「外出許可が欲しいんだけど」
いつものようにバイタルチェックをしている木村の耳に、何の前触れもなく、突然、そんな
声が流れ込んで来て、木村は脈を計っていた手を止めて、思わず、まじまじとその顔を
見詰めた。
「は?」
「・・・・だから。外出許可が欲しいんだけど」
そんな風に露骨に見詰められる居心地の悪さを隠そうともせず、不機嫌そうに眉を顰め、
吾郎は木村の視線を避けるように顔を背け、早口で同じセリフをもう一度、口にする。
「ガイシュツキョカ?」
聞き慣れない日本語を聞いた外国人のように、木村は微妙なアクセントでその言葉を
オウム返しで口にする。
吾郎にとって、外の世界は親の仇のような、自分にとって忌むべきものとでも考えている
風に、窓を開けて外を見る事でさえ、拒絶の色を表していた吾郎の口から出た『外出許可』の
言葉。
吾郎が何を意としてその言葉を口にしたのか、木村は思いもかけない熱心さと真剣さと、
加えて凄いスピードでその意味を想像して見る。
迂闊な返事は出来ない。
けれど、この吾郎からの申し出が自分の気持ちを想像以上に躍らせている事は確かで。
もう一度、脈を図りながら、自分の脈拍の方が余程、踊っている事を知られはしまいか、と
そんな懸念がふと胸をよぎる事すら楽しく感じられて。
「ガイシュツキョカ?」と、妙なアクセントで発音したきり、黙り込んで再び、バイタル
チェックに専念し始めた木村の横顔を何となく眺めながら。
木村から答えが返って来ない事に、微かな苛立ちを感じ始めた頃
「38.2分、か。相変わらず、熱あんな」
木村は体温計を睨んで溜息をついた。
以前、勝手な数値をでっちあげて、それを容易く見破られ、強引に子供のように扱われて
以来そういう下らない抵抗をする事は止めた。
なので、最近は極、当たり前にちゃんとした数値を木村はキチンと把握していて。
「ここ1週間、上がったり、下がったり、って感じだからな。朝から熱があるのは余り
いい傾向じゃない。外出・・・・は、ちょっと、今は、な・・・・」
折角、自分からそう言い出した吾郎の気持ちをいきなり挫く形の答えしか返せない自分が
酷く悔しかった。
しかし、正直に主治医として今の状態の吾郎に外出許可を出すのは、それこそ命の危険に
晒す事と意味を等しくして。
それは断固として避けなければならない事態。
ここで判断を誤る事は絶対に何があっても出来はしない。
「・・・・・そう」
明らか過ぎるほど明らかに落胆の色を隠そうともしない、ある意味、珍しい吾郎の態度が
更に木村を切なくさせる。
自分の無力さを突きつけられるようで、どういう心境の変化か図り得ないけれど、吾郎が
外出と言う言葉を、外に出たいと願った、そんなささやかな願いすら叶えてやる事が出来
なくて、自分がここに居る意味がどこに存在し得るんだろう、と。
「冗談。冗談だってば。ちょっと言って見たかっただけだよ。木村くんがどんな反応するか
見たかっただけ」
吾郎が自分を窺うようにして見ている事にさえ、気付かなかった。
自分は今、一体、どんな表情をして見せていた、と言うんだろう。
こんな風に・・・・
落胆しているはずの吾郎から、こんな風に慰められるほどに。
わざとらしく、いつもの小憎らしい様を纏って、吾郎はそんな言葉を口にして。
「自分の体調ぐらいは自覚してる。無理な事なんか最初から分かってた。そういう事、俺が
言ったら木村くんが驚くと思っただけだから。木村くんをちょっと驚かせたかっただけ
だって」
暗い嘲笑を浮かべて、木村を見遣る瞳が僅かに揺らぐ。
「ちょっと病院の中庭に出るぐれぇだったら・・・・」
「もういいんだったら!!冗談だって言ってるじゃん!!」
不意に声を荒立てた吾郎に木村は慌てて言葉を飲み込む。
今、この状態で吾郎を興奮させる事がどんなに危険な事かも承知しきっている。
口を閉じた木村と、口を閉ざした吾郎と、二人きりの病室は一瞬にして重く息苦しい空気に
満たされた。
「何とか・・・考えるから」
ただ、一言だけ言い置いて、木村は後ろ髪を引かれる思いで病室を後にした。
3月。
この時期の吾郎の体調は酷く不安定で。
正直、外出許可など以ての外の状態で。
何の目的で、どういう理由で外出したい、と言い出したのか、その理由を問うてみたい、
と思いはするものの・・・・
「1週間お前の体調見て、熱が一日も38度を越さなかったら・・・天気のいい穏やかな
暖かい日に1、2時間程度、外出が出来ない事もねぇ。それが今の限界。もろちん、主治医の
俺の同行つき」
昨夜、一晩掛けてあらゆるデータを解析した上で、木村が下した限界ぎりぎりの判断は
それだった。
「・・・13日か14日に外出したい。1、2時間じゃ・・・足りない」
吾郎は木村の必死の譲歩をいとも容易く跳ね除けた。
どうやらかなり、明確な目的が吾郎の中にはあるらしい事を読み取る。
「何でその日に拘んだ?何かあんのか?」
「・・・・別に」
案の定、吾郎から返って来た答えは全く意味の成さない一言で。
13日か14日・・・・
3月14日・・・・・
一瞬、何かが頭を掠めて。
何かの日だった気がする。
3月14日・・・・・3月14日・・・・・3月14日・・・・・
頭の中で3度ほど繰り返して。
「・・・・あ?」
思い当たった事は確かにあったが・・・・それを吾郎が目的にしているのかどうか、明確な
所は分かり得ない。
第一・・・・木村の想像がもし、外れていないとしても、その日に限定する必要性は
そんなに強くは感じられない。
・・・・・まさか、とは思うけど・・・何か、お返し、とか、考えてる、とか言う?
