|
【1】
一流大学とは言い難い、それでも、一応は大学を卒業するにはしたものの、就職難のこの
時代、どうにかそこそこに大手の出版社に就職を決める事が出来た事は、正直、奇跡に
等しいと感じていた。
特にこれ、と言った特技がある訳でもなくて、資格を持っている、と言う訳でもなく、
そりゃ、学生時代は何度か小説を投稿なんかもしてて、少しぐらいは掠った事もあったり
したけど、それが就職に有利に働いた、とは、幾ら何でも思わないし。
大学の就職課の職員の人でさえ、俺がその大手の出版社に就職が決まった、って報告した
時には本気で目を丸くして驚いてたし。
「稲垣くんって、凄い強運の持ち主なのかもね」とか。
褒めれてるようには聞こえないコメントで称えてくれたりもしたけれど。
そんなこんなで入社して半年。
ほとんど雑用係の域を抜けない仕事ばかりで、大手だからこそ、同期入社の社員でも
そこそこのキャリアがあったり、コネやツテがあったりで、それなりの仕事は全部、
そういうヤツらに回っちゃって。
「・・・・・はぁ・・・」
日当たりのいい席でコーヒーカップを両手で包んで、知らず知らずのうちに溜息が漏れる。
「何、たそがれてんだよ?」
斜め前の、やたらと散らかったデスクからチラリ、と意地悪い笑みを仄めかせて、中居さんが
顔を覗かせた。
一応、俺の指導係、みたいな立場の人で、それなりに何やかやと面倒を見てくれたりも
するけれど、正直、あんまり得意なタイプじゃないかなぁ、とか。
悪い人じゃないんだけど・・・・・
「いっちょ前に一仕事終えた男、みてぇな顔しやがって」
俺にちょっかいを掛けて来る時のこの人の、このまるで子供みたいな意地悪いノリには
正直、時々、うんざりさせられる。
仮にも先輩だから、そういう態度に対しても、あんまり強い抵抗だとか、非難だとかが
出来なくて、曖昧にいつも笑って流そう、とは心掛けてるんだけど、案外、しつこいん
だよね。
相手がさ、泣くとか怒るとか、本気になるまで続けそうな雰囲気の時もままあって。
そんな風にして、俺をイビって楽しんでる風なのが、余計に癪に障るし。
「そんな嫌味言うぐらいなら、仕事させて下さいよ」
机に突っ伏して上目遣いに中居さんを睨んで。
「仕事か?おう。仕事な。んじゃ、俺にもコーヒー淹れて」
「・・・・・・」
「コーヒー」
「・・・・・・」
「んだよ?何か不満?」
「不満って言うか・・・・・」
「不満って言うか?」
「もっと、ちゃんとしたまともな仕事、させて下さいよ」
「ちゃんとしたまともな仕事ぉ?」
「はい」
「おめぇがそれ、出来んだったら、俺も苦労しねぇっつーの。おめぇ、まともに仕事なんか
なぁんにも出来ねぇじゃん。パソコンやらせりゃ、茶、ぶちまけてデータ、ものの見事に
お釈迦にしやがるし。あれの修復すんのに一体、何人が貫徹させられたと思ってんだよ?!
コピー取らせりゃ、紙詰まり起こさせるし、FAXさせりゃ送信先を間違える。FAXが
壊れたからって作家先生んとこに原稿、取りに行かせりゃ、帰りのタクシーん中に忘れて
きやがるし。あん時はタクシー会社に連絡して事なきを得たけどよ。ほんっと、マジで
おめぇにどんな仕事やらしゃ、まともにやって見せてくれる訳?半年掛けて、やっと、
そこらのお茶汲みOL程度の仕事は出来るようになって。それの何が不満だよ?大体、
良く、そんなんでこの超多忙を極める出版業界に就職出来たよな、おめぇ。一体、どんな
すげーコネ、あんだよ?」
延々と続く中居さんの掠れた意地悪い声が漸く、そこで途切れて。
・・・・・そりゃ・・・・人よりちょっとトロいかも知んないけどさ・・・・
そんな風にボロクソに言わなくてもいいじゃんよ・・・・・
「って事で、コーヒー」
「・・・・・・」
「稲垣!」
「・・・・・はぁい」
渋々、重い腰を上げて。
仕事させてくれって言って、結局、お茶汲みさせられんだよね・・・・・
「あ、・・・稲垣くぅん、私にもお願い」
って・・・・
中居さんの隣の席の篠原さんまで・・・・
右手でマウス、クリックしながら、左手で気だるげに前髪をかき上げながら、そんなセリフ、
言って来るし。
・・・・・自分が淹れてよ。
男女雇用均等法だか何だか知らないけどさ、何で俺が彼女にまでお茶、淹れてあげなきゃ
なんないの?
