目標の日曜日は絶好の花見日和に恵まれ、優しい春らしい暖かい陽射しと柔らかな風が
心地良い。
ひと月前、ホテルのレストランで食事をするために外出した時の吾郎のファッションに
比べると、今日の吾郎は、桜の花を模したような淡い、けれど、幾分、着こなしの難しそうな
甘いサーモンピンクの薄手のセーターにラフなパーカーを重ね、ボトムは身体のラインに
フィットする皮のパンツと言うカジュアルないでたちで。
そんな吾郎と連れ立って病院の廊下を歩いていると、必ずと言っていいほど、看護師達が
振り返り、中には親しげに声を掛けて来る者もあって。
「あら、吾郎くん、オシャレしちゃって。木村センセとお出掛け?」
「木村先生、今日はまた、吾郎くんとデートですか?フィアンセに言いつけちゃいますよぉ」
きゃらきゃらと黄色い笑い声に彩られたセリフに、木村はシニカルな笑みを返す。
「羨まし〜だろ〜」
わざとらしく吾郎の肩を抱き寄せ、そんな言葉を投げ返したりもして。
そんな木村に吾郎は軽く肩を竦め、ひんやりした冷笑を浮かべただけだった。
今日のために木村がレンタルしたワイドカーには、既に3人の先客が居て。
「吾郎ちゃ〜ん、おはよぉ!!久し振りぃ!!」
テンションの高い慎吾の挨拶を皮切りに
「今日の顔色、凄いいいよ。体調いいんだね?」
吾郎の体調を気遣う優しい剛の声と
「・・・・ぅす・・・」
白地に色鮮やかなミッキーの編み込み模様のニットキャップを目深に被った中居の不機嫌
そうなくぐもった声が続いた。
驚いて目を真ん丸くした吾郎が木村を振り返り。
「いや・・・悪ぃ。ちょっとした手違いがあって、こいつらまで便乗してきやがって」
木村が苦笑を浮かべた。
「何言ってんの、木村くん?!お花見は大人数の方が楽しいに決まってるじゃない?!
ほら、俺なんか、朝から張り切ってお弁当、こぉんなに作っちゃったんだからねっ!!」
慎吾が掲げたのは一抱えもありそうな大きなバスケットで。
「誰が食うんだよ、んなに・・・・・」
既にして疲れているらしい中居が溜息まじりに呟く。
「俺はね、飲み物!!ビールに酎ハイにジュースにワインもあるよ」
剛が嬉しそうに両手にビニル袋を掲げる。
「誰が、んなに飲むんだよ・・・・」
またもや低い中居の呟きに
「こんな事言ってるけど、ほんとはこのヒトが一番ノリノリなんだよ。カラオケセット、
持って来てんだからっ!!」
慎吾が悪戯っぽい笑みを投げる。
「るせぇよ!!花見っつったら、カラオケだべ?!」
不意に、それまでシートに身を埋めていた中居が半身を跳ね起こす。
「・・・・・木村くん・・・・俺、やっぱり、行くの止めたい・・・・」
溜息と共に、極々小さく呟かれた吾郎のそんなセリフは、既にして後部座席で盛り上がって
いる3人の喧騒に完全にかき消されてしまった。
吾郎を助手席に乗せて、木村がハンドルを握り、車を小1時間ほど走らせたそこは、
意外な事に桜の名所と呼ばれるような場所ではなく、かと言って、とっておきの穴場的
場所でもなく。
極々普通の川べりの土手の桜並木で。
路肩に車を停車させた木村に後部座席からブーイングの声が上がった。
「おい、木村?!おめぇ、マジでんなとこで花見しよう、とか思ってねぇべ?!」
やや掠れ気味の低音を更に低く尖らせて、中居が木村に詰め寄る。
「いや、マジだから。吾郎を花見に連れて来んだったら、ここって最初から決めてた」
「何でここ、なの?」
慎吾も信じられない、と言わんばかりに木村に突っ込む。
「俺が好きな場所だから」
何の躊躇いもなく、その答えを口にした木村に、もはや、誰も異議を唱える事は出来なく
なってしまっていた。
「いいんじゃない?そんなに悪くないよ。土手を降りてさ、川べりはかなり広いし、
ゆったりとお花見、出来そうじゃない?」
のんびりとした口調で、木村の意見を尊重する剛に、
「だってよぉ・・・・こぉんなふっつーのとこだったら、まさか、カラオケとか出来ねぇべ?」
中居がまだ、納得行かなさげに、口を尖らせる。
「別に平気なんじゃないの?ここでカラオケしたとしても、近隣住民から苦情が来る事は
なさそうだよ?」
にこにこと人のいい笑顔を返されて、中居もさすがに言葉を詰まらせる。
「まぁ、いいよね。桜があってさ、おいしいお弁当食べて、お酒飲めれば、別にどこだってさ」