100%否定出来る想像ではなく、かと言って確信の得られる想像でも、もちろんなく。
「分かるか?お前の体調次第なんだ。お前が本気でそうしたい、って強く願うんだったら、
不可能なんかじゃねぇんだよ。お前の気持ち次第なんだって。ちゃんと毎日、きちんと
3食メシ食って、薬飲んで、お前が元気になりてぇって本気で願や、どうにでもなる。
俺が保証してやるから」
「・・・・木村くんのそういう医学的根拠の欠片もない持論を俺が受け付けない、って
いつになったら学習してくれんの?」
「医学的根拠?そんなもんがなきゃ、信じらんねぇのか?」
「当たり前でしょ」
「んじゃ、待ってろ。持って来てやるから、医学的根拠」
「え?ちょ・・・木村くん?!」
驚いて木村を呼び止めようととする吾郎の声を背中で聞き流して、木村は医局の自分の
デスクに急ぐ。
そして、一冊のファイルを携えて再び吾郎の病室を訪れ。
「これはある薬の臨床実験のデータだ。治癒は不可能とされて来た病気の特効薬で、その
効果を記してある」
そうして、それらの数値がグラフ化されたデータを示して。
「患者にはその病気の特効薬だと知らせてある。必ず効果があるはずだから、指示に従って
きちんと飲むように申し渡して、データを取った結果がこれだ。分かるか?3日もしない
うちに段々と少しずつ症状が改善されて、ひとつき後にはほぼ完治してんのが分かるか?」
「・・・・・うん」
一応、データの意味する所を読み取って頷きはするもの、これが木村の言う医学的根拠と
どう結びつくのかが、理解しかねる、と言いたげに、吾郎は曖昧に唸る。
「この処方されている薬は実はビタミン剤と、そして、小麦粉だ」
「は?」
「そして、この病状を示していた患者は心療内科を受診していた」
「・・・・・・」
「特効薬だと聞かされて、必ず直ると信じさせられて、出した結果がこれ、だ」
「・・・・詐欺だ」
「病は気からの臨床データだ。お前の言う、ちゃんとした医学的根拠だろ。どうだ?信じる
気になったか?」
「・・・・・・・」
「・・・・お前がこの患者ぐらい素直に医者の言う事、聞くヤツだったら・・・お前は
とっくに退院してる」
「・・・・・・・」
完全に不貞腐れて手元のファイルを乱暴に、手近にあった机の上に叩きつけるようにして、
ベッドに身体を投げ出した吾郎は、木村に背中を向けた。
「出てけ・・・!」
「我儘なお坊ちゃまはご機嫌を損ねました、と?」
「出てけよ。どうせ、俺は素直じゃないよ。治んなくたっていいんだよ。治るはずなんか
ないんだ。治ったってしょうがないんだから。俺なんか、どうせ・・・・」
ゆっくりとベッドの周囲を巡って、吾郎が顔を背けたそちら側に移動して。
ベッドの高さに目線を合わせてしゃがみ込む。
「・・・・詐欺でいいじゃん。元気になりゃいいじゃん。こんなに明確なデータがあんだ
から。もっと、自分、信じてやれよ。ホワイトデーにお返ししたい、って思った自分の
気持ちを信じてやれよ。そのために外出したいって願った自分の優しさだとか素直さだとか
可愛さだとか、全部、お前なんだから。どんなにこっちがお前を治してやりてぇって願っても
お前が治りてぇって思ってくんねぇとどうしようもねぇんだよ。医者なんかほんとに
無力なんだからよ。3月14日。一日外出出来るように一緒に頑張ろうぜ。その日一日、
お前にちゃんと付き合って、責任持ってやるから」
悔しそうに睨み返して来る眼差しの向こうに戸惑いと不安が見え隠れする。
そんな事が本当に可能なのか、見極めようとするかのように。
木村の言葉を信じていいのか、確かめようとするかのように。
「お前はお前が思ってるほど嫌なヤツでも、どうしようもねぇヤツでもねぇから。俺は
お前の事、好きだぞ」
「・・・・あっそ」
薄い唇が見事に歪んで、その眼差しに呆れた笑みが浮いた。
「木村くんがそういう趣味だとは知らなかったよ。あのチョコ本命チョコだった訳だ」
完全にバカにした嘲笑を隠そうとさえせずに。
けれど、それは僅かに楽しそうな色を秘めて。
いつもの吾郎流のジョークに木村はほっと胸を撫で下ろす。
「そういう事だ。14日はデートだからな。ちゃんと体調、整えとけよ。すっぽかしたら
承知しねぇぞ」
「楽しみにしてるよ。何、着て行こうか?いっそペアルックとか?」
「おぅ。そりゃいいな。って、ま、それだけ下らない事言える元気がありゃ上等」
木村もまた、口端にシニカルな笑みを浮かべて。
本当に吾郎がその気になって、治療に前向きになってくれる事を祈るように願いながら、
病室を後にする。
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