貴だったりだとか、それぞれの口からそれぞれにこんなだった、あんなだったって
話を聞かされたりだとかして、何となく知ってたりする俺なんだけど。
そんなある日。
珍しく慎吾が保育園に迎えに来て。
「まーくん、帰ろう」
って、頭の上に抱え上げられて、そのまま肩車されながら。
「吾郎は?」
って。
いつも、毎日、お迎えに来てくれてた吾郎じゃなくて、慎吾が迎えに来た事が、何か
すげぇ違和感あって。
「吾郎、病気なのか?」
って。
何となく心ん中がざわざわするような変な感じがして。
「え?元気だよ?今日もガッコ行ってたし。何かね用事があるんだって」
俺を肩に乗っけたまま、慎吾は何でもねぇ事みてぇにそう説明した。
・・・・・そっか。病気じゃねぇんだ。元気なんだ・・・・
そう思ったら、ほんのちょっとだけ、ざわざわしてた気持ちがマシになった気がして。
「アイスでも食べよっか?」
いつもは吾郎が乗ってるはずのママチャリ・・・・
それは母ちゃんがいっつも乗ってたそれで・・・・
俺を乗っける椅子をつけるためにはその形のチャリでないと不可能で。
家族ん中で、そういうスタイルだとかカッコだとかに一番拘るはずの吾郎が・・・・
それでも、俺を保育園まで送り迎えするためにそーゆーチャリに乗る事、嫌がりもせずに。
「え?だって当たり前でしょ?」って。
「歩いて送り迎えしてる時間的な余裕は残念ながらないし、距離的にもまーくんを歩かせる
には遠すぎるしね。だったら、そのチャリで送り迎えする以外に方法ないでしょ?」って。
そのせいって訳でもねぇんだろうけど、俺を送り迎えする時は当たり前にそのチャリが
使われてて。
けど・・・・・
なんか、すげー違和感・・・・
「無駄遣いしたら、また、拓哉兄貴に怒られんぞ」
「大丈夫、大丈夫、内緒にしてればバレないよ」
俺を振り返った慎吾がニカリ、と口を横に広げた笑顔を見せて。
・・・・・バレねぇって思ってる事自体が間違ってる気ぃ、すっけどな・・・
そう思いはしたけど。
で、アイスを途中で買い食いすべく、普段は通るはずのない道を通って。
「あれ?」
不意に慎吾がブレーキを握って、地面に足をついた。
「どした?」
「吾郎ちゃんだ」
その声は少し秘めやかな、僅かな悪戯っぽさを含んで。
「え?」
自転車の後ろ、慎吾の背中から伸び上がって、慎吾が見てる先を視線で追って。
・・・・・・・・・・・・
「吾郎ちゃんてばさ、用事があるとか言っちゃって、なぁんだ、デートなんじゃん」
制服姿のまんま。
隣に並んだオンナが嬉しそうに楽しそうに吾郎の顔、見上げて、何か一生懸命になって
話し掛けてる。
声なんか聞こえねぇけど。
そんなオンナに時々、視線合わせて、オンナの話に頷いたりなんかもしながら、吾郎も
笑ってて。
「吾郎ちゃんもさ、何だかんだ言いながら、結構、楽しそうにやってんじゃん」
にやにやと。
意地の悪い笑顔で慎吾は、とっておきの事を思いついたように楽しそうに声を潜めた。
「後、ついてって見ようか?」
思わずぎゅっ!!っと慎吾の髪、掴んで引っ張って。
「アイテ・・・っ!ちょっと?まーくん、何すんの?」
慎吾が簡単に俺の手、払い除けながら睨んで来やがんのを、思いっきり睨み返して。
「つまんねぇ事、言ってんじゃねぇよ。帰るぞ」
って。
吾郎から顔、背けて。
ぎゅっと目、瞑って。
・・・・・そうだよな、って。
吾郎だって・・・・俺なんかの面倒見てるよか、かぁいいコと楽しんでる方が嬉しいよな
って・・・・・
そうして、俺はその晩に熱を出した。
それから1回も吾郎は他の人間に送り迎えを頼まなかった事に俺が気付いたのは、吾郎が
高校卒業して、俺が保育園を卒園したその日だった。
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