翌日、午前7時半。朝食の時間。
7時の看護師の回診時には体温は7度8分。辛うじて8度は超えていなかった。
これで、次は朝食をきちんと食べて、処方された薬を飲んで・・・・
気分がそんなに悪くなければ窓を開けて、外の空気を入れて、ついでに少しの間、外を
眺めていろ、と。
更に、無理のない程度に身体も動かして見ろ、と。
パソコンを叩くだけじゃなく、本を読むとか言うのでもなく、とにかくベッドから出て、
売店だとか病院内の施設にも出掛けて見ろ、と。
院内だったら、もし万が一、何かあったとしても、すぐに発見が可能だから、と。
けれど、もし万が一の事が、もし、起きたとしたら外出許可は当然、下りなくなる事は
目に見えていて、木村はその事をこんな風に念押しした。
「自分の体調に関して、お前、自分で分かる、っつったよな?俺、それ、信じるから。
自分が大丈夫だと感じたらやってみろ。もし、ちょっとでも無理して全部が台無しに
なったとしたら、それはお前の責任でもあんだからな。お前の身体なんだから、お前が
お前の意思で決めて、自分で判断して自分で責任持つんだ。分かるか?」
「・・・・・ご大層に」
鬱陶しそうに眉を顰めて、それでも吾郎の態度はそれなりに、その事を承服しているようでも
あって。
「ま、始めのうちは俺も一緒にうろうろしてやるよ」
ぽんぽん、と幼い子供にするように軽く頭の上で弾ませた手を、吾郎は酷く邪険に払い
除けて。
「子供扱いしないでくれる?俺、そういうの好きじゃない」
「いいじゃん。俺はお前より年上で、お前は俺より年下で。俺と体張ろうなんて思うなよ。
甘える事も少しずつ覚えて、甘える事にも慣れろ」
「それと子供扱いされる事とは別次元の問題だと思うけどね」
温度のない瞳で自分を見返して来る吾郎に、木村はいつもの笑みを返してやった。
ノックの音が響いて
「おはようございます」
聞き慣れた、けれど、この時間に聞くのは珍しい声がして。
ドアから顔を覗かせたのは案の定、どうしてこの時間にここに現れるのか、と少しは疑問を
抱く相手だった。
しかも、いつも看護師が運んで来る朝食のトレイを持って入って来る。
「昨夜は当直だった?」
朝一番から顔を見る事がこれまで、まるでなかった事もなかったから。
「いや」
けれど、その事を想定して投げた問いはあっさり否定されて。
「看護師に転職でもした?」
「まぁ、それも悪かねぇけど、看護師なんかになっちっまったら、お前の我儘増長させる
だけだろうしなぁ」
「・・・・・・・」
「お前の外出に向けて、まぁ、主治医として全面的な協力を惜しまねぇ、っつー事で。
まずはその第一歩。朝食の調達」
そう言って目の前に置かれたトレイの上には、確かにいつも見慣れたパン食ではなく、
いつだったか木村本人が作ってくれたおじやの時と同じ器が乗っていて。
「栄養満点の中華粥。胃の負担が少なくて、消化吸収の点で優れてるからな。これだったら
運動量に決定的に欠けてるお前でも、昼辺りには腹、減るはずだから」
「・・・・・・・」
外出許可が欲しい、と。
たった一日のそれを可能にするために、そこまで心を砕いて、こんな時間に間に合うように
それらを用意してくれたと言うんだろうか、と。
吾郎は不思議そうに木村を見詰めて。
「今朝は7度8分。取りあえず、まずはクリア、滑り出しOKって事で。この調子で
ずっと、っつーより、こっから、もっともっと、体調整えて当日にしてぇじゃん?