開き直ったように慎吾も同意を示して。
「・・・・しゃーねーなぁ・・・・」
渋々、中居もその場所に同意して。
「そうと決まれば、早速、シート広げて、準備、準備っと!!」
一番に慎吾が車から飛び出し、一気に土手を駆け下りると勢い良く、バッ!!っと巨大な
ブルーシートを広げた。
剛も慎吾に続いて車を飛び出し、両手に抱えきれないほどの荷物を抱えて、土手を上手く
バランスを取りながら、滑るようにして降りて行く。
その後にノロノロと手ぶらの中居が続き。
助手席の窓から、吾郎はそんな様子をじっと眺めていた。
「木村くんは?行かなくていいの?」
運転席のシートをやや、倒し加減にして、ゆっくりと身体を預けている木村を振り返って
吾郎が問う。
「俺?俺はここまで車、運転して来たからな。ここはあいつらに任せときゃいいんじゃねぇ?」
お気楽に言って、木村は軽く口元を綻ばせた。
「木村く〜ん!!吾郎ちゃ〜ん?!準備、出来たよぉ!!早く降りて来ないと、お弁当
全部、食べちゃうよぉ!!」
決して、誇張とは思えない慎吾のセリフが土手の下から響いて来る。
「よっしゃ!!真打登場と参りますか」
にやり、と、楽しげに目元を細めた木村が、一足先に車を降り、すかさず、助手席のドアを
開けて吾郎をエスコートするように、その腕を取る。
「足元、滑るかも知んねぇからな。気ぃつけろ」
吾郎の足元を彩る革靴に視線を落として、木村が注意を促したその傍から、いきなり、
吾郎の身体が、ズルっと斜め後ろに傾いで。
「きゃぁっ!!」
反射的に吾郎の背中と腕を支えた木村の腕の中に、吾郎は軽く抱き止められて。
「お前ぇ・・・・きゃあ、とか言うなよな。っつーか、今、気ぃつけろっつったばっか
だろぉがっ!人の話、ちゃんと聞けよ」
華奢な吾郎の背中にしっかりと腕を回し、ついでに腰を抱き寄せるようにして、木村が
至近距離から注意を促すその様に、土手の下からは、呆れ返った冷たい視線と、疲れた
溜息がどよめくのが伝わって来るのは、木村自身も気付いてはいたけれど。
「・・・・ごめん」
まともに視線のぶつかる、下手をすれば、吐息さえ触れそうな距離にたじろいで、吾郎が
視線を足元に逸らし、小さく詫びを入れて。
「危なっかしいから、このまま、抱いてくか?」
本気でそうし掛ける木村の腕を辛うじて逃れて、吾郎が喚く。
「絶対にヤだっ!!」
「ほら、んな事言ってっと、ほんとにすっ転んでも知んねぇぞ」
にやにやと性質の悪い笑みを浮かべ、自分の視線を捉えて来る木村から思いっきり顔を
背けて、吾郎は慎重に土手を下って行く。
どうにか無事、ブルーシートまで到着し
「ほら!!ちゃぁんと、転ばずに来れたじゃない?!」
まだ、土手の上に佇む木村に、吾郎が得意満面で声を張り上げる。
「やったね、吾郎ちゃん?!凄いじゃない!!」
吾郎の嬉しそうな様子に剛も感動したように、そんなセリフを口に上らせて。
「ありがと、剛!」
剛を振り返った吾郎の顔に満面の笑みが咲く。
・・・・・いや、全っ然、そんな大した事じゃないから・・・・
内心で、慎吾と中居は同じ呟きを零していた。
それからは、桜の花などそっちのけで、飲み食いが始まり。
まるで、ショベルカーで土を掘り起こして行くような食べっぷりの慎吾や、砂漠で乾いた
喉を癒す遭難者のような勢いで、次から次へとアルコール類を空にして行く剛の飲みっぷり
等を見ているだけで、圧倒されて、既に吾郎は完璧に食欲をなくしていて。
こういう光景が初めて、と言う訳でもなかったけれど。
「ほら。ちょっとぐらい、食えよ。お前に食わせるために、俺も朝から作って来たんだからよ」
小皿に上品に取り分けた色とりどりのおかずや、一口サイズの変わりおにぎりを吾郎の
手元に押し付けるようにして手渡して。
「自分で食えねぇんだったら、俺が食わしてやろぉか?」
事の他、楽しげに綻ばされた木村の口元に、吾郎は軽く肩を竦めて見せて。
「お心遣いは嬉しいけど、一人でちゃんと食べられるから、ご心配なく」
愛想もクソもない冷たい声で木村の申し出をシャットアウトして。
もう何度目になるか分からない木村の手料理を、吾郎はゆっくりと口に運ぶ。
「あぁーーーっ!!吾郎ちゃんてば、俺の作った料理もちゃんと食べてよねっ!!」