同期入社じゃんよ・・・・・
とは思いはしても。
「稲垣くんの淹れてくれるコーヒー、美味しいのよね。やっぱり、こう、何て言うの?
美形が淹れてくれるお茶って、ただ、それだけで美味しいわよねぇ」
無言のまま、露骨に不満げな目つきで彼女を睨んだせいか、彼女はにっこりと嫌味な
笑みを添えて、独特の声がそんなセリフを紡いで。
「それは言えてるわよねぇ。訳分かんない作家先生の下らない我が儘に付き合わされて、
疲れ果ててフロアに戻って来て、稲垣くんみたいな可愛いコに『お疲れさま』とか、
ほんわりと笑顔添えてお茶、出してもらえた日には・・・・ほんと、心身ともに
癒されるって感じで」
篠原さんの斜向かいの席の、同じく同期入社の戸田さんまで、篠原さんの意見に同調する
みたいにそんなセリフを言って来たりして。
「吾郎ちゃんは職場の花だもんな」
向こうのデスクから、先輩社員の野太い声がフロアに響いて、割合騒々しいフロアに、
笑いが起こる。
・・・・・何が職場の花だよ。
そういうのは女性に対して向ける言葉でしょ。
嬉しくないって。
作家先生の我が儘かぁ・・・・
付き合わされてみたいよ、そういうのにさ。
お茶汲みだとかコピーだとかFAXだとか電話番だとか。
そういう雑用よりはよっぽどいいと思えるんだけどなぁ。
「で?いつんなったらコーヒー淹れて来んだよ?おめぇ、たかがコーヒー一杯淹れんのに、
何時間、掛かんだよ?んなんだから、いつまで経ってもまともな仕事一つさせてもらえ
ねぇんだろぉが」
冷たい中居さんの声が喉元辺りに突き刺さって来る。
「・・・・はぁい」
「返事は短く」
「・・・・・はい」
「あ、ついでに私にも」
「あ、俺も」
「自分も」
「私にもお願い」
・・・・・・結局、そこに居る人全員にお茶を淹れる羽目になっていた。
そりゃさ、就職出来た事は有難いと思うよ。
けどさ、こういう労働環境って、イマイチ、納得出来ないよね・・・・・
はーーーぁ。
転職しようかなぁ、って・・・・
けど、まだ、たった半年だもんねぇ・・・・
幾ら何でも見切りをつけるには早過ぎる、よねぇ、やっぱり・・・・
ベッドに寝転がって、目覚まし時計合わせながら、今日もそんな事を考えながら眠りに
ついた。
次の日。
「おぅ、中居、ちょっと」
編集長に中居さんが呼ばれて。
何もする事がないから、何となく呼ばれた中居さんを目で追ってしまう。
編集長の席までは、ちょっとここからは距離があって、話の内容なんかは当然、聞こえ
ないんだけど。
不意に。
「え?!稲垣を、ですか?!」
露骨に驚いた中居さんの声が、珍しくフロアに響いて。
中居さんは慌てたように、また、声を潜めた。
けれど、眉間には深い皺が刻まれて、何か只事ではない空気を如実に匂わせていて。
どうやら俺にも何か関係のありそうな話に、内容を聞き取れないもどかしさが募る。
途中、何度か
「いえ、ですが・・・・」
「まだ、あいつには・・・・」
だとか、何か否定的なセリフが漏れ伝わって来て、中居さんが一体、何をそんなに渋って
いるのかが、やたらと気になる。
「・・・・分かりました」
本当に渋々というニュアンスを露骨に漂わせながら、デスクに戻って来た中居さんは
「おめぇに仕事、させてやるわ」
想像していたよりずっと軽いノリでそんなセリフを俺に告げた。
「出掛けるから仕度しろ」
そう言われて、慌ててカバンを引っ掴み、中居さんの後を追う。
会社の前でタクシーを拾って、二人で乗り込み、目的地の住所を告げて、シートに体を
預け、軽く瞼を伏せた中居さんに
「どこ、行くんですか?」
当たり前の問いを投げる。
「・・・・あ?」
一瞬の間を置いて中居さんは低く
「作家先生んとこ」
と一言だけ呟き、後は露骨に話し掛けるなオーラを纏ってしまった。
|