恐々じゃなくて、楽々OK、万全の体調で出掛けたいじゃん。折角のデートなんだしよ」
楽しそうにそう口にする木村に
「最後の一言が余計」
きちんとそこに突っ込みを入れて。
どうやら、今回も木村のお手製らしい中華粥を恐る恐る口に運ぶ。
「・・・・美味しい」
思わず、素直な感想が口から漏れて、吾郎はその事を悔いるように、後はただ、無言の
まま、黙々と食べ続ける。
そんな吾郎の様子を、ベッドのすぐ脇まで引っ張って来た椅子に腰を落ち着けて、木村が
鑑賞している。
「・・・・ごちそうさま」
ゆっくり、時間を掛けて、それでも完全に器の中身を食べ終えた吾郎に、木村は満足
そうに目を細めた。
「やったじゃん。ちゃんと全部、食えたじゃん?」
その事が嬉しくて、吾郎が嫌がる事は承知で、髪をくしゃくしゃと弄ぶ。
案の定、不機嫌極まりない顔で、木村の手を逃れようと身体をあちこちに反らせながら
「ちょ?!やめてよ!そういう約束だったから全部、食べただけじゃん。何も木村くんが
そんなに嬉しそうに喜ぶような事でもないんだよ!」
イライラと言葉を荒らす吾郎にはお構いなしで。
「嬉しいに決まってんだろ?初めてだろ?ちゃんとまともに一食、全部食った事なんか。
それだけでも大進歩!すげぇじゃん。お前、本気なんだ?」
木村はにこにこと楽しげな笑みと共に、吾郎を真っ直ぐに見詰めて。
「・・・・・まぁ・・・こんな時間にさ・・・わざわざそのために朝ご飯まで用意して
くれた事、少しはさ・・・・」
吾郎は言い掛けた言葉を飲み込んで顔を逸らす。
「ん?少しは何?遠慮せずに言ってみな?嬉しかった?感謝した?感動した?俺の事、
少しは見直した?」
嬉々として、逸らされた視線の中に強引に顔を割り込ませて来る木村に、やっぱり、言う
んじゃなかった、と言う後悔が湧いて。
「君のそういう態度がなきゃ、少しは見直す事もあるかもね?」
つい、憎まれ口を叩いてしまう。
「年上の人間に君っつーな、っつってんだろ!お前こそ、ちゃんと学習しろ」
軽く頬を抓って。
「暴力反対」
「これはお仕置きっつーんだよ」
「お仕置き反対」
「痛くはねぇだろうよ?」
「・・・・・・」
確かに痛みを伴うほどのそれではなかったけれど。
「んじゃな。また、昼に来るから」
「もう、来なくていいから」
いつものやり取りと共に木村の姿はドアの向こうに消えた。
そうして、数日が過ぎて。
木村の口車に乗せられている気がしないでもないけれど、それでも、木村の言う通り、
これまでには考えられない素直さでもって(もちろん、口では散々憎まれ口を叩きつつ)
治療に専念しているせいなんだろう、これまで、自分にとっては当たり前でもあった
8度台の発熱をする事は一度もなく。
日に少なくとも3回以上ある検温の度にドキドキしながら、その数字を覗き込んで、
ほっと胸を撫で下ろす事を繰り返して。
この頃は漸く、その事も当たり前に感じられるようにもなり始めていて。
時には、図り損ねたのではないかと思えるような平熱の時もあり。
身体が軽くて気分がいい。
頭もすっきり冴えていて穏やかな気持ちで朝を迎えられる事が、こんなにも嬉しい事なんだと。
これまで一度も経験した事のない思いも知って。
そして、いつものように朝食を運んで来た木村の顔を見て、ふ、とある事に気付いた。
「・・・・あのさ、」
「ん?」
「木村くんて休み、いつ?」
全面的な協力を惜しまないと言ってくれた日から既に5日。
その全ての日、朝一番からずっと木村の顔を見ない日はなかった。
「医者って凄い激務なんだよね?診療の他にも山のように仕事あるよね?ここ最近、毎日
顔見てる気がするけど」
「あ?休み、か?何、もしかして、俺の事、心配してくれてる、とか言う?」
いつものふざけた物言いの木村のセリフに、あ・・・と吾郎は口を噤んだ。
そんな風に意識したつもりはなくて、けれど、自分の中で確かにそれに近い感情の動きが