いきなり、耳をつんざくほどの大声に、吾郎は驚いて喉を詰まらせ、派手に咳き込む。
まるで、骨髄反射のように、木村が片手で吾郎の皿を受け止め、反対の手はしっかり背中を
さすって。
「ほら、大丈夫か?しっかりしろ」
吾郎を落ち着かせるように耳元で、静かに柔らかく声を届ける。
間もなく、咳も収まり、少し目を潤ませた吾郎が木村を見上げ
「・・・・・・ありがと」
微かな呟きを漏らして。
「吾郎ちゃぁん、ごめ〜ん。まさか、そんなに驚くなんて思わなくてさぁ。脅かすつもり
なんかこれっぽっちもなかったんだよ?」
慎吾が申し訳なさそうに、その大きな身体を縮こまらせて、頭を下げた。
「・・・・うん・・・・いいよ。もう平気だから・・・・」
小さく吾郎が頷き、木村が険しい視線を慎吾に投げる。
「お前にとってはどうって事ねぇ事でも吾郎にとっちゃ、一大事な事だってあんだからな。
気ぃつけろ」
「・・・・・すいません」
しゅん・・・となって項垂れる慎吾を気の毒そうに見遣って剛が
「ほら。そんなに落ち込むなよ。ビール、まだ、あるよ。飲む?」
慎吾の手にビニル袋から取り出したビールの缶を握らせて。
「ん・・・・ありがと。つよぽんて優しいよね」
ほんの少しだけ目を潤ませた慎吾が、そのビールのプルトップを引いた瞬間。
勢い良く中の液体が噴出して。
「わーーーーっ?!」
「ぎゃぁぁぁぁ!!」
「慎吾っ!!何しやがんだっ!!」
「俺じゃないって!!つよぽんが渡してくれたビール開けたらっ!!」
大仰な悲鳴の上に、ビールが噴水のように降り掛かる。
その惨事の中、木村は一瞬速く、吾郎の腕を引っ掴んで、後方に身体を反らせ。
勢い余って、仰向けに草の上に倒れ込み、腕を掴まれたままの吾郎が、その木村の
上に覆い被さる形で倒れ込んで来て。
反射的に抱き止める形で吾郎の背中に腕を回し、ほとんど、抱き合う形で草の上に
身体を投げ出し。
「いっつー・・・・」
軽く、木村が片頬を引き攣らせる。
「ごめん。大丈夫?」
慌てたように身を起こそうともがく吾郎の背中に、木村は相変わらず腕を回したまま。
「平気だけどな、こんぐれぇは」
「えっと・・・・あのさ・・・ちょっと・・・・俺、起き上がりたいんだけど」
木村の腕の中でもぞもぞと身動ぎする吾郎に、木村は面白そうに益々、腕に力を込めて。
「ちょっと?!木村くん?!」
吾郎の上擦った声に、ビールの噴水の惨事に見舞われた3人が、漸く、二人の状況に
気付き。
「こぉら!!何、セクハラしてやがんだよっ!!」
中居が木村の脇腹を蹴飛ばし、慎吾が両腕を吾郎の背中からひっぺがし、剛が吾郎に
手を差し伸べる。
そんなこんなで、漸く、飲み食いにも人心地ついて、やっと、それぞれの視線が桜に
向かい掛ける。
ゆっくりと土手を登り、桜の木のすぐ下までやって来て、やおら、その木を見上げた
中居が一言。
「んだよ、木村ぁ・・・さっきはあんまし、気ぃつかねかったけど、桜、ほとんど
散っちまってんじゃんかよ」
確かに中居の指摘した通り、桜並木ではあるけれど、どの桜も花は半分ほどしか残って
おらず、代わりに目に眩しい新芽が芽吹いていて。
「・・・・・へぇ」
吾郎がそんな桜を見上げて、感心したように声を上げた。
「桜ってさ、桜花爛漫とか言われるぐらい、咲き誇る花が有名だけどさ・・・・俺、
こういう桜も、嫌いじゃないよ。優しいピンクと柔らかい緑のコントラストが凄く綺麗で。
こんな風にまじまじと桜、見た事ないせいかも知れないけど・・・・桜にもこんな
表情があるんだ、って・・・・お花見の時期を過ぎてさ、誰も見向きもしなくなっても、
こうして、新芽を芽吹かせて、また、新しい命を、ただ、黙々と紡いで行くって、何か、
ちょっと感動的でさえある気がする」
吾郎の唇が紡ぐ言葉に熱心に聞き入っていた木村が、柔らかい色を目元に滲ませて、吾郎の
肩を軽く抱き寄せる。
「・・・・俺は・・・お前がそんなセリフを口にしてくれた、今、この瞬間に感謝して、
感動してる」
・・・・・・・はぁ・・・・・・・
僅かに湿り気を帯びた木村の声に、三人三様の溜息が辺りに満ちた事は、今更、言うまでも
ない事ではあるけれど。
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