あった事を感じている。
けれど、そんな事を素直に認める事はとても悔しい気がして。
むっつりと黙り込んだ吾郎に、木村は普段余り見せる事のない優しい眼差しを向けた。
「心配すんな。24時間不眠不休で働いてる訳じゃねぇから。今、俺がお前のために
してやれる精一杯の事をしてぇだけだから。お前が折角、その気になったこんなチャンス、
ぜってぇ逃す訳には行かねぇから。だから、お前は俺の事なんか心配してねぇで、自分が
元気になれる事だけ考えてろ。俺はそのためにやってんだから」
「・・・・・明日の朝食はパンがいい」
「パンか。わーった」
「じゃなくて、病院で出される朝食でいい。ちゃんと食べるから。食べられると思うから。
明日は朝から来てくれなくていい。・・・・木村くんのお手製には飽きた」
ずっと、顔を背けたまま、低い不機嫌そうな声でそんなセリフを綴る吾郎のそんな態度が
あきらかな照れ隠しである事ぐらいは、さすがにこの頃になれば、木村にも簡単に理解が
出来て。
こんな風に吾郎が・・・
自分の体調を案じてくれる日が来る、なんて、想像もした事がなかった。
胸の中に痛みにも似た熱いものが込み上げて来る。
「・・・・わーった」
木村もまた、吾郎と視線を合わせられずに、ただ、一言、そう頷くだけで精一杯だった。
約束の1週間が過ぎて。
その日は木村が望んだ通りの、この春一番の暖かい穏やかないい天気に恵まれて。
木村の運転する車で、ネットで検索済みの目的の洋菓子店に向かう。
駐車場で車を止めた木村に
「ちょっと待ってて」
と、言い置いて、吾郎はそそくさと木村を残して店内へ入って行く。
後を追おうかどうしようか、少しだけ迷って・・・
待ってて、と言った吾郎の言葉を結局、尊重する形で、少しだけシートを倒し、軽く
瞼を伏せる。
確かに24時間、不眠不休で働いていた訳ではなかったれど、それなりにハードな
1週間だった。
折角、前向きに治療に取り組む気になった吾郎に、それだけの見返りをちゃんと与えて
やりたかった。
その気になりさえすれば、ちゃんと快方に向かうのだと言う事を実感させてやりたかった。
吾郎がそうして、少しずつでも健康に近づいて、その事を喜べるようにしてやりたかった。
だから・・・・
そのために強いられた精神的な緊張も普段の比ではなかった。
これで、吾郎の望む結果を出せなかったら。
そんな不安がいつも、脳裏を掠め、自分が不安に陥れば、吾郎が何を誰を信じればいいのか、
分からなくなる、そんな思いで、ただ、がむしゃらに良い結果が出る事だけを祈るように
願って。
現実にこの1週間、ただの一度も8度を越す発熱をしなかった事だけでも、二人にとっては
奇跡に近い状態で。
まだ、一日が終わった訳ではないけれど、こうして、当日を望んだ通りに迎えられたその
事に、木村の緊張が僅かに解れる。
ふわり・・・と包み込むような穏やかな睡魔に誘われて、その淵に正に手を掛けようとした
瞬間。
「お待たせ」
想像したよりもずっと速く、吾郎が助手席のドアを開けた。
はっとして身をお越し、倒したシートも戻して。
「もしかして寝てた?」
ほんの少し曇り掛けた吾郎の表情に、いつもの笑みを返して。
「速かったな」
声を掛ける。
「うん。注文はしてあったから。受け取って代金、支払って来ただけだから。ほんとは
病院の方へ配達してもらう事も可能だったんだけどさ、どうせだったら、自分で受け取りに
来たいかなぁ、って」
手に提げていた2つの紙袋を丁寧に後ろの席に置きながら、そんな説明をして見せて。
ほんの一瞬、たったそれだけのために?
木村の胸の内にそんな疑問が湧く。
そんな木村の思いを見透かしたように
「今日のメインイベントはこれからだよ?」
吾郎が笑う。
そうして、吾郎が次に指定した場所は都内の某有名ホテルだった。